第80話:生徒会と「消えたケーキ」
午後の陽光が生徒会室の窓から差し込む中、俺とエマは廊下で鉢合わせた。
「あら、テル。お疲れさま」
エマの透明感のある青い瞳が、久しぶりの学院生活に戻った俺を見つめて微かに安堵の色を浮かべる。三つ編みにした銀色の髪が、窓からの光を受けて柔らかく輝いていた。
「エマ、ちょうど良かった。一緒に生徒会室に行こう」
二人で扉を開けると、アンナが机に向かって何やら熱心に本を読んでいた。
金褐色の髪が日光に輝き、いつもの活発な様子とは違って真剣な表情を浮かべている。制服の胸元に付けた花の刺繍が、彼女の集中した呼吸に合わせて微かに上下していた。
「珍しいですね、アンナがそんなに集中して本を読むなんて。何の本ですか?」
エマが興味深そうに近づくと、アンナは屈託のない笑顔で表紙を見せた。
「『売春論』よ。作者は...『ある俗人』だって」
「ば...売春...アンナ...あなた...」
エマの頬が瞬時に真っ赤に染まり、三つ編みにした銀色の髪がわずかに震えた。普段の理性的な彼女からは想像できないほど動揺している。
「すごく面白い本だよ、読んでみなよ、エマ」
アンナは無邪気にページをめくりながら本を差し出す。
「いえ、私は...そのような...」
エマは慌てて両手を振って拒否した。
「何で恥ずかしがってるの?売春を単純に禁止するだけじゃダメで、なぜ公的な仕組みが必要なのかが論理的に書いてあるのよ。とても勉強になるの」
「...そ、そういう内容の本なのですね...」
エマは俯いて小さくつぶやいた。理性では学術的な議論だと理解していても、やはり気恥ずかしさは隠せないようだった。
「物騒な話が聞こえてきたけれど...」
その時、ジーナが生徒会室に入ってきた。
銀灰色のショートカットを軽く揺らし、鋭い青緑色の瞳で状況を瞬時に把握しようとしている。コバルトブルーのマントが颯爽となびいていた。
「ジーナ、『売春論』、面白いよ」
アンナが無邪気に本を見せると、ジーナは知的な関心を示すように眉を上げた。
「なるほど...社会問題を経済学的に分析するアプローチは確かに有効でしょうね。対立する価値観を統合する視点としても興味深い」
そこに小柄なミルがやってきた。
栗色のボブカットを揺らしながら、大きな青灰色の瞳できょろきょろと室内を見回している。四つ葉のクローバーのブローチが胸元で光っていた。
「あれ?机の上に置いたケーキがない...」
「ケーキ? ないよ」
アンナが本から顔を上げて首をかしげる。
エマも辺りを見回して確認した。
「確かに、部屋のどこにも見当たりませんね」
「絶対におかしいよ。ピケティ氏のケーキ屋で『哲学者のデザート』っていう限定品を買ってきたのに。今日だけの特別なケーキだったのに」
ミルの眉がハの字に下がり、深刻な表情を浮かべた。
「消えたケーキ...興味深い謎だね」
ジーナが思索深げに顎に手を当てる。
「誰かが勝手に入ってきて食べたんじゃないか?」
俺は素直な推測を口にした。
「いや、その可能性は低いだろう。生徒会室に一般生徒が無断で入ることはほとんどないし、ましてや生徒会役員のケーキを勝手に食べるなど...考えにくいな」
ジーナの分析的な視点が光る。すらりとした体を椅子にもたれかけながら冷静に状況を整理していた。
「みんなその場を動かないで!探偵を連れてくるから」
俺は突然立ち上がった。
「探偵?」
皆が首をかしげる。
しばらくして、俺は細いブラックフレームの眼鏡をかけた小ジャンヌを連れて戻ってきた。
セミロングの黒髪と薄茶色の瞳、白すぎる肌が印象的な彼女は、華奢な肩を包む黒いドレス姿で現れた。いつものように思索的な雰囲気を漂わせている。
俺が事情を説明すると、小ジャンヌは静かに頷いた。
