第43話:カーラと「自己責任」
夕暮れ時の王立学院。林立する白亜の塔から橙色の光が散りばめられ、石畳の道には長い影が伸びていた。
「ふぅ...今日も一日終わったな」
俺は衛兵の装備を外すと、学院の正門を出た。騎士団の研修と学院の衛兵の仕事を両立する日々。疲れは溜まっていたが、充実感もあった。夕陽を背に正門を出て、街へと続く小径を歩き始める。
ふと前方に見覚えのある後ろ姿が目に入った。小柄な体、セミロングの黒髪、華奢な肩。間違いなく小ジャンヌだ。そして彼女の隣には見知らぬ少女の姿。長い赤い髪を左右で三つ編みにした、背の高い痩せた少女が並んで歩いている。
「小ジャンヌが誰かと一緒にいるなんて珍しいな」
好奇心に駆られた俺は、二人の後をつけてしまった。少し後ろめたさを感じつつも、距離を保ちながら歩いていく。
「ちょっとストーカーっぽいな、俺」
自己嫌悪を感じながらも、俺は静かに二人の後を追った。
二人は石畳の橋を渡り、旧市街へと入っていった。その直後、二人は川沿いの狭い路地に足を踏み入れた。俺は立ち止まり、その路地を見つめる。
「ここって...」
エマの言葉が脳裏に浮かぶ。あの辺りは治安が悪いから、行かないようにと、彼女は言っていた。
小ジャンヌの姿はすでに路地の奥へと消えていた。その小さな背中が不安をかき立てる。俺は一瞬迷った後、彼女の後を追った。
路地は徐々に狭くなり、建物は段々と粗末になっていく。瓦が欠けた屋根、剥げ落ちた壁、窓の割れたガラスなど、学院周辺の華やかな街並みとは別世界だった。
「貧民街か...」
陰鬱な雰囲気が漂う一角に、俺は立ち尽くした。フィロソフィアの首都であるクロイツベルクにこんな場所があるとは知らなかった。
小ジャンヌと赤毛の少女は路地が少し広くなった場所で立ち止まった。二人は手編みの籠からパンを取り出し始めた。するとどこからともなく、粗末な身なりの子どもたちが現れ、二人の周りに集まってきた。
「わあ!カーラのパン!」 「今日も来てくれたんだ!」 「ぼくにもちょうだい!」
子どもたちの元気な声が響く。パンを受け取った子どもたちは、まるで宝物を手に入れたかのように嬉しそうに笑った。
俺が物陰から様子をうかがっていると、突然、小ジャンヌと視線が交差した。彼女の薄茶色の瞳が細いフレームの眼鏡越しに俺を捉える。一瞬の沈黙の後、彼女は小さく頷いた。
「しまった...見つかっちゃったか」
仕方なく、俺は子どもたちの輪の外へと歩み出た。
「テル、あなたも来たのね」
小ジャンヌの声には、意外にも驚きは感じられなかった。まるで俺が来ることを予期していたかのように。彼女の黒髪が夕日を受けて不思議な輝きを放っている。
「ここで何をやっているの?危ないんじゃないの?」
俺は周囲を警戒しながら尋ねた。
「危なくなんかないです。むしろ、ここがこの街で最も安全です。もう何も奪われるものがないのですから」
赤毛の少女が、皮肉めいた口調で答えた。その茶色の瞳には、俺に対する警戒と好奇心が混じっていた。
「こちらは、カーラ。私の友人です」
小ジャンヌが紹介する。彼女の白い指先が、赤毛の少女を指し示す。
「カーラ・マーカス。みんなは赤毛のカーラと呼んでいるけど」
カーラと名乗った少女は、自己紹介しながらも、パンを子どもたちに配る手を止めなかった。彼女の動きには無駄がなく、手際が良かった。
「パンを配っていたんだね」
「学院の食堂であまったものを、毎日ここに運んでいます」
カーラの説明に頷きながら、周りを見回すと、子どもたちが凄まじい速さでパンを食べている光景に胸が締め付けられた。彼らの空腹は想像以上のようだった。
「でも、子どもたちは、どうしてこんな場所にいるんだろう…」
疑問を口にした俺に、カーラの表情が変化した。
「あなたは、もしかして、彼らが何か悪いことをしたから、ここにいるのだと思っている?」
俺は言葉に詰まった。正直、そういう考えはあった。子どもには罪はない。しかし、その親には、真面目に働かなかったから、努力しなかったから、自己管理ができなかったから...そんなことがあったのでは、という思いが頭をよぎったことは否定できない。
「まあ...ある程度は自己責任もあるんじゃないかな。一生懸命働けば...」
言いかけた言葉は、カーラの鋭いまなざしで遮られた。三つ編みの赤い髪が揺れ、その瞳には燃えるような怒りが宿っていた。
「『貧しい人が貧しいのは自己責任だ』という考え方は、お金持ちが自分たちを正当化するために作ったおとぎ話よ」
カーラの声は低く、しかし力強かった。肩で息をする彼女の胸の動きが、その怒りの強さを表している。
「貧困は怠け者だからでも努力不足でもなく、この社会の仕組みそのものから生まれるの。お金持ちは働く人たちを少ない賃金でできるだけ働かせて富を増やす。この仕組みは社会全体に組み込まれていて、どんなに個人が『自分の責任』を果たそうとしても、多くの働く人たちは貧困から抜け出せないようになっているのよ」
先ほどまでの少女は消え、その場には情熱に満ちた闘士が立っているように見えた。
「本当の解決策は『自己責任』という言い訳を捨てて、働く人たちが力を合わせてこの不公平な社会の仕組みを変えることよ!」
その言葉に圧倒されて言葉が出てこない俺を見て、小ジャンヌがため息をついた。細いフレームの眼鏡が光を反射し、薄茶色の瞳が俺を見つめている。夕日に照らされた彼女の白い頬が、淡く桃色に染まっていた。
「カーラの言葉は厳しいけど、本質を突いていると私は思う」
彼女は静かな声で語り始めた。繊細な指先で眼鏡を直しながら、熱を帯びた言葉を紡ぐ。
「貧困を単なる『自己責任』にするのは、人間が置かれた状況を無視した考え方よ。確かに私たちは自由で、その自由のおかげで責任も生まれる。でも、その自由は何も制約のない空間で使われるわけじゃないの」
小ジャンヌの言葉には、深い思索の跡が感じられた。彼女のセミロングの黒髪が風に揺れ、その動きが彼女の言葉に静かなリズムを与えている。
「人はみな特定の社会や経済、歴史の中に『放り込まれて』いて、その状況が、個人で選べることと選べないことを形作るの。貧困という状況は多くの場合、個人では選べないことによって生じているわ」
俺は二人の言葉に黙って聞き入った。自分の考えの浅はかさが恥ずかしく思えた。
「じゃあ、組織として何かできることはないのかな」
俺が口を開くと、カーラと小ジャンヌは顔を見合わせた。
「学院の生徒会にこの問題を相談したら、何か変わるかもしれない。ジーナなら...」
カーラは鼻で笑った。
「ジーナ…あの人は逆立ちをして頭で歩いているような人よ」
赤い三つ編みが弾むように揺れる。
「頭脳は明晰、でも現実とずれているの。頭の中の理想だけで現実を理解しようとする人には、本当の変化は起こせないわ」
その言葉に、俺は少し反論したくなったが、思いとどまった。
「でも、君たちは、こんな立派なことしているんだから、表彰されるべきだよ」
「断ります」
小ジャンヌの声は静かだが、断固としていた。彼女の細い眉がきりりと引き締まり、決意を表している。
「表彰とは権力者に認めてもらうことに過ぎないわ。それを受け入れるということは、その権力者の価値観を認めることになる。私が彼らにパンを配るのは、誰かに褒めてもらうためじゃなく、それが必要だから。そして、その必要性を生み出した社会の仕組みそのものを変えることこそが本当の解決よ」
俺は言葉に詰まった。彼女たちの行動と言葉には、これまで学院で出会った哲学者少女たちとはまた違った強さと確信があった。
「じゃあ、俺に何ができる?」
俺の率直な問いかけに、カーラの表情が少し和らいだ。硬かった口元がほんの少しだけ緩み、瞳に温かみが戻る。
「まずは現実を知ることね。目の前の現実をしっかりと見て、そこから考え始めることよ」
彼女は周りの子どもたちに視線を移した。パンを口いっぱいに頬張る子、友達とそれを分け合う子、家族に持ち帰ろうと大事そうに包む子。
「そして、現実の中に飛び込むこと。考えることと行動することは常につながっていなきゃダメなの。頭の中だけで思い描く理想は、結局ただの空想に過ぎないわ」
カーラの言葉に、俺は静かに頷いた。彼女たちの姿勢から学ぶことは多いと感じた。
「少し手伝ってもいいかな?」
俺の言葉に、二人は顔を見合わせた後、小さく頷いた。小ジャンヌの唇に、珍しく小さな笑みが浮かぶ。
夕暮れの光が街を赤く染める中、俺たちは貧民街の子どもたちにパンを配り続けた。
フィロソフィアという理性の国は、様々な思想と矛盾を内包していた。そしてそれは、この世界の複雑さと深さを物語っているのかもしれない。
自分の家に戻る道すがら、俺は彼女たちとの出会いに思いを馳せた。カーラの赤い三つ編み、小ジャンヌの静かな眼差し、そして子どもたちの笑顔が、記憶に鮮やかに焼き付いていた。夕日に照らされた石畳の道は、いつもと同じ道のはずなのに、今日は少し違って見えた。




