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第74話:ルーシーと「国際関係」

クロイツベルクから馬車で三日の距離にあるエンポリア王国の首都リガーツク。石畳の街路に響く車輪の音と、商人たちの活気に満ちた声が混じり合う中、一台の外交馬車がエンポリア王宮の前に到着した。


馬車から降り立ったのは、白髪の老紳士と漆黒の長い髪を持つ少女だった。老紳士はフィロソフィア王国の外務大臣クラウス・フォン・エーレンベルク卿、そして少女は王立学院生徒会の風紀委員ルーシー・ヴィットである。


「ようやく着きましたね」


ルーシーは深紅のリボンを直しながら呟いた。紺碧色の鋭い瞳が王宮の荘厳な石造りの建物を見上げている。三日間の長旅にも関わらず、彼女の白いブラウスには一点の汚れもなく、知的な表情に疲労の色は見られなかった。


「ルーシー、君のおかげで退屈しない旅だったよ」


クラウス卿は杖をつきながら微笑んだ。七十を超える老人と十代の少女という組み合わせは、傍目には祖父と孫のように見えるだろう。しかし、三日間の旅路で交わした会話の内容は、年齢差を感じさせないほど高度なものだった。


エンポリア王国は進んだ科学と商業で栄える国だった。北方の海には暖流が流れ込み、高緯度にも関わらず港が凍ることがない。そのため一年を通じて貿易が可能で、各国の商人たちが行き交う国際都市としての性格を持っていた。街角では様々な言語が飛び交い、異国の香辛料や絹織物を売る店が軒を連ねている。


「エンポリアが仲裁役を買って出てくれたのは幸いでした」


ルーシーは街の喧騒を見回しながら言った。


「多様な文化が共存する環境は、異なる価値観を持つ国同士の交渉には適しているでしょう」


「その通りだ。エンポリアは利害関係が薄いからこそ、中立的な立場を保てる」


クラウス卿は王宮の階段を上りながら答えた。


「だが、ルーシー、忘れてはいけないのは、彼らにとってもこの交渉は無関係ではないということだ。戦争が長引けば貿易に影響する。彼らは早期解決を望んでいるはずだ」


王宮内の会議室は、エンポリア王国らしく実用性を重視した造りになっていた。装飾は控えめで、代わりに大きな窓から自然光がたっぷりと差し込み、長時間の会議にも集中力を保てるよう配慮されている。


マキャベリア側の代表として出席していたのは、ルドルフ・フォン・ヴァルデック辺境伯だった。四十代半ばの男性で、軍人らしい引き締まった体格をしている。しかし、その表情には常に何かを気にかけるような緊張感が漂っていた。


「ヴァルデック辺境伯、ご機嫌いかがですか」


クラウス卿がフィロソフィア語で挨拶すると、通訳がマキャベリア語に翻訳した。辺境伯も通訳を通じて応答する。まるで見えない壁を挟んでの会話だった。


交渉は難航していた。ヴァルデック辺境伯は「全権代表」ではなく、重要な決定は全て首都にいる重臣ヴァーグナー卿の承認を得る必要があった。そのため、一つの条項について合意に達するまでに数日を要することも珍しくなかった。


「マキャベリア軍のローレンティアからの撤退条件について、改めて確認させていただきたい」


クラウス卿が議題を切り出す。通訳が内容をマキャベリア語に翻訳し、ヴァルデック辺境伯が答える。その答えが再びフィロソフィア語に翻訳される。


ルーシーは静かに議事録を取りながら、この煩雑なやり取りを観察していた。言葉の正確性を重視する彼女にとって、通訳を挟んだ交渉は興味深い研究対象でもあった。


午後の休憩時間、クラウス卿とルーシーは王宮の中庭を散歩していた。エンポリアの気候は穏やかで、冬の終わりにも関わらず庭にはわずかに花が咲いている。


「ルーシー、長時間の交渉で疲れただろう?」


クラウス卿が気遣うように声をかけた。孫を心配する祖父のような優しい口調だった。


「いいえ、私は疲れてはいません」


ルーシーは毅然として答えた。漆黒の髪が微風に揺れ、紺碧色の瞳に揺るぎない意志の光が宿っている。


「むしろ、実際の外交交渉を見学できることは貴重な学習機会です。言語ゲームの実践例として、非常に興味深く感じています」


クラウス卿はルーシーの言葉を聞いて、改めて彼女の資質に感心した。社交性に欠けるところはあるが、品格と体力があり、言語能力に優れ、何より実直である。外交を行うのに必要な資質の多くを、この若い女性は既に身につけていた。


