第62話:エマと「ビリヤード」
問題の年末が近づいていた。王立学院の冬休みも目前に迫り、街全体が穏やかな雰囲気に包まれている。しかし俺の心は、どこか重苦しさに支配されていた。
その夜、恐れていたことが起こった。
「あの…テル?」
エマが部屋の窓際から振り返り、遠慮がちに声をかけてきた。彼女の銀色の髪が月明かりを受けて絹糸のように輝き、青い瞳には何かを決意したような光が宿っていた。白いナイトドレスの襟元を無意識に指先でつまむ仕草に、彼女の緊張が表れている。
「なに?」
俺は挙動不審に反応した。ある話題が出ることを予感していた。
「冬休み…よかったら…私の…その実家に…」
エマは頬を薄紅色に染めながら、途切れ途切れに切り出した。彼女の長いまつげが下がり、視線が床に落ちる。その仕草があまりにも可憐で、俺の胸は締め付けられるような気持ちになった。
「ああ!いいね!ぜひ、行きたいんだけど!」
俺は不自然なほど大きな声で答えた。エマの提案は嬉しいが、現実は複雑だった。
「本当?」
エマの顔がパッと明るくなり、青い瞳が星のように輝いた。彼女の笑顔は太陽のように温かく、その表情を見ているだけで幸せな気持ちになる…はずだった。
「いや、その、行きたいんだけど、年末は、ローレンティアに行かなければいけなくなると思う」
俺の言葉に、エマの笑顔が次第に消えていった。部屋に重い沈黙が流れる。怒られるかと身構えたが、エマは静かに言った。
「そうですか…とても残念ですが、仕事なら仕方ないですね」
彼女の声は穏やかだったが、その青い瞳の奥には深い寂しさが宿っていた。白い手がナイトドレスの裾を軽くつまみ、その指先が微かに震えている。彼女の理解ある反応に、俺はかえって心が痛んだ。
「これは秘密にして欲しい。エマだから大丈夫だと思うけど」
俺は意を決して切り出した。エマには真実を話すべきだと思った。
「覚えている?以前、ルーシーが指摘していたフォルスク条約の欠陥について」
「ありました。ローレンティアの自治政府が治安維持を名目にマキャベリア軍を招き入れる可能性でしたね」
エマの表情が急に引き締まった。彼女の青い瞳に鋭い光が宿り、知的な分析力が働き始めているのが見て取れる。
「それがどうも、現実になりそうなんだ。年末までに事が起こる可能性が高い」
「そんなに早く!テルは、大丈夫なのですか?」
エマは思わず身を乗り出した。銀色の髪が前に流れ落ち、その表情には純粋な心配の色が浮かんでいた。彼女の白い頬が青ざめ、長いまつげの下から覗く瞳には不安が宿っている。
「いや、俺は当然戦うことになる。もちろん、作戦はあるから勝つつもりだよ」
俺は明るく笑って見せたが、その笑顔は少し無理があった。
「そうですか…」
エマの声は小さく、心配そうな表情は変わらなかった。彼女の細い肩が微かに震え、白い指先がドレスの端を強く握りしめている。
「大丈夫、俺には『雷の剣』があるから」
俺は強がって見せたが、エマの不安な表情は消えなかった。部屋に再び重い沈黙が流れる。俺はこの雰囲気を変えなければと思った。
「エマの実家には行けないけど、休みに入る前に、2人で何か楽しいことをしようよ」
俺の提案に、エマは少し驚いたような表情を見せた。
「そんな…良いのですか?危機が迫っているのに」
「いまだからできるんだよ。一旦戦いになれば…」
俺の言葉に、エマは静かに頷いた。彼女の青い瞳に理解の色が浮かび、唇に小さな微笑みが戻ってきた。
「分かりました!やりましょう。私、ビリヤードをテルとやってみたいです」
エマの突然の提案に、俺は思わず目を丸くした。
「ビリヤードってこの世界…いやこの国にもあるの?」
「馬鹿にしないでください。ビリヤードは古い遊びです。それぐらいこの街にも沢山あります。私の実家の近くにも1つだけですけど、あったぐらいです」