「なるほど...内部の犯行の可能性が高いとすると、私のような公正な第三者による捜査が必要ですね」
眼鏡を軽く押し上げる仕草に、探偵としての雰囲気が漂った。
「そういうこと。小ジャンヌ、君の推理力に期待してるよ」
小ジャンヌは室内をゆっくりと見回し、鋭い観察眼で詳細を確認し始めた。
「まず、基本的な事実確認から始めましょう。エマ、あなたはケーキを食べましたか?」
「いいえ、食べていません」
エマは即座にきっぱりと答えた。
「あなたは正直なことで有名ですから、嘘をついている可能性は極めて低い。犯人ではありませんね」
小ジャンヌの冷静な分析に、エマは少しほっとした表情を見せた。
「ちなみに、ケーキを『飲んで』もいないよね?」
俺は突然、奇妙な質問を投げかけた。
「え? 私は大蛇か何かですか?」
エマが眉をひそめて抗議の声を上げる。薄く赤らんだ頬が、彼女の困惑を物語っていた。
「いや、『カレーは飲み物』とか言う人が俺の国にはいたんだ。食べてないけど飲んだ、という可能性も一応考えなきゃと思って」
俺は慌てて言い訳する。
「では、この部屋で実際にケーキを目撃した人はいますか?」
小ジャンヌが本格的な捜査を開始した。眼鏡の奥の薄茶色の瞳が、真剣に各人の表情を観察している。
「私が朝一番に置いたんだから、当然見てるよ」
ミルが自信満々に答える。
「私は朝、生徒会室に来たけど、その時はケーキに気づかなかったな」
ジーナが記憶を辿るように眉を寄せる。
「俺は今初めて来たから、見てない」
俺も証言する。
みんなの視線がミルに集まった。まさか自分で食べて忘れているのではないかという疑いの目だった。
「ミル、本当に自分では食べていませんね?」
小ジャンヌが穏やかだが鋭い口調で尋ねる。
「食べてないったら!何で私が疑われるの!」
ミルが小柄な体を震わせて抗議した。大きな青灰色の瞳に涙が浮かんでいる。
その時、生徒会室の扉が静かに開いて、ルーシーが入ってきた。
漆黒の長い髪を腰まで流し、白いブラウスに深紅のリボンを締めた凛とした姿で現れる。紺碧色の鋭い瞳で室内の緊迫した雰囲気を瞬時に察知していた。
「私は朝、机の上にケーキがあるのを確認しました」
ルーシーの証言に、ミルの顔がぱっと明るくなった。
「ほら!私、嘘ついてないでしょ?」
さっきまでふくれ面だったミルが、今度は得意そうな表情を見せる。
「朝8時過ぎに、確かにケーキが机の上に置いてありました。しかし、衛生上の問題があると判断し、あちらのガラス戸棚に移動させました」
ルーシーが正確な言葉で説明しながら、部屋の隅にあるガラス戸棚を指差した。
「でも、今はそこにもないよね?」
俺がガラス戸棚を覗き込む。中にはフォークやお皿などの食器類がいくつか置いてあるだけで、ケーキの姿はない。
夢中で本を読んでいたアンナが、ようやく『売春論』から顔を上げて言った。
「あー、私も見たよ。朝、机にケーキ、確かにあったわ。実は食べようかとちょっと思った」
緑色の瞳を輝かせながら率直に告白する。
「でもアンナは結局食べなかったんだよね?」
俺が確認する。
「私だったら食べたら『ケーキ、美味しかったよ』って普通に言うもの。隠す理由なんてないし」
アンナの飾らない性格がよく表れた答えだった。
小ジャンヌは眼鏡を直しながら、新たな質問を投げかけた。
「それでは、昨日この部屋でベル先生を見かけた人はいますか?」
「なぜベル先生の話が?」
俺は不思議に思った。
ジーナが記憶を辿るように答えた。
「ベル先生でしたら、確かに昨日の放課後、この部屋にいらしたね。珍しいことなので覚えている。何をされていたのかは...よく分からなかったのだけど」
青緑色の瞳を細めて思い出そうとしている。
小ジャンヌの薄茶色の瞳に、何かを理解した光が宿った。
