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第67話:その時何が起こったか

薄暗い部屋で、俺は意識を取り戻した。暗い天井が視界に入り、どこか薬品のような匂いが鼻をくすぐる。体中が重く、左肩には鈍い痛みが残っていた。


「エマ?」


ベッドの脇に座る少女らしき影に向かって、俺は声をかけた。銀色の髪が見えたような気がしたからだ。


しかし、振り返ったのは眼鏡をかけた、セミロングの黒髪の少女だった。薄茶色の瞳が俺を見つめ、白い肌が部屋の薄明かりに浮かび上がっている。


「小ジャンヌ?」


俺は驚きを隠せなかった。なぜ彼女がここにいるのか。


「ここは? どうして君がここに?」


小ジャンヌは静かに眼鏡を直すと、いつもの落ち着いた声で答えた。


「ここはローレンティアの病院よ。多くの負傷兵が収容されているの。あなたは『英雄』だから個室を与えられているのね」


彼女の華奢な肩が微かに動き、黒いドレスの裾が椅子の上で整えられる。その仕草には少しの疲労が感じられた。ここに、長くいたのだろうか。


「英雄? どういうこと? マキャベリアとの戦いはどうなったの?」


俺が身を起こそうとすると、左肩に激痛が走った。思わず顔をしかめる。記憶が断片的に蘇ってくる。ヴァルドフェール低地の景色、雷の剣の発動、そして槍が肩を貫いた瞬間——


「それについては、私よりも的確に答えられる人がいるわ。もうすぐここに来るはずよ」


小ジャンヌは静かに立ち上がった。彼女の細い指先が椅子の背もたれを軽く撫でてから歩き出した。


「ずっと看病を?」


俺の問いかけに、小ジャンヌは振り返った。薄茶色の瞳に、普段は見せない柔らかな光が宿っている。


「あなたが死ぬと悲しむ人がいるから」


少し間を置いて、彼女は小さく付け加えた。


「私もその一人」


その時、廊下を歩く規則正しい足音が聞こえてきた。


「それでは、私はこれで」


小ジャンヌは病室の出口に向かった。しかし、ドアの前で振り返ると、去り際に不思議なことを言った。


「そういえば、以前は見えなかったあなたの『実存』、今は見えるわ」


その言葉の意味を考えているうちに、ドアが開いて一人の女性が入ってきた。深い栗色の髪を後ろで結い、琥珀色の瞳が優しく俺を見つめている。騎士団長のエピカリアだった。


「テル、気がついたのですね」


カリアの声には安堵の色が混じっていた。彼女は俺のベッドサイドに歩み寄ると、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。


「カリア団長、マキャベリア軍との戦いはどうなったのですか?」


俺は自分の責任を果たせたのか、仲間に犠牲は出なかったのか、不安が頭の中を駆け巡る。


「まあ、そう急ぐことはありません。私がここにいるということは、悪い状況ではありませんよ」


カリアは病室の隅にあった水差しを取り、コップに水を注いだ。その動きには、長年の軍人としての落ち着きがあった。


「まずは水でも飲んではいかがですか?」


差し出されたコップを両手で受け取ると、また左肩に鈍い痛みが走った。槍で貫かれた傷がまだ癒えていないのだ。しかし、喉の渇きには勝てない。


水を口に含むと、驚くほど甘く感じた。一気に飲み干すと、体の奥深くまで染み渡っていくのがわかる。生きていることを実感する瞬間だった。


「さて、何から話しましょうか」


カリアは椅子に腰掛けると、俺を見つめた。


「ヴァルドフェールの戦いはどうなったんですか? マキャベリアの重装歩兵は計画通り止められたんでしょうか?」


俺は必死に記憶を探った。雷の剣の力を銅線で拡張し、水で満たしたヴァルドフェール低地に放った。確かに水しぶきと水蒸気が上がり、力は放たれたが、それで数百の重装歩兵を止められたのか。確かめる前に、マキャベリア軍の副長の槍に肩を貫かれて、そこで記憶が途切れていた。


「一言で言うと、大戦果です」


カリアの穏やかな表情の中にも、明らかな喜びが浮かんでいた。琥珀色の瞳が温かく輝く。


「よかった、責任は果たせたんですね」


俺は心からほっとした。重圧から解放された安堵感が全身を包む。


「テルの雷の力によって、ヴァルドフェール低地で数百のマキャベリアの重装歩兵が戦闘不能になりました。その後、私の部隊、そして他の部隊もヴァルドフェールに殺到し、重装歩兵は武装解除され、多くが捕虜になっています」