エマは少し膨れた頬で答えた。その表情がとても愛らしく、俺は思わず笑みをこぼした。意外な事実に驚きつつも、前の世界では数少ない得意なことの一つがビリヤードだったことを思い出す。
「ぜひやろう。楽しみだね」
「そうですね」
二人の笑顔が、部屋に温かな空気を取り戻していた。
——
週末の午前中、俺とエマは街外れの小さなビリヤード場にいた。石造りの建物の中は静かで、緑のフェルトに覆われたテーブルが朝の光を受けて美しく浮かび上がっている。
「午前中だからですかね、人が居ません」
エマが辺りを見回しながら言った。確かに、俺たち以外には誰もいない。彼女は今日は普段の制服ではなく、淡い青のワンピースを着ていた。その色が彼女の青い瞳を一層美しく見せ、銀色の髪との対比が絵画のような美しさを醸し出している。
「で、どんなルールでやるの?」
「ワンポケットはどうでしょう」
聞いたことのないルール名に、俺は首を傾げた。
「俺、あまり知らないから、説明してくれる?」
「ワンポケットは、2人がそれぞれのゴールになるポケットを決めて、15個のうち、8つのボールを先に自分のゴールに入れた人が勝ちです」
エマは丁寧に説明してくれたが、なんだか複雑そうだった。
「ちょっと難しそうだから、簡単な奴やらない?」
「どんなルールですか?」
俺は9ボールのルールを説明した。1番から9番まで順番に狙い、最後に9番を落とした人が勝ちという、シンプルなゲームだ。
「初めて聞く遊び方ですが、シンプルでいいですね。素人のテルでもできそうです」
エマは楽しそうに笑った。その笑顔には少し挑戦的な色が混じっている。
「素人って、じゃあエマは凄い腕前なの?」
俺の質問に、エマは不敵に笑った。その表情には、普段の清楚な雰囲気とは違う、何か秘めたものが感じられた。
「私、一時期、ビリヤードを研究していたんです」
謎めいた言葉を口にするエマ。
「どういうこと?」
俺が尋ねる。
「まあ、とりあえず勝負しましょう。素人のテルからどうぞ」
エマの自信に満ちた態度に、俺は少し不安を覚えながらも、9個のボールを三角形に並べてブレイクした。ビリヤード場にボールがぶつかりあう音が響く。
「テル、なかなか良い打ち方ですね」
エマの褒め言葉に少し安心した。しかし、ボールの配置が悪く、俺は1打目で1番を外してしまった。
「がっかりしないでください。今のは配置がよくありませんでした。素人には難しいです」
エマは優しくフォローしてくれたが、その言葉には妙な余裕が感じられた。
そして、エマの番が始まった。
キューを構えるエマの姿勢は完璧だった。まるで職人のような正確さで、彼女は1番ボールを狙う。カツンという心地よい音とともに、ボールは正確にポケットに消えた。
続けて2番、3番、4番と、エマは次々にボールを沈めていく。その手つきは芸術的で、まるで舞踊を見ているかのようだった。
「いや、ちょっとまって。なんでそんなに上手いの?おかしくない?」
俺は思わず声を上げた。これは明らかに素人のレベルを超えている。
「だから言ったでしょう。私はビリヤードを研究していたんです」
エマは胸を張って答えた。その表情には学者のような知的な誇りが浮かんでいる。
「ビリヤードは宇宙です。偶然はありません。全てが決まっています」
5番ボールを沈めながら、エマは話し続けた。
「つまり、玉の配置、台の摩擦、キューの角度や強さなどを全て計算すれば、球がどう動くかは完全に予測できます。ビリヤードは世界と同じです。偶然に見えることも、実は全部決まっているんです」
そう言いながら、6番ボールも見事にポケットに収める。エマの青い瞳には、数式を解く数学者のような集中力が宿っていた。
何とかペースを乱したいと思った俺は、哲学的な質問を投げかけてみた。
「でも、世界がビリヤードみたいに決まっているとしたら、人間はどうなるの?いま、エマと俺がビリヤードをしていることも、宇宙が始まった時から決まっていた?」
エマは7番ボールを狙いながら、少し考え込んだ。