「真相が見えました」
一同の注目が小ジャンヌに集まる。静寂が部屋を支配した。
「犯人は...大ジャンヌ校長です」
「え?」
「校長先生が?」
驚きの声が室内に響いた。
小ジャンヌは眼鏡を押し上げながら、冷静に推理を展開し始めた。
「事件の全貌は以下の通りです」
彼女は指を立てて順序立てて説明を始める。
「第一段階。昨日、ベル先生が生徒会室に来て、『売春論』という本をガラス戸棚に置いていきました」
アンナが手にしている本を見ながら、小ジャンヌは続ける。
「第二段階。今朝、ミルが『哲学者のデザート』を机の上に置きました」
「第三段階。その後アンナが来て、ケーキを食べようとしてフォークを探し、ガラス戸棚を開けた際に『売春論』を発見。本に関心が向き、それを持ち出したのです」
「どうして分かるの?」
アンナが困惑している。
「あなたは現在、その本の後半部分を読んでいます。朝に持ち出していなければ、そこまで読み進めることは不可能です」
小ジャンヌの鋭い観察力に一同が感嘆した。
「第四段階。ルーシーが来て、机の上のケーキを発見し、衛生上の理由でガラス戸棚の中に移動させました」
「第五段階。ジーナが来ましたが、戸棚の中のケーキには気づきませんでした」
「そして最終段階。大ジャンヌ校長が昼前に生徒会室を訪れ、ガラス戸棚の中からケーキを発見し、それをベル先生からの贈り物だと誤解して校長室に持ち帰り、召し上がったのです」
小ジャンヌの推理に、皆が息を呑んだ。
「でも、なぜベル先生が贈り物をした相手が校長先生と分かったのですか?」
エマが核心的な疑問を口にした。
小ジャンヌは眼鏡を軽く押し上げながら最後の説明を続けた。
「生徒会室に出入りでき、ベル先生が個人的に贈り物をする人物、と考えれば大ジャンヌしか該当者がいません」
「それに『売春論』の作者『ある俗人』は、実はベル先生のペンネームなのです。昨日、ベル先生は大ジャンヌ校長に『渡したいものを生徒会室の戸棚に入れておく』というメモを残していたと推測します。医務室も校長室も、不在時は施錠されるため、直接渡すことができなかったからです」
「しかし、戸棚の中の本をアンナが持ち去り、代わりにルーシーがケーキを入れたため、大ジャンヌ校長はケーキがベル先生からの贈り物だと勘違いして持ち帰ったのです」
完璧な推理に一同が感嘆していたその時、生徒会室の扉が開いた。
「見事な推理だったよ、小ジャンヌ」
茶色の無造作な髪をした大ジャンヌが、いつもの気さくな笑顔で現れた。ラフな服装の校長先生は、まったく悪びれる様子もなく親しみやすい雰囲気を醸し出している。
「それから、ミル、ケーキはとても美味しかったよ。ピケティ氏の『哲学者のデザート』だったね。ベルナデットからの心遣いだと思って、ありがたくいただいてしまったよ」
ミルの青灰色の瞳が複雑な表情を見せた。怒るべきなのか、諦めるべきなのか、困惑しているようだった。
「申し訳ないことをしたね。責任を取って、今からみんなでケーキを食べに行こう。私の奢りで」
大ジャンヌの提案に、一同の表情が一気に明るくなった。
「それは素晴らしいアイデアですね」
エマが微笑む。
「やったー!」
アンナが嬉しそうに『売春論』を閉じた。緑色の瞳が好奇心で輝いている。
「みんなが幸せになる最高の解決策ね」
ミルも小さく笑った。怒っていた顔が一転して、年相応の可愛らしい笑顔になる。
「対立から調和へ...見事な『止揚』だね」
ジーナが知的な満足感を示した。銀灰色の髪が光の加減で青味がかって見えていた。
こうして、生徒会室で起きた小さなミステリーは、温かな結末を迎えた。
小ジャンヌの鋭い洞察力と大ジャンヌの寛大さが、一つの誤解を楽しい思い出に変えてくれたのだった。