カリアは地図でも思い浮かべているかのように、宙を見つめながら説明した。


「主力を失ったマキャベリア軍は侵攻を中止しました。ここ、ローレンティアの市街地は我が軍の支配下にあります」


「ここは、ということは、他の場所には今もマキャベリア軍が?」


俺の問いかけに、カリアの表情が少し曇った。


「残念ながら、マキャベリア全軍を国境の外に押し戻すことはできませんでした。今も、ローレンティア鉱山とメルツ川の西岸の一部にはマキャベリア軍が居座っています」


完全勝利ではないのか? 俺の表情が暗くなったのを見て、カリアは言葉を続けた。


「ただし、停戦は保たれていますから、テルは心配することはありません。数百の重装歩兵が一瞬で戦闘不能になったことについて、今もマキャベリア軍は混乱しています。未知の脅威があるうちは、再侵攻することはないでしょう。テルのおかげです」


俺は嬉しいというよりも、ほっとした。自分が義務を果たせたこと、フィロソフィア側に大きな犠牲は出ていないようだということ、マキャベリア軍の侵攻がひとまず止められたこと。


ふと、メルツ川の水門を巡る戦いのことを思い出した。危ういところでカリアが援軍に来てくれたこと。あの援軍がなければ、作戦は失敗していただろう。


「カリア団長のおかげです。援軍、本当にありがとうございました」


俺は心からの感謝を込めて言った。


「援軍がなければ、水門は開かず、雷の力も解放できませんでした」


しかし、カリアは首を横に振った。彼女の琥珀色の瞳に、後悔の色が浮かぶ。


「あれは指揮官としての私のミスです。テルに謝らなければなりません。メルツ川の西岸を通ってマキャベリア軍の別働隊がヴァルドフェールに展開し、テルの背後を取ろうとすることは、予測不可能ではありませんでした。あらかじめ対策するべきでした」


カリアはそう言うと、少し声を和らげて続けた。


「それに、お礼なら小ジャンヌに言うべきです」


「小ジャンヌに?」


俺は思わず聞き返した。小ジャンヌが俺を看病してくれたことについて、だろうか。


「ここ、ローレンティア中心部で暴動が起きた時、小ジャンヌがローレンティアの労働者に対して呼びかけたのです。『抑圧された者には暴力で反撃する権利がある!』と。労働者は沸き、彼女の言葉に注目しました。驚きました」


「いや、それは驚くでしょう。それで、どうなったのですか?」


「彼女は続けました。『しかし、ここで力尽くで金を奪い取ったからといって何になる!』と。労働者は困惑し、ざわつきました。彼女はさらに続けました。『急進的でなければならないのは意図であって、手段ではない!』と」


「ちょっと難しいですね」


「そうです。労働者には少し難しかった。それを感じ取った彼女は、ローレンティアの方言で次のように言いました。『炭鉱の男が銭のこつで暴力ば振るうとは何しよっとか』『マキャベリアん衆の煽動に乗せられて情けなかばい』『ローレンティアの男の名折れやろうが!』と」


小ジャンヌの口調をまねながら、カリアの表情が明るくなった。彼女は小さく笑いながら続ける。


「普段の彼女からは想像できないような大きく通る声で。彼女の言葉で、暴動に加わる鉱山労働者はほとんど半分になりました。おかげで鎮圧を速やかに済ませて、援軍に駆けつけられたのです」


「そんなことがあったんですね」


俺は驚いた。小ジャンヌがそんな勇敢な行動を取っていたとは。


「小ジャンヌは本当に大したものですよ。彼女には、何か人を引きつける力があります」


カリアは心からの敬意を込めて言った。


「あの演説には一個中隊に匹敵する働きがありました。何より、戦争が始まるかもしれないというのに、この街に来て、彼女が自分にできることをしようと動いていたことが信じられません」


小ジャンヌは俺を英雄と言ったけれど、本当の英雄は小ジャンヌじゃないか。俺はそう思った。


「長く話してしまいましたね。ゆっくり体を治してください。私は、いろいろと事後処理がありますので」


カリアは立ち上がると、軽く会釈して部屋を出て行った。


一人になった病室で、俺は天井を見つめながら考えていた。


小ジャンヌが最後に言った言葉——「以前は見えなかったあなたの『実存』、今は見えます」


その意味は何だったのだろう。


彼女にはものの実存が見える。しかし、以前、俺の実存は見えないと言った。だから、俺を異世界から来た人間だと彼女は推測した。


それが、今、俺の実存が見えるようになった、という。その意味は何だろう。


窓の外からは、ローレンティアの街の騒音が聞こえてくる。人々の生活が続いている。平和が保たれている。それを実感しながら、俺は静かに目を閉じた。


まだ完全に終わったわけではない。マキャベリア軍は依然としてローレンティア地方の一部を占拠している。しかし、最悪の事態は避けられた。そして俺も、仲間たちも、生きて次の日を迎えることができるのだ。


何よりも責任を果たせた安堵から、左肩の痛みも生きている証拠のように感じられた。

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