第四話:また、明日
21:30
「…そろそろ就寝時間ですね」
紡が不満そうな顔をする。
「もうちょっと…」
「許可できません。睡眠が足りないと、すぐ体調を崩すでしょう?」
「足りなかったら、明日、また一緒にお昼寝しようよ」
先週の休日、確かにそういうことがあったが。
ノートに書いてあることから、推測したのか。
「睡眠リズムを崩すと、昼夜逆転しませんか?」
壮一郎がまっすぐに見返すと、紡の目が泳ぐ。
「残りの白湯を飲みなさい。もう、喋ることは禁止です」
半分ほどに減っていた白湯を、紡が飲み干した。
そして、テーブルにマグカップを置く。
「では――」
照明のリモコンを手にした壮一郎の胴に、紡の腕が回される。
壮一郎は、一瞬の沈黙の後、ふっと息を吐いた。
紡の体温が自分のシャツ越しに伝わってくる。
呼吸を合わせ、しばし目を閉じた。
微かに香る湯上がりの匂い。
白湯で温まった、小さな体温。
「……全く」
紡の後頭部を見下ろし、呟く。
「喋るのを禁止したら、今度は言葉以外の方法で、私の防壁を壊しにかかるわけですか」
紡は、何も答えない。
ただ、少しだけ、力が強くなる。
これが愛情表情なら、どれほど幸せだろう。
浮かんだ希望を、打ち消した。
壮一郎は、紡の背中を、ゆっくりと一定のリズムで撫でた。
「……いいですよ。このままで」
しばらく、そのままでいた。
紡の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
壮一郎はブランケットを引き寄せ、紡の肩にかけた。
「……眠れそうですか?」
紡が、首を横に振る。
「……そうですか」
壮一郎は、紡の髪をゆっくりと梳いた。
「では、少し付き合いましょう。コグニティブ・シャッフルという睡眠法を試してみませんか」
紡が、顔を上げた。
「こぐに…?」
「コグニティブ・シャッフル――論理的な思考をゆるめて入眠を促す方法で、脈絡のない単語をイメージします。たとえば『あ』から始まるもの…アイス、赤、飴…」
続きを促すように、壮一郎は言葉を切った。
しばらく間があって、紡が続ける。
「あしびきの……」
壮一郎は、紡を見下ろした。
「……枕詞ですね」
「だって、言葉を出そうとすると、つい……」
「そうでしたね、あなたはそういう人でした…」
少し考えて、壮一郎が再び口を開く。
「では、私が言うものをイメージしていくのはどうでしょう?」
「いめーじ…」
「そうですね…沈む琥珀。崩れた積み木。夜明けの針…」
壮一郎は、思いつくままに言葉を呟く。
紡の呼吸がゆっくりとしたリズムへ変化していく。
穏やかな、深い呼吸。
言葉を切り、反応がないことを確認して。
「……よく頑張りました」
誰にも聞こえない声で、壮一郎は呟いた。
ノートに、一行書き加える。
『21:30 — 就寝。コグニティブ・シャッフル使用。単語を自分で出すと物語化する(「あしびきの」と言っていた)ため、イメージ提供。』
壮一郎はブランケットを直し、紡の額に短く唇を寄せた。
壮一郎は、紡の隣で本を開いた。
壮一郎の就寝時間は、もう少し先だ。
ページをめくる音だけが、静寂に溶けていく。
「……夢、みた」
微かな声に、目を開けた。
時計を見る。
23時14分。
紡が、目を開けている。
まだ、夢の中にいるような顔で。
「どんな夢でしたか」
紡が、ゆっくりと言葉を探す。
「……くろい、くまみたいなの」
壮一郎は、静かに耳を傾ける。
「車の窓みたいな、四角いガラスの向こうから……こっちをみてた。二匹」
「……二匹」
「最初は、一匹だったんだと思う。でも、増えてた」
壮一郎は、ノートを開き、書き留める。
『23:14 — 中途覚醒。黒いクマの夢。車の窓から二匹。最初は一匹だったと言っていた。』
「……ネタにしますか?」
紡が、小さく笑う。
「したい」
「……やはり」
壮一郎は、ノートを閉じた。
「まだ、夜は長い。クマも預かりましたから、安心してください」
「…ひいらぎさん、まだねないの?」
「もう少ししたら、寝ますよ」
紡が、壮一郎の腕に頭を預ける。
じっと見る紡に、首を傾げる。
また、分からなくなっているのだろうか。
ノートを手に取ろうかと思った時。
「ひいらぎさん、りらーっくす」
まるでおまじないのように、柔らかな声。
壮一郎は、溜息とともに体の力を抜いた。
「…ありがとうございます、紡さん」
紡は満足そうに、目を閉じる。
壮一郎は本を閉じ、テーブルへ置いて。
紡の呼吸に、耳を澄ませる。
規則正しい、穏やかな音。
壮一郎は、目を閉じた。
「おやすみなさい、紡さん。……また、明日」




