第75話:エマと「遊び」
ヴァルドフェールから帰還してから数週間が経った休日の朝、俺は部屋でぼんやりと天井を見つめていた。左肩の傷はほぼ完治したものの、心の重荷は簡単には消えなかった。
そんな俺を見かねたのか、エマがためらいがちに声をかけてきた。
「あの、テル......」
振り返ると、エマが三つ編みにした銀色の髪の先を指先でそっと撫でながら、青い瞳で俺を見つめていた。いつもの理性的な表情とは違い、どこか困ったような表情を浮かべている。
「どうしたの?」
「その......よろしければ、買い物に付き合っていただけませんか?」
「買い物?」
俺は少し驚いた。エマが俺を買い物に誘うなんて珍しい。普段の彼女は必要なものがあると一人で効率的に買い物を済ませてしまうタイプだ。
「何か買うものでもあるの?」
エマは少し間を置いてから、小さな声で答えた。
「......ありません」
「え?」
「必要なものは計画的に決めて、お店で決められた間隔で購入していますので」
エマの答えに、俺は困惑した。
「じゃあ、買い物って......」
うつむくエマの頬がほんのりと桜色に染まった。
「実は、アンナに言われたんです。私がテルを買い物に誘うと喜ぶだろう、って」
「アンナが?」
「はい。でも......」
エマは胸元で細い指を組み合わせながら、不安そうに続ける。
「買い物を楽しむ方法が実は分かりません。すみません」
アンナが俺のことを気にかけてくれていることにも感謝したが、それ以上に、慣れない買い物に誘ってくれたエマの気持ちが嬉しかった。
「じゃあ、こうしよう」
俺は立ち上がって、エマの前に立った。
「今日は、俺がエマに買いたいものを買ってあげる日にしよう」
「いえ、それは申し訳ないです」
エマは慌てて首を振った。銀色の髪がふわりと揺れて、光を受けて輝く。
「いつかエマが教えてくれた『コペルニクス的転回』って奴だよ。エマにはずっと看病してもらったし、俺は報奨金がもらえるみたいだし、なにより、人に何かをプレゼントするのは楽しいことなんだ」
「わかりました。テルが嬉しいのであれば、そうしましょう」
結局、エマは俺の提案を受け入れてくれた。
———
クロイツベルクの中心部は、休日ということもあって多くの人で賑わっていた。石畳の道に面して様々な店が軒を連ね、商人たちの呼び声が響いている。まだ肌寒い街角を陽射しが暖かく照らし、歩く人々の表情も明るい。
俺たちが最初に向かったのは雑貨屋だった。
「何を買うのですか?」
「えーっと......」
俺は店内を見回した。陶器、布製品、装飾品、文房具など、様々なものが並んでいる。
「これなんてどう?」
俺が指差したのは、青い花の模様が描かれた小さな陶器の花瓶だった。
「花瓶ですか......でも、私たちの部屋に花を飾る習慣はありませんし......」
エマが首をかしげながら、細い指で花瓶の縁をそっと撫でる。その仕草はまるで、初めて触れる美しいものに対する遠慮がちな憧れのようだった。
「これから飾れば良いじゃないか」
「そうですけど......」
「時には『なんとなく気に入ったから』っていう理由で買い物をするのも楽しいんじゃないかな」
エマは花瓶を手に取って眺めた。陽光が差し込む店内で、彼女の透明感のある肌が美しく輝いている。
「確かに、美しい模様ですね。青い花が精密に描かれています」
「エマの瞳の色にも似てるし」
「私の瞳に......」
エマは照れたような表情を見せ、頬がほんのりと桜色に染まった。三つ編みの髪を片手で軽く触りながら、恥ずかしそうに微笑む。
「分かりました。これにしましょう」
俺たちはその花瓶を買うことにした。
その後、俺たちは服屋に向かった。
「今度は服ですか?」
「そう。エマに似合いそうな服を探してみよう」
服屋の店員は若い女性で、エマを一目見ると興奮したような表情を見せた。
「まあ、とても美しいお客様ですね!この方でしたら、どんな服でも似合いますよ」
店員はエマの手を取って、店の奥に連れて行った。エマは戸惑いながらも、素直に従っていく。
「ちょっと、こちらの服を試着してみてください」
差し出されたのは、淡いピンクのワンピースだった。普段のエマは白いブラウスに黒いスカートという実用的な服装をしているので、こういった可愛らしい服を着ている姿を見たことがなかった。