「クラウス卿、質問しても宜しいでしょうか?」


ルーシーが立ち止まって振り返った。


「もちろんだ。何でも聞いてくれ」


「卿はマキャベリア語を含む五カ国語が堪能と聞いておりますが、なぜ通訳を入れるのですか?」


鋭い質問だった。ルーシーの瞳が真剣に彼を見つめている。


「ヴァルデック辺境伯と直接お話になった方が、正しく意図が伝わるのではないでしょうか?」


クラウス卿は思わず笑みを浮かべた。


「実は、会議室以外では、ヴァルデック辺境伯とはマキャベリア語で話しているんだよ」


ルーシーは意外そうな表情を見せた。それまで気づかなかった事実だった。


「通訳を使う利点は二つある」


クラウス卿は庭のベンチに腰を下ろしながら説明を始めた。


「まずは、会話に時間がかかることだ。これは実はメリットなんだよ」


「メリット、ですか?」


「そうだ。ヴァルデック辺境伯がマキャベリア語で話したことをまず理解し、通訳がフィロソフィア語に訳している間に、こちらは返答を考えることができる」


ルーシーは自分の浅はかさを恥じた。直接話した方が効率的だと単純に考えていたが、実際の外交はそれほど単純ではなかった。


「もう一つは厳密さの問題だ」


クラウス卿は続けた。


「いくら私がマキャベリア語を話せると言っても、マキャベリア語で小説が書けるほどの水準ではない。もし、細かいニュアンスにおいて意図しないことで、相手に言質を取られると問題が大きい」


「なるほど」


「通訳を入れておけば、何かあれば『正しくニュアンスが翻訳されていなかった』とすることができる。これは双方にとって都合が良いんだよ」


ルーシーは改めて、経験の重要性を痛感した。理論だけでは理解できない実践の知恵が、そこにはあった。


「ところで、ルーシー」


クラウス卿が話題を変えた。


「いままでの交渉で、気になった条文はないかね?」


「あります」


ルーシーは即座に答えた。彼女の記憶は正確で、問題点は既に整理されていた。


「マキャベリア軍の撤退について定めた文言で、条約発効後『マキャベリア軍は占領地から撤退する』とあります」


「ほう」


「しかし、具体的に『占領地』がどこなのか定めがありません。これでは、全軍が撤退しなくても条約を破ったことにはなりません」


クラウス卿は満足そうに頷いた。まさに彼が気にしていた点と同じだった。


「君の提案は?」


「ここは、『全ての占領地から撤退する』あるいは『ローレンティア鉱山周辺およびメルツ川西岸から撤退する』とすべきだと考えます」


「その通りだ」


クラウス卿は杖を握り直しながら立ち上がった。


「才能ある若者がいてくれて良かった。私もそろそろ楽ができそうだ」


夕日がエンポリアの街を赤く染める中、二人は再び会議室に向かった。まだ解決すべき問題は山積していたが、ルーシーの鋭い洞察力があれば、きっと良い結果を得られるだろう。


「ルーシー、明日からはもっと積極的に発言してもらいたい」


「はい。私で宜しければ」


ルーシーの紺碧色の瞳が決意に輝いていた。彼女にとって、この交渉は単なる見学ではなく、実践的な学習の場となっていた。言語の持つ力、外交の駆け引き、平和を築くことの困難さ------全てが貴重な経験として、彼女の中に蓄積されていく。


王宮の廊下を歩きながら、ルーシーは心の中で誓った。この経験を王立学院に持ち帰り、仲間たちと共有しよう。テルの雷の剣が戦場で平和をもたらしたように、言葉の力で平和を築くことも可能なのだと。


遠くクロイツベルクの方角を見つめながら、ルーシーは明日の交渉に向けて心を引き締めた。



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