第22話:生徒会と「トロッコ問題」
夏の陽射しが窓から差し込む生徒会室は、珍しく倦怠感に包まれていた。先日の緊張感溢れる会議の反動か、通常なら活気に満ちているはずの空間が、どこか力の抜けたような雰囲気に支配されている。
ルーシーは提案書の作成に徹夜で取り組んだ疲れか、熱を出してお休み。エマとミルも普段なら哲学書を読み込んでいるはずなのに、机に向かってぼんやりしている。銀色の髪を三つ編みにしたエマの青い瞳はいつもの鋭さを失い、長いまつげが物憂げに下がっていた。ミルの栗色の髪は普段のようにきちんと整えられておらず、少し乱れて頬にかかり、その疲れた様子がかえって愛らしく見える。
生徒会長のジーナでさえ、いつもの凛とした姿勢が崩れ、銀灰色のショートカットが額にかかり、背筋が少し丸まっているように見える。青緑のマントも椅子の背にかけられ、通常の制服姿は威厳ある雰囲気が薄れ、どこか親しみやすさを感じさせた。
俺は窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。中庭では制服姿の生徒たちが行き交い、木々の緑が風に揺れている。しかし部屋の中の空気は、いつになく淀んでいるように感じられた。
「テル、何か面白いことを言ってみてください」
突然、エマの物憂げな声が静寂を破った。彼女の澄んだ青い瞳は俺を見上げ、銀色の髪が肩を滑り落ちる。普段は理性を重んじる彼女が、こんな軽いことを言うなんて珍しい。哲学的な話題ではなく、純粋に「面白いこと」を求めるエマの姿に、少し驚く。
「そうだな...」
俺は考え込んだ。この重苦しい空気を吹き飛ばす何か。ふと、ルーシーと言語ゲームについて話したときの言葉が蘇る。
冗談とは「真実ではない発言で笑いを誘発する意図を持つもの」と定義される…
「1+1=7」
俺の言葉に、気まずい沈黙が待っていた。
エマは首を傾げ、白いブラウスの襟元のリボンが揺れた。ミルは小さな体でため息をつき、胸元の四つ葉のクローバーのブローチが微かに光る。ジーナは眉を少し上げただけで、反応らしい反応は何もない。部屋の空気がさらに重くなった気がする。
「そういうのいいから」
ミルが小さな体で座り直し、栗色の髪を耳にかけた。
「テルはそういうのが面白いの?」
エマが言う。顔から火が出るような恥ずかしさ。いや、ここの人たちは普通じゃないから、逆にそういうのが面白いと思ったんだが。何とか、汚名を返上しなければ。
俺は机の下でこっそりスマホを取り出し、サンデラにメッセージを打つ。
『何か面白いこと言って』
すぐに返信が来た。
『みんな大好きトロッコ問題♥ S』
警戒する俺。また何かからかわれているのでは?裏取りが必要だ。スマホで「トロッコ問題」を検索してみる。
「暴走するトロッコを題材とした思考実験」
なるほど。これは難しい問題だけど、哲学好きの彼女たちなら食いつきそうだ。
「もう一回面白いこと言うから、聴いてくれる。今度は、マジで」
全員の視線が俺に向けられた。普段なら重圧を感じるような視線も、今日は力が抜けている。
「こんな思考実験がある。暴走するトロッコが線路の上にいる5人の作業員に向かって走っている」
俺の言葉が進むにつれ、エマの背筋が少しずつ伸び始めた。彼女の青い瞳に光が戻ってくる。白いブラウスがピンと張り、姿勢が正されていく様子が印象的だ。
「何もしなければ5人は間違いなく死ぬ。でも、レバーを引けば、トロッコは別の線路に切り替わる。ただし、その線路には1人の作業員がいて、彼は間違いなく死ぬことになる」
ミルも小さな体を起こし、栗色の髪を整える。彼女の大きな青灰色の瞳が好奇心で輝き始める。
「レバーを引くべきだろうか?それとも何もしないべきだろうか?」
