第63話:戦場へ
実家に帰省する朝、エマは何度も忘れ物を取りに部屋に戻ってきた。
「ハンカチを忘れました」
銀色の髪を三つ編みにしたエマが、コート姿で慌てたように階段を駆け上がる。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「はい...」
エマは少し照れたように頬を薄紅に染めながら、俺の胸に身を寄せた。コートの厚みがもどかしい。
「すぐに戻ってきます。待っていてくださいね」
「ああ、気をつけて」
俺がそう言うと、エマはためらいがちに俺から離れ、階段を降りていった。けれど、数分後——
「また...忘れ物をしました」
今度は本だった。青い瞳に困ったような色を浮かべながら、エマは再び階段へと向かう。彼女の慌てた様子が愛らしくて、俺は思わず笑いそうになった。
三度目は時計。四度目は手袋。五度目は...
「今度は何を忘れたの?」
俺が尋ねると、エマは俯いて小さな声で答えた。
「忘れ物は...ありません」
その言葉に、俺は胸が温かくなるのを感じた。彼女が別れを惜しんでいるのだと理解する。
「エマ...」
彼女の青い瞳が少し潤んでいるのに気づく。きっと彼女も、今度の作戦のことを心配しているのだろう。
俺は再び彼女を抱きしめた。
「大丈夫だよ。必ず戻ってくるから」
「約束ですよ」
エマの小さな手が俺の胸に軽く触れ、その指先が少し震えていた。
「約束する」
最後の別れ際、エマは俺の手を両手で握って言った。
「理性的に考えれば、あなたが無事に戻ってくる確率は高いです」
「分かってる」
俺たちは長い間抱き合っていた。時間が止まればいいのにと思いながら。
————
エマを見送った後、俺は王宮へと向かった。冬の冷気の中を石畳の道を歩きながら、胸の奥で何かが締め付けられるような感覚があった。
王宮の作戦会議室には、カリアを筆頭に騎士団の幹部たちが集まっていた。石造りの部屋に朝の光が差し込み、大きなテーブルの上には詳細な地図が広げられている。
「皆さん、おはようございます」
カリアが立ち上がった。深い栗色の髪を後ろできっちりと結い、凛とした威厳が漂う。琥珀色の瞳が地図の上を見つめ、その表情には静かな決意があった。
「まず、現在の状況を整理しましょう」
カリアは地図上のローレンティア地方を指し示した。その動きには無駄がない。
「我々の偵察により、マキャベリア軍の兵力約1500がローレンティア北東の国境近くに集結していることが確認されています。このうち約半数が重装歩兵です」
部屋の空気が緊張に包まれる。
「対する我々の兵力は騎兵200、重装歩兵300、軽装歩兵400、弓兵100の計1000です。数的には不利ですが、地の利を活かせば勝機はあります」
カリアは続けた。彼女の声には迷いがなく、その確信に満ちた口調が聞く者に勇気を与える。
「炭鉱で予想される暴動が起こった後、ローレンティア自治政府がマキャベリアに派兵を求める前に暴動を鎮圧するのが我々の第一目標です」
「条約に欠陥がある以上、自治政府がマキャベリアに派兵を求めた後では、我々が実力でそれを止めることは外交上困難になります」
俺は手を上げて質問した。
「もし、暴動の鎮圧に早期に成功すれば、マキャベリアと戦う必要はないんですか?」
カリアの表情が少し曇った。彼女は地図上の国境付近を指差す。
「そう願いたいところですが、残念ながら要請の有無にかかわらず、マキャベリアは兵を進めてくる可能性が高いでしょう」
「どうしてですか?」
「ローレンティアを実質的に占領してしまえば、自治政府からの要請のタイミングなど、後でどうにでも言い訳できるからです」
カリアの言葉に、部屋の空気が重くなった。他の騎士たちも深刻な表情を浮かべ、何人かは小さくため息をついた。
「我々の作戦はこうです」
カリアが地図の中央部を指した。その指先の動きを、全員が息を詰めて見つめる。
「第一段階として、私が騎兵150と重装歩兵200、歩兵300を率いて、ローレンティア中心部の暴動を制圧します。恐らく鉱山管理事務所付近が騒乱の中心になるでしょう」
俺は疑問に思って尋ねた。
「我々の重装歩兵の全てをマキャベリア兵との戦闘に動員しないんですか?相手の主力は重装歩兵のはずですが」
カリアは静かに首を振った。
「重装歩兵同士の正面衝突では、数に勝るマキャベリア軍を止めることはできません。それは、テルの役目です」
カリアは地図上の低地を指差した。
「マキャベリア軍がローレンティアに向かう最短ルートは、この狭いヴァルドフェール低地を通過することです。重装歩兵は機動性が低いため、必ずここを通ってきます」
俺は低地の地形を見つめながら頷いた。確かに、重装歩兵にとって最も歩きやすいルートはここしかない。
「第二段階として、テルがヴァルドフェール低地でマキャベリア重装歩兵に対して雷の剣を使用。敵の主力を無力化します」
「第三段階で、暴動鎮圧を終えた私が、全軍を率いてヴァルドフェールに移動し、モンクレール高地に配置した弓兵と共に残存するマキャベリア軍に対して総攻撃を仕掛けます」
カリアの説明は明確だった。しかし、同時に俺にかかる責任の重さを痛感する。
「質問はありますか?」
しばらく沈黙が続いた後、一人の騎士が手を上げた。
「もしヴァルドフェールでの作戦が失敗した場合の備えはありますか?」
カリアの表情が一瞬硬くなった。彼女の手が無意識に剣の柄に触れる。
「備えはありません。テルの成功は今回の作戦の大前提です」
部屋の空気がさらに重くなる。誰も口を開かず、地図を見つめる目は真剣そのものだった。