「でも、私にはこのような服は......」
エマは困ったように眉を寄せ、ワンピースを見つめている。
「いいから、とりあえず試着してみよう」
俺は店員と一緒にエマを説得した。
しばらくして、試着室からエマが出てきた瞬間、俺は言葉を失った。
淡いピンクのワンピースを着たエマは、普段とは違った魅力を放っていた。柔らかさが強調され、銀色の髪との対比も美しい。まるで春の女神のような美しさだった。胸元の控えめなレースが上品さを際立たせ、スカートのふんわりとしたラインが彼女の華奢な体型を美しく包んでいる。
「どうですか?」
店員が期待に満ちた表情で尋ねてくる。
「すごく、良いです」
俺は正直な感想を述べた。
「本当ですか?」
エマは照れたような表情で鏡を見つめている。頬がほんのりと赤らみ、青い瞳が不安そうに揺れている。
「でも、このような服を着る機会はありませんよ」
「そういう機会を作ればいいんだよ」
「機会を作る?」
「例えば、今度、二人でおしゃれなレストランに食事に行くとか」
エマの瞳が少し大きくなった。透明感のある青い瞳に、驚きと期待が混じったような光が宿る。
「時には合理性を忘れて、感情に従うことも大切なんだよ」
「感情に従う......」
エマは真剣に考え込んでいるようだった。
「わかりました。勉強だと思って、試してみます」
結局、俺たちはそのワンピースも購入することにした。
次に立ち寄ったのは本屋だった。
「今度は本ですか?」
「そう。エマが読みたい本があるかもしれないからね」
本屋の中に入ると、エマの表情が明るくなった。やはり彼女にとって本は特別なもののようだ。
「たくさんの本......」
エマは目を輝かせながら、書棚を見回した。そして迷うことなく哲学書のコーナーに向かい始めた。
「どれか気になる本はある?」
「実は、『人間知性研究』を読んでみたいと思っていました」
「ちょっと待って、エマ」
俺は彼女を制止した。
「え?」
エマは困ったような表情を浮かべ、首をかしげた。その仕草がまるで困った子猫のようで可愛らしい。
「せっかくだから、エマが普段絶対に読まない本を買ってみない?」
「普段読まない本…を買って、何の意味があるのですか?」
エマは首をかしげた。
「自分で決めた世界の領域から出ることで、思いがけない出会いがあるかもしれない」
俺は店内を見回しながら続けた。
「エマはいつも哲学書しか読まないよね?そういう機会は意識的に作らないと」
俺はエマの肩に手を置いた。華奢な肩が手のひらに温かく伝わってくる。
「目をつぶって、適当に本を選んでみて」
「目をつぶって?」
「そう。運命に任せるんだ」
エマは戸惑ったような表情を見せたが、俺の熱心な説得に負けて、目をつむった。そして、書棚の前で手を伸ばし、一冊の本を取った。
「これですね」
エマが目を開けて手にした本の表紙を見て、俺は思わず絶句した。
「巧妙に人を苦しめる技術について、その理論と実際」
エマは本のタイトルを読み上げると、困惑した表情を浮かべた。眉をわずかに寄せて、首をかしげている。
「これは......一体どういう本なのでしょうか?」
「えーっと......」
俺も動揺していた。よりによって、こんな物騒なタイトルの本を選ぶなんて。
エマは本を開いて、中身を見始めた。
「『夫が客を家に連れて来た時は機嫌を悪くしなさい』……『夫がひとりで外出すると怒り、あなたを一緒に連れて行く時には面倒臭くなりなさい』......」
エマが内容を読み上げると、俺は冷や汗をかいた。
「エマ、それは......」
しかし、エマは真剣な表情で本を読み続けていた。透明感のある青い瞳が文字を追い、理解しようと集中している。そして、突然頷き始めた。
「なるほど......」
「え?」
「これは参考になります」
エマの言葉に、俺は慌てた。
「ちょっと待って…」
「つまり、この本に書かれていることと逆のことをすればいいのです」
エマは理路整然と説明し始めた。
「つまり、『夫が客を連れて来た時は歓迎する』『夫が一人で外出しても怒らず、一緒に行く時は協力的に振る舞う』ということですね」
「なるほど…」
俺はほっと胸をなでおろした。エマらしい論理的な解釈だった。
「良好な人間関係を築くための反面教師として、この本は非常に有用な資料ですね」