俺の説明が終わると同時に、部屋の空気が一変した。ジーナでさえ、背筋を伸ばして椅子に座り直し、銀灰色の髪をかき上げた。彼女の青緑色の瞳が知的な光を取り戻している。
「レバーを引くべきです」
ミルが真っ先に答えた。小さな体が前のめりになり、テーブルに両手をついて熱心に語り始めた。
「最大多数の最大幸福という考え方から見れば、答えは明らかです。5人の命と1人の命という単純な計算だけでも、レバーを引いた方が全体の苦しみは少なくなります」
彼女は数字を空中に書くような仕草をして続けた。
「道徳的に正しい行為とは、結果として最大の幸福をもたらす行為のはず。犠牲を最小限に抑えるのは、理性的な判断として当然です」
「でも、それって本当に正しいのかしら」
エマが真剣な表情で言った。彼女の銀色の髪が肩で揺れ、頬が僅かに紅潮する。
「もし『危険にさらされている誰かを救うために、無関係の人を犠牲にしてもよい』という考えが普遍的なルールになったとしたら、どんな世界になる?それは私たちが望む世界ではないはずよ」
ミルが眉をひそめた。胸元の緑色のブローチが感情の高まりとともに揺れ、まるで彼女の鼓動を表しているようだった。
「でも、何もしないという選択も、5人の死を許容することになる。それは責任放棄ではないの?」
「意図の問題よ」
とエマは即座に反論した。彼女の声は冷静だが、その瞳は熱を帯びていた。銀色の髪が感情の高まりとともに揺れている。
「レバーを引く行為は、直接的に1人の死をもたらすという意図を含んでいる。これは普遍的な決まりになり得ない行為だわ。一方、何もしないという選択は、5人の死を望んでいるわけではない。トロッコが彼らを轢くのは残念だけど、私の行為の結果ではないの」
両者の議論が白熱する中、ジーナが静かに立ち上がった。彼女の銀灰色の髪が窓からの光を受けて輝き、青緑色の瞳には深い思索の色が宿っていた。
「君たちの議論はどちらも一面の真理を捉えている。しかし、その二つの対立を超えた高い視点での解決法を考えるべきだ」
ジーナは窓際に歩み寄る。彼女のすらりとした背中と肩のラインは美しく、優雅だ。
「エマの言う『人間を手段としない』という考えと、ミルの言う『最大多数の幸福』という考え。この二つは対立するように見えて、実は互いに補い合うものだ」
彼女は振り返り、俺たち全員を見渡した。
「この問題の本質は、個人の尊厳と社会全体の幸福という二つの価値のバランスにある。だが、より高い視点から見れば、両者は共に人間性の尊重という理念に基づいている」
彼女は部屋の中央に戻り、両手をテーブルに置いた。長い指先が木目の上を滑るように動き、その動きには思考の流れが表れているようだった。
「私なら、この特定の状況で何が『理性的』かを考える。単なる数の多さでもなく、行為の形式的な普遍性でもなく、歴史的・社会的背景の中で、具体的に何が人間らしさの実現につながるかを問うべきだ」
部屋に沈黙が流れた。三人の哲学的立場の違いが鮮明に浮かび上がった瞬間だった。窓から差し込む陽光が彼女たちの表情を照らし、部屋は再び活気に満ちていた。
俺は彼女たちの議論を聞きながら、なぜか心が温かくなるのを感じた。昨日の緊張感から解放され、いつものように純粋に哲学を楽しむ彼女たちの姿が俺には嬉しかった。
「テル、あなたはどう思う?」
ジーナが突然俺に話を振ってきた。全員の視線が一斉に俺に集まった。
トロッコ問題:倫理学者フィリッパ・フット(1920-2010)が考案した思考実験で、暴走するトロッコが5人の作業員に向かって走っており、あなたがポイントを切り替えれば1人の作業員のいるレールに進路を変えることができるという状況を想定します。「5人を救うために1人を犠牲にすべきか」という問いは、「結果を重視する」功利主義と「手段として人を利用してはいけない」という義務論の対立を浮き彫りにする現代倫理学の代表的な問題です。