「心配いりません。皆はテルの成功を前提として戦ってもらって構いません」
————
作戦会議が終わった後、カリアが俺に近づいてきた。他の騎士たちが退室していく中、彼女の表情には申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「テル、少し話があります」
カリアは俺を部屋の隅に呼んだ。彼女の琥珀色の瞳には、普段見せない迷いの色があった。
「重圧をかけたくないのですが...」
カリアは言葉を選ぶように話し始めた。その声はいつもより小さく、彼女なりの気遣いが感じられる。
「あなたの成功を信じています。もしヴァルドフェール低地を数に勝るマキャベリアの重装歩兵に突破されれば、我々にはそれを止める手段がありません」
俺は深呼吸をして頷いた。責任の重さが肩にのしかかってくる。
「テルには今すぐヴァルドフェールに行って、銅線の設置や水路の状況を最終確認してもらいたいのです。そして適切なタイミングで力を発動できるよう、万全の準備をしてください」
「分かりました」
俺の返事を聞いて、カリアの表情が少し和らいだ。彼女の肩の力が抜け、いつもの穏やかさが戻ってくる。
「騎士団の皆も、フィロソフィア王国の民も、みんなテルを頼りにしています」
カリアはそう言うと、俺の肩に手を置いた。その手は温かく、力強い。
「私も信じています。必ず成功できます」
その言葉に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
————
ほどなくして、俺はヴァルドフェールへと向かった。カリアが副長として俺に付けてくれたレオン・レーヴェンと共に馬にまたがり、午後の暖かな陽射しを背に受けながら、石畳の道を進んでいく。レオンは20代後半だろうか、短い黒髪に深い緑色の瞳。筋骨隆々とした大柄な体格で、武術にも優れると聞く。カリアが俺を守るために彼を付けてくれたのがすぐに分かった。
途中、王立学院の前を通りかかった時、ふと立ち止まった。いつもの生徒会室では、今頃ジーナたちは何をしているだろうか。ミルは相変わらず難しい本を読んでいるのか、ルーシーは言葉について考察しているのか。
「みんなを守るために」
俺は心の中で呟くと、再び馬に拍車をかけた。
ローレンティア地方に着くと、俺とレオンはすぐにヴァルドフェール低地に向かった。モンクレール高地から見ていたのとは印象が違い、実際のヴァルドフェールは思ったよりも幅が狭く感じられた。両側の丘は想像以上に高い。
「まるで天然の関所のようですね」
レオンが感嘆の声を上げる。彼が言うとおり、ローレンティア鉱山から市街地に向かうには、ここを通るより他に道はない。
低地は湿地帯になっていて、思ったより足場が悪い。そこに指示通り、銅線が3本引かれ、手前で一つにまとめられていた。
「まずは銅線の動作確認をしよう」
俺は両手で耳たぶをつまみ、「エレキテル」と唱え始めた。レオンは興味深そうに俺を見守っている。40分ほど続けると、体が青白く光り始める。満充電の証拠だ。レオンの表情が変わる。
「いや、驚きました、隊長」
レオンは俺を「隊長」と呼ぶ。
俺は息を深く吸い込んでから、エミールの剣を銅線の束に下ろした。
「バチッ!」
何かが裂けるような大きな音が響いた後、周囲に水蒸気が立ち上る。電気が銅線を通って伝わっているのが確認できた。効果的に電流が流れている証拠だ。
俺とレオンで銅線に沿って歩きながら確認していく。銅線の周りには水蒸気が立ち上り、手で触ると熱を持っている。
「隊長! こっちのはだめですね」
別の銅線に沿って歩いていたレオンの声が響く。
どうやら、3本のうち1本は先端の3分の1ほどは電気が通っていないようだった。
その銅線をゆっくり確認していくと、線が切れているのを発見した。おそらく設置の際に何かに引っかけて切断してしまったのだろう。俺は慎重に銅線同士を繋げ直す。
何度か実験を繰り返し、全ての線に電気が通ることを確認した。これで準備は整った。
次は水路の確認だ。指示通りにメルツ川からヴァルドフェール低地まで水路が引かれており、水門を開けば短時間で低地は水で満たされるだろう。メルツ川の水量も十分にある。
「よし、準備完了だ」
俺は安堵のため息をついた。レオンも頷く。しかし、同時に不安も込み上げてくる。本当に上手くいくのだろうか。
————
作業に没頭しながら、俺は不思議な感覚に襲われていた。
自分がこの場所で重い責任を背負い、国の命運を分ける作戦の一端を担っていることの不思議さ。そして、実際の戦闘に参加することへの大きな不安。
この世界に来た当初は、何もできない自分に歯がゆさを感じていた。でも今は、むしろ責任の重さに押し潰されそうになっている。
エマの顔を思い出す。彼女の青い瞳に宿る信頼の光。生徒会のメンバーたちの笑顔。大ジャンヌの温かな微笑み。テオリア女王の威厳ある佇まい。
みんなを守るためには、自分の役割を確実に果たさなければならない。
作戦全体の成否については、カリア団長を信じるしかない。彼女の戦術眼と指揮能力なら、きっと我々を勝利に導いてくれるだろう。
丘の向こうに沈む夕日を見ながら、俺は心の中で呟いた。
「やるしかない」
夕暮れの光がヴァルドフェール低地を赤く染める中、俺は決意を新たにしていた。エマの笑顔、生徒会室での日々、王立学院での穏やかな時間。それら全てを守るために、俺は戦わなければならない。
風が吹いて湿地の草を揺らし、銅線がかすかに光を反射した。明日、この場所が戦場になるかもしれない。しかし俺は準備を整えた。後はその時を待つだけだった。




