9
ガタゴト馬車が揺れる。
当初予定していた一週間より一日だけ遅れて、アズウェル領へ帰ることになった。行きは一人だったが、帰りはアルフレッドも一緒だ。その為、荷物は別便で後から送られてくることになった。行きと同じ六人乗りの箱馬車で、増えた荷物は土産物だけだから、詰め込めないわけではない。窮屈なのが嫌だとアルフレッドが言うので従った。正直馬車酔いを避けたいから、一人で気ままに帰りたかったのだが。
向かい合う対角線上の席。
進行方向と逆側にアルフレッドが座ってくれたので良かった。和気藹々とした空気は当然にない。次に王都にくるのはいつだろうか、とリリーが窓から外を見ていると郊外に出たあたりで、
「寝たらいいだろう」
とアルフレッドがぶっきらぼうに言った。
「え?」
「酔うんだろ。寝ろ」
そんな馬鹿な。男性の前で横になるなんて淑女としてあるまじき所業。そういう気遣いをしてくれるなら、荷馬車でよいから別々に帰らせて欲しかった、とリリーは思った。
「なんだ」
無言でアルフレッドを見つめると、不機嫌な声が返ってくる。
「……じゃあ、寝ますね」
連日のダンスと旅行疲れが溜まっているし、どうせ相手はアルフレッドだ。別に横になってよいのではないか。なんだか体裁を気にするのが馬鹿らしくなり、リリーは答えた。単に、欲望に負けたとも言える。
「好きにしろ」
アルフレッドが車窓に視線を流す。
なのでリリーは徐に靴を脱いで、本格的に眠る体勢になった。流石にぐうぐう眠るわけにはいかないので、目を閉じるだけにしていようと思った。しかし、座り心地のよい座席は寝心地も抜群だ。いつの間にか夢の中へ入ってしまったことは、情状酌量して欲しい。
「おい、アズウェル領に入ったぞ。本気で寝過ぎだ。お前はどういう神経をしているんだ」
ゆっくり起き上がって、窓の外を見る。田園風景ではなく領民達の居住区が目に入った。王都とアズウェル領を結ぶ入り口の村だ。出発時刻が早かったから、まだ日は沈んでいない。だが、ここからリリーの住む街までは、まだ一時間は掛かる。もう少し寝かせてくれて良かったのではないか、とリリーはくさくさ思った。
「あ」
「なんだ」
「バゲットサンドを忘れていました」
馬車の中で食べるようにコレットが持たせてくれた。朝ご飯はきっちり食べて来たが、昼食はとっていない。王都とアズウェル領までの間で飲食できる店がないのだ。
「食べるか、寝るか、か」
アルフレッドが呆れて告げた。リリーは特に反論することもなく、アルフレッドの隣に置いたバスケットに手を伸ばした。
水筒と綺麗に個装されているバゲットサンドが四つ入っている。取り敢えず一つをアルフレッドに差し出したが、要らないと断られた。やむなくリリーは一人で勝手に食べることにした。
「お前は自由な奴だな」
「馬車の中で食べると美味しいですよね」
「俺は食事は落ち着いて食べたいんだ」
「見解の相違ですね」
リリーが答えると、アルフレッドは暫く黙って窓の外を見ていた。が、突然、バゲットサンドを取り出して食べ始めた。だったら、初めから素直に受け取れば良かったのではないか。
「いつまで、アズウェル領にいるんですか?」
「なんだ。俺がいたら悪いか」
今、喧嘩を売っただろうか。沈黙もアレなんで話題を振った。授爵パーティーの為に戻って来ていると聞いているから尋ねたまでだ。リリーは諦め切った生温かい気持ちで、アルフレッドを無視してバゲットサンドを頬張った。ローストビーフが入った豪華な物だ。ホースラディッシュのソースがつんと鼻に効いて美味しい。
「四つの領地のうち何処かを管理するよう言われている。アズウェルにすることにした」
「そうなんですね」
「住み慣れているからな」
「昔とは色々変わりましたよ」
答えると不機嫌にジロッと睨まれた。九年も離れていたのだ。変わって当たり前だろうに。
「リリー」
「何ですか」
「じゃあ、お前が案内してくれたらいいんじゃないか」
「え」
それは父や義兄や他の貴族達の仕事ではないか。アズウェル領と一言に言っても広い。実際は十七の区に分かれていて、それぞれに独立している。アマリエ伯爵は、それらを取りまとめる分割統治者の任を得ていて、収支報告を監査し、予算を編成するのが仕事だ。謂わば中間管理職だ。十七区を実質に運営している貴族達はそれぞれ癖があり、運営費の配分には毎度頭を悩ませている。
「わたしが分かるのは、新しいダンスホールができたとか、美味しいカフェがオープンしたとかですけど? 視察にならないでしょ」
「ダンスホール? お前、そんな所へ出入りしているのか」
意外な所に食いついて来た。
