第45話:ルーシーと「国際条約」
王宮の大広間は、厳かな空気に包まれていた。巨大なステンドグラスから差し込む太陽の光が床に色とりどりの模様を描き出し、高い天井には精巧な彫刻が施されている。俺は、テオリア女王に呼ばれ、その場に立っていた。
「ナオテル・イフォンシス・デカペンテ」
テオリア女王が優しく微笑みながら呼びかけた。純白のドレスに身を包んだ彼女は、窓から差し込む光を受けて金色の髪が輝き、紫水晶のような瞳には穏やかな光が宿っていた。ドレスの裾はわずかに床を撫で、彼女の動きに合わせて波のように揺れる。
「はっ」
俺は深く頭を下げてから返事をした。エミールの剣が腰に心地よい重みを与え、女王の前でも俺に落ち着きをもたらしてくれる。
「先日、先代王の時代から外交を任せているクラウス卿が全権としてマキャベリアとの交渉に成功し、ローレンティア鉱山の共同開発についての条約をまとめ上げました」
テオリア女王の声には、静かな喜びが混じっていた。その唇には満足げな笑みが浮かび、長い間の緊張から解放された安堵感が伝わってくる。
「それは、おめでとうございます」
「ええ、王宮には久しぶりに明るい空気が流れています」
女王の言葉通り、宮廷の役人や侍従たちの表情には安堵の色が見えた。この数ヶ月、マキャベリアとの緊張関係に神経をすり減らしていたのだろう。彼らの肩からは重荷が降りたかのように、姿勢が柔らかくなっている。
「ナオテル」
テオリア女王が再び俺に向き直った。真剣な光を帯びる紫水晶の瞳で見つめながら続ける。
「早速、大ジャンヌにこの条約文を届けていただけませんか?この国の未来を左右する条約を、生徒たちにもぜひ読んでほしいのです」
「承知いたしました」
俺は深く頭を下げた。
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「待っていたよ、テル」
大ジャンヌは校長室の窓際から振り返り、明るく笑った。茶色の髪が肩で揺れ、カジュアルな服装が自由な精神を表現しているようだ。窓から差し込む光が彼女の横顔を包み、輪郭を柔らかく照らしている。
「テオリア女王から、条約文を預かってきました」
俺は厚い羊皮紙の束を差し出した。条約本文は重々しい文体で書かれており、この世界で普通の文章は読める俺でも、半分ぐらいしか意味が取れなかった。
「ありがとう」
大ジャンヌは条約文を受け取ると、丁寧にページをめくり始めた。彼女の表情に安堵の色が広がり、羊皮紙を扱う様子からはこの文書の重要性への敬意が感じられる。
「これで、当面の危機は過ぎ去ったわけだね」
大ジャンヌの声には喜びと安心感が混じっていた。陽光に照らされた横顔からは長い間の緊張感が解けていくのが見て取れる。
「良かったです」
「本当にね」
大ジャンヌは条約文を大切に机の上に置き、再び俺を見た。肩の力が抜け、リラックスした姿勢に変わる。
「テル、この条約文を生徒会に持っていってもらえないかな。生徒たち全員に読ませたいから、生徒会で書き写して10部にしてほしいんだ」
「10部ですか?」
コピーなら俺がとってきます、と思わず言いそうになったが、この世界にそんなものはなかった。
「ああ、各クラスに回覧したいんだよ。歴史的な条約だからね。特に、未来の政治家や外交官を目指す生徒たちには、貴重な学習材料になるはずだ」
情熱を宿した茶色の瞳からは、教育者としての使命感が伝わってくる。大ジャンヌは常に生徒たちの学びを第一に考えている。
「わかりました。すぐに生徒会に届けます」
俺が立ち上がると、大ジャンヌが思いがけず呼び止めた。
「テル、君のおかげだよ」
「え?」
「君が『雷の剣』で見せた力がなければ、マキャベリアはこんなに早く交渉のテーブルにつくことはなかっただろう」
大ジャンヌの言葉に、俺は少し照れくさくなって頭を掻いた。
「いや、それは...」
「謙遜する必要はないよ。君の力が、この国の未来を変えたんだ」
俺は深く頭を下げると、条約文を抱えて校長室を後にした。
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「フォルスク条約、ついに締結されたのね!」