「そういう『決定論』は半分は正しいです。でも半分は間違いです」
彼女は慎重に言葉を選びながら答えた。
「私たちが見て、触れて、経験できる世界では確かにそうです。雨が降るのも、りんごが落ちるのも、全部原因があって結果がある。これは科学で説明できます」
7番ボールが狙い通りにポケットに落ちる。
「でも、人間には『選ぶ力』があります。悪いことをするか、良いことをするかは自分で決められる。もし全部決まっているなら『悪いことをした人を責める』のはおかしいでしょう?」
8番ボールも見事に沈み、残るは9番だけとなった。俺は焦りを感じ始めた。
「だから私は、世界には2つの面があると考えました。見える世界は科学で説明できる、すべて決まっている世界。見えない世界は人間の心や意志の世界、ここには自由があるのです」
完璧な説明をしながらも、エマの手は止まらない。いよいよ最後の9番ボールだ。俺はある策を思いついた。
「さて、あと9番だけです。テル?言い残すことはありますか?」
自信満々のエマに、俺は提案した。
「こうしよう。もし、エマがこのまま勝ったら、俺がエマの言うことを何でも聞くよ」
エマの手が止まった。彼女の頬が急に薄紅色に染まる。
「何でもって何ですか?」
「何でもっていったら何でもだよ」
「どんなお願いでも?」
「どんなお願いでも」
エマは急に挙動不審になり始めた。
「何でもって…どんなことでも…まさか…いえいえ、そんな…でも…」
と一人でぶつぶつと呟き、頬がますます赤くなっていく。
「早く突いたほうがいいよ」
俺の声に、エマははっと我に返った。
「うるさいですね」
彼女は慌てて9番ボールを狙ったが、動揺のせいか手元が狂って外してしまった。
「あっ」
エマの小さな悲鳴が響く。
「残念だったね、エマ」
俺は笑いながら言った。
「でも、まだ決まってませんよ。ほら、9番、だいぶ遠いですから、素人のテルには難しいと思います」
エマは強がって見せたが、その表情には明らかな動揺が見える。
「それが、そうでもないのさ」
俺は自信を持ってキューを構えた。遠い位置にある9番ボールを狙い、一気に勝負を決める。カツンという音とともに、9番ボールは見事にポケットに消えた。
「テルは…私を騙したのですか?テル、本当はビリヤード上手いでしょう!」
エマは驚きで目を見開いた。その表情は怒りというより、純粋な驚きと、少しの悔しさが混じったものだった。
「俺を素人と決めつけたのはエマだろう?俺は、ワンポケットのルールが難しい、と言っただけだから」
エマは黙り込んだ。彼女の青い瞳には複雑な感情が渦巻いている。
「私の負けです」
エマは潔く認めた。
「良い試合だったね」
俺は余裕を見せて言った。
「それでは、テルが勝ったのですから、私がテルの言うことを何でも聞きます」
エマの言葉に、今度は俺が驚く番だった。
「何でもって何?」
「何でもっていったら何でもです」
「どんなお願いでも?」
「どんなお願いでも、です」
今度は俺が慌て始めた。あれこれ考えて挙動不審になる。
「どうぞ、早く何か言ったらどうですか」
エマが催促する。
「いや、この権利はとっておくよ」
俺は苦し紛れに答えた。
「いつか、エマが一番困るタイミングで、一番困ることをお願いするよ」
「テルは実は意地悪な人ですね」
エマは少し膨れた頬で言ったが、その表情には安堵の色も混じっていた。
——
「今日は楽しかったです」
昼前の街を歩きながら、エマが満足そうに言った。エマの笑顔を見ながら、俺は心から思った。
こんな日がずっと続けばいいのに、と。
しかし現実は厳しい。近い将来、俺は戦場に向かわなければならない。この平和な日々が、いつまで続くかわからない。だからこそ、今日のような時間が、かけがえなく貴重に感じられるのかもしれない。
エマの銀色の髪が午後の陽光に輝き、その横顔を見つめながら、俺は胸の奥で静かに誓った。
必ず無事に帰ってくる、と。