ダンスホールは、ここ二十年くらいで流行り始めた新規産業だ。音楽、飲食、給仕人の手配、広い会場、と夜会を催すにはお金が掛かる。下級貴族がおいそれと開けるものではない。そこで、夜会を会費制で開催しているのがダンスホールだ。所謂、男女の出会いの場であり、若者の娯楽施設だ。ほぼ、毎日営業していて前日にチケットを購入しなければ入場規制に引っかかることもある。元高位貴族のカントリーハウスをリノベーションしていることが多く、大陸全土に続々とオープンしている。
「……友達に誘われて何度か行きました。別に今時普通だと思いますけれど」
アルフレッドが眉を寄せる。自分で夜会も開けないなんて、とダンスホールを嘲笑する高位貴族は多い。アルフレッドもその口だろうか。それはないか。自分以外は全部見下しているので、高位とか下位で分けて軽視したりはしない。皆に等しく屑である点が、この男の美徳だ。
「あ、領地にあって王都にないもの、ありましたね。ダンスホールです」
「は?」
「貴方が聞いたんじゃないですか」
「聞いてない」
鳥頭だな、とリリーは思った。
「ダンスホールか……」
アルフレッドがポツリと呟く。やけに拘るな、と思った。嫌な予感を全身で感じる。
――神様。この男が来場するとか言い出しませんように。
あそこは、同じ学園に通っていた生徒達で賑わっている。婚約解消について色々噂されているし、その上、こんな暴君を連れて行ったらどうなるか。目立たず、騒がず、地味に平凡に生きていきたいのだ。
「あの……」
ダンスホールには行きませんよ、と先手を打つ前に、
「お前の言いたいことは分かっている」
とアルフレッドが述べた。意外な展開にリリーは驚きを隠せなかった。同時に、良かった、と素直に安堵して、
「そうですか」
とだけ返した。だが、喜びは伝わったようで、アルフレッドが、馬鹿にしたような冷めた目でこちらを見てくる。ダンスホールに行かずに済むならなんでもよい。リリーは気にすることなく、ローストビーフサンドを完食した。だから、「言いたいことは分かっている」が「聞いてやる」とは言っていないことに気づかなかった。馬鹿にしたような、ではなく、何も分からず浮かれる姿を馬鹿にしていたのだ。屑野郎が。
帰宅して、翌日。リリーは昼過ぎまで寝ていた。旅行疲れというより、王都にいた時の生活リズムになってしまっている。このままでは怠惰な人間に成り下がり、非常に良くない気がする。明日から早起きしようと決意し怠い身体を起こして着替えた。自室から、一階へ下りていくと応接間から声がする。リリーが入って行くと、
「リリー! やっと起きたわね。凄い荷物が届いているわよ」
「貴女、これ全部アルフレッド様に買って頂いたの? 駄目じゃないの」
と姉のエリスと母のクレアとが同時に言った。応接間を陣取っているドレスバックの山を見て何が起こったかは分かった。旅行荷物と共に、借り物のはずのドレスが全部送られてきている。
「買ってもらった覚えはないんだけど……」
「何言ってるの。貴女宛に届いているのよ。昨日だって、家の前まで送って頂いたのに、そのままお帰ししちゃって、困った子ねぇ。お父様にお話ししてお礼にお伺いしないと」
家の前まで「送ってもらった」と言うより「置き去りにされた」と表現した方が正しい。それに、ドレスは借りていただけだ。怒られるのが腑に落ちない。母は常識を説いていると思うが、相手がアルフレッドでは通用しないのだ。
「まぁ、まぁ、お母様、アルフレッド様は難しい方だから。リリーだってちゃんしているわよ」
エリスがリリーを庇うように言うと、
「それはそうかもしれないけれど、それとこれとは別でしょう」
と母が困ったように答える。理解はあるようなので助かる。
「ほら、リリー、手紙も届いているわよ。ねぇ、ドレス見てもいい?」
「うん。お土産は鞄の中」
リリーはエリスから差し出された白い封筒を受け取りその場でビリビリ開いた。宛名も差出人の記載もなく『今日六時に迎えに行く』とだけ記された便箋とダンスホールの前売チケットが入っているのみ。これはどういう脅迫なのか。今週末の授爵式の用意に忙しいのではなかったか。こんなに大量のドレスを貰ってしまっては、非常に断り辛いではないか。やり方が汚い。当日に誘ってこちらのスケジュールをどう思っているのだろう。予定など全く何もないのだが。
「可愛いドレスばっかりじゃない。ちょっと着て見せてよ」
「本当。リリーは地味な色ばっかり選ぶからこういうパステルカラーのドレスを着て欲しかったのよ」
エリスとクレアが、次々ドレスバッグを開けて、日頃のリリーの洒落っ気のなさに文句を言いつつ、はしゃいだ会話を続ける。別に地味な色を選んでいた意識はない。青や黄色のドレスは持っている。落ち着いた色合いであるだけだ。アーサーの雰囲気に合わせて選んだ。もちろん強制されたわけではない。勝手に選んで、密かに嬉しかっただけ。
「……お腹空いたから、先にご飯食べたい」
リリーがそっけなく答えると、エリスとクレアは顔を見合わせた。が、