俺が生徒会室のドアを開けると、エマが嬉しそうに立ち上がった。動きに合わせて銀色の髪が揺れ、青い瞳に喜びの色が浮かぶ。白いブラウスの胸元で小さなリボンが弾むように揺れ、その姿は春の陽光のように明るかった。
「ああ、ついさっき王宮から持ってきたところだ」
俺は条約文を生徒会の大きな机の上に広げた。エマ、ミル、ルーシー、ジーナの四人が集まってきて、興味深そうに条約文をのぞき込む。
「大ジャンヌが言うには、これを10部書き写してほしいそうだ。各クラスに回覧するみたい」
「10部?大変な作業ね」
ミルが少し面倒くさそうな表情を浮かべた。栗色の髪が揺れる彼女は、小柄な体に似合わない大きな本を抱え、胸元の四つ葉のクローバーのブローチが窓からの光を受けて柔らかく光っている。
「でも、これは歴史的な瞬間だよ」
ジーナが落ち着いた声で言った。銀灰色のショートカットがコバルトブルーのマントの上で揺れる。
「そうそう。ひとりで書くわけじゃないし、みんなで協力すれば意外と早く終わるわ」
エマが笑顔で言った。窓からの光が彼女の銀色の髪に反射している。
「ところで、ジーナ」
俺は条文をのぞき見ながら尋ねた。
「この条約、具体的にはどういう内容なんだ?」
ジーナは条約文に目を落としながら、説明し始めた。
「フォルスク条約と呼ばれているのは、交渉が行われたエンポリアの首都の名前からきているんだ。50年間の期限付きで、全100条からなるとても詳細な条約だよ」
「100条もあるの?」
俺が驚くと、ジーナは微笑んだ。知的な光を宿した青緑色の瞳で続ける。
「条約の中心は、高品質の鉄鉱石についてフィロソフィアは独占せず、共通市場を創設して流通させるということ。それから、ローレンティア地方はこれまで通りフィロソフィアに帰属するけれど、より中立的な立場を保証するために自治権を認めているようだ」
ミルが小さな指で条約文を指しながら続けた。軽やかな動きと鋭い観察眼を光らせる青灰色の瞳が印象的だ。
「その自治については、フィロソフィア、マキャベリア、エンポリア、ヘルメニカの4ヵ国の代表からなる理事会と共同で行うように決められているみたい。これなら一国だけが独断で決めることはできないから、公平さが保たれるわね」
「なるほど...」
俺はゆっくりと頷いた。しかし、正直、その意味はほとんど理解できていない。難しい言葉が並ぶ条約文に、少し頭が混乱する。
「では、それぞれが条文を書き写しましょう」
ルーシーは既に紙とペンを用意していた。漆黒の長い髪が優雅に肩から流れ落ち、紺碧の瞳には真剣な光が宿る。白いブラウスの袖が腕の動きに合わせて繊細に揺れる、無駄のない所作が彼女らしい。
皆が席に着き、条約文を読みながら写し始める。紙をめくる音と、ペンを走らせる音だけが静かな部屋に響いていた。
「この条約は本当に素晴らしいわ」
エマが作業をしながら感想を述べた。繊細に動くペンを持つ指先に意識を集中させている。
「ローレンティアの問題が平和的に解決したなんて、信じられない。この条約があれば、誰もが争うことなく公平に鉄鉱石を使えるようになるわね」
「この条約は、最大多数の最大幸福の素晴らしい例だね。どの国も譲り合って、結果的に全員が幸せになれる道を選んだわけだから」
ミルの言葉に合わせて小さな指先がページをめくる。前かがみになった姿勢で栗色の髪が頬にかかる。
「この条約では対立していた意見がうまく統合されて、より高い次元の答えにたどり着いたと言えるね。マキャベリアの主張とフィロソフィアの主張、両方の良いところを生かした素晴らしい条約だよ」
ジーナも満足そうに頷いた。
皆がポジティブな感想を述べる中、俺はルーシーが黙ったまま条約文を読んでいることに気づいた。微かな懸念の色が浮かぶ表情に、真っ直ぐに伸びた漆黒の髪が繊細な横顔を縁取り、長いまつげが瞳に影を落としている。
「ルーシー、どうしたんだ?何か気になることでもあるのか?」
俺の問いかけに、ルーシーはゆっくりと顔を上げた。
「この条約には憂慮される点があります」