「そうなんだ。なんでも勉強になるだろう?」
俺は苦笑いしながら言った。
「これを買います」
エマは満足そうに本を抱えた。胸元に本を抱える姿が、まるで大切な宝物を持っているように見える。
買い物を終えた後、俺はエマを「例の場所」に、お茶に誘った。
クロイツベルクで1番のパティシエであるピケティ氏のケーキ屋は、いつものように甘い香りに満ちていた。バニラとバターの香りが店内を包み、暖かい雰囲気を作り出している。店内の小さなテーブルに腰を下ろすと、若い店員が笑顔で近づいてきた。
「いらっしゃいませ。今日はお二人でお茶ですか?」
「はい。何かお薦めはありますか?」
俺が尋ねると、店員はすぐに提案をしてくれた。
「それでしたら、『春風のタルト』はいかがでしょう?苺とクリームの優しい甘さが自慢です」
「それにします」
エマは嬉しそうに答えた。頬がほころび、青い瞳が輝いている。
ケーキが運ばれてくると、エマは目を輝かせながらフォークを手に取った。
「久しぶりのケーキですね」
エマは一口ケーキを口に運ぶと、幸せそうな表情を浮かべた。窓の外では夕日が街を照らし、俺たちのテーブルも温かい光に包まれていた。エマの銀色の髪が夕日を受けて輝き、まるで天使のように美しく見える。
「美味しいです。この甘さと、苺の酸味のバランスが絶妙ですね」
「そうだね」
俺も自分のケーキを食べながら、エマの嬉しそうな顔に見とれていた。俺は不思議な感覚にとらわれた。何気ない日常のシーンなのに、全てが完璧で、まるで俺の人生の最高の一瞬であるかのように感じられた。
「テル、今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
「こちらこそ。俺も楽しかったよ」
エマの声に、俺は現実に引き戻された。今日という日で時間が止まって欲しいのか、それとも止まって欲しくないのか、それは悩ましい問題だった。
エマはケーキを食べ終えると、ふと考え込むような表情を見せた。細い指で髪を耳にかけながら、何かを思索している。
「でも、考えてみると不思議ですね」
「何が?」
「ケーキって、生きていくのに必要な食べ物ではありませんよね」
俺は微笑みながら答えた。
「それでも私たちはこうして楽しく食べている」
「とても楽しいです」
エマは素直に言った。頬が少し紅潮し、幸福感が表情に現れている。
「確かに『必要最低限の欲求』だけを満たすのがいいという考え方もあると思う」
俺はカリア団長の言葉を思い出していた。
「でも、『必要ではないけれど自然な欲求』も、たまには満たすのがいいと俺は思う」
エマは真剣に俺の言葉を聞いていた。透明感のある青い瞳が俺を見つめ、理解しようと努めている。
「つまり、『必要ではないが価値のあるもの』が存在するということですね」
「『遊び』ってそういうことだと思う。遊びは人生を豊かにしてくれると思うんだ」
エマは微笑みながら頷いた。その笑顔は普段の理性的な表情とは違い、心からの喜びに満ちている。
「わかりました。これからは、もう少し『遊び』も大切にしてみます」
「ねえ、エマ」
「はい?」
「今度、そのワンピースを着て、本当にレストランに行かない?」
エマは少し考えてから、小さく頷いた。頬がほんのりと赤く染まり、恥ずかしそうにしながらも嬉しそうな表情を見せる。
「わかりました。『遊び』だと思って、挑戦してみます」
俺は嬉しくなって、エマの手を握った。彼女の手は少し冷たく、細くて華奢だった。エマも恥ずかしそうにしながら、握り返してくれた。
戦場での重い記憶は完全に消えたわけではないが、少なくとも今この瞬間、俺は幸せだった。エマと過ごすこんな何気ない時間が、俺にとっては何よりも大切なものだった。
すっかり、俺の心は軽くなっていた。朝のあの沈んだ気持ちは何だったのか。人に何かをしてあげる、ということが、これほど嬉しいことだとは思わなかった。その好意を、素直に受け入れてくれる人がいる、そのことがどれだけ幸せなことか、これまで気づかなかった。
してあげる、というより、させていただく、のか。とにかく、何かをしてもらうことは嬉しいけど、何かをしてあげることができれば、それはもっと嬉しいのだ、ということを噛みしめながら、俺たちは夕暮れの街を歩いた。