「こんな時間まで寝ているからでしょう。しょうがないわねぇ。すぐに用意させるわ」
とクレアは幼い子供を諭すように告げて台所へ消えた。なんだかんだリリーに甘いのだ。
「それ、ダンスホールのチケットでしょ? アルフレッド様と行くの?」
クレアがいなくなると、エリスはリリーの手元を見ながら尋ねた。
「行くというか、連行されるというか」
「いつ?」
「今日」
「今日?」
エリスは驚いて目を開いた後、
「……懐かしいわね、そういうの」
と柔らかな表情で加えた。かつてアルフレッドは毎日毎日リリーの予定などお構いなしに尋ねてきては強制的に連れ出していた。全くもって優しい思い出などではない。
「鞄の中に化粧品入っているでしょ?」
リリーは、エリスがドレスにばかり気を取られているので、自分で旅行鞄を開けた。母と姉には化粧品、父と義兄にはワインを、後は王都で流行の焼き菓子とディガールで花のクッキーも購入した。
「それ何?」
鞄の中の包みを無造作にテーブルの上に並べたが、アルフレッドへのプレゼントだけは取り出さなかったので、目ざといエリスは不思議に思ったのだろう。
「香水」
「香水? リリーが香水なんて珍しいわね」
「わたしのじゃない。誕生日に香水を献上しろって言われたの」
「アルフレッド様? なんで香水指定なの?」
「さぁ? アーサーにプレゼントしたって言ったからかな」
リリーが面倒くさげに答える。
「……なんというか、可愛い人ね」
「どこが」
「アーサー様に焼きもち焼いているところ?」
「お姉様もあっちの味方するわけ?」
「どうして敵味方の話になるの」
「皆、わたしを無視してアルフレッド様とくっつけようとするから」
リリーがムスッとして言うので、エリスは苦く笑った。
アルフレッド・オーウェンが、リリーを好きらしい、という話は既にこの家の全員が知っている。リーク元は、リオルド・オーウェン公爵。リリーの婚約解消を、主君であるリオルドに告げないわけにはいかない。アマリエ伯爵が、報告に上がった際に、頭を下げられた。
「愚息はずっとリリー嬢を好きでいて生涯独身を貫くと決めている。リリー嬢が断るなら仕方ないが、是非チャンスをやって欲しい」
アマリエ伯爵は、それを打ち明けられた時は、正直半信半疑だった。アルフレッドが王都へ移った後、リリーとは全く接点がなくなっていた。アルフレッドは幼少期の性格こそ難ありだったが、今では品行方正で家柄も容姿も申し分なく、将来有望な若手貴族筆頭として名高い青年となった。数多の令嬢が秋波を送るが相手にされていないと聞く。それが何故? ずっとリリーを好きでいる? そんなことがあるはずはない。リリーがアーサーと婚約する時、快く承諾したではないか。
「アルフレッド様がいいって言ったから、アーサーと婚約する!」
あの時、リリーは確かにそう言ったのだ。
しかし、オーウェン公爵が嘘を吐くはずもない。どの道、アマリエ伯爵は、リリーに直様新たな婚約者を探す気はなかったため「承諾するか否かはリリー次第」ということで話は終わった。
そして、その三日後、定例会でアルフレッドに再会したアマリエ伯爵は、オーウェン公爵の話が真実であることを確信した。
そこから家族に話が伝わるのは早かった。親としては、あのアルフレッドが娘を見初めている、というのは嬉しいものなのだろう。エリスも、最初はロマンス小説さながらの事実に感嘆の声を上げた。だが、リリーだけはずっと怫然としていた。婚約を解消してから二週間しか経っていない。簡単に気持ちを切り替えられるはずもない。だというのに、父もオーウェン公爵も「リリーの意思を尊重する」と言いながら本音の部分ではアルフレッドを受け入れて欲しいのだ。それがリリーを苛つかせるのだろう。
エリスは、怨み節を吐くリリーの気持ちを逆撫でしないように、
「お父様も公爵様も、本当にリリーに無理強いする気はないと思うわよ」
と答えたが、
「建前上はね」
とリリーは更に不機嫌になった。ソファに深く腰掛け、天井を仰ぐようにして目を瞑り、一つ大きな溜息を吐いて、気怠げに口を開く。
「わたしが王都でなんて言われているか知ってる?」
「え?」
「アルフレッド様が長年片思いしていた御令嬢で、婚約者がいたけど無理やり別れさせられたらしいよ」
「何それ」
「家来が馬鹿にされるのが気に食わなくて上書きするのに流した噂よ。本人が、わざと」
「アルフレッド様がそう言ったの?」
「まさか。アルフレッド様の裏切り者の友達が教えてくれたの」
リリーに関する謂れ無い嘲笑には、エリスも憤慨している。だからといって噂の上塗りをしてどうなるのか。
「幼稚でしょ」
そうね、と答えるべきか否か。困ったエリスが、
「噂を上塗りするのにわざわざ王都に行く意味ある?」
と尋ねた。
「さぁ、そこまでは知らない」
リリーは全く興味なさそうに答えたが、同じ質問を自分がランスにした時は、
「そりゃあ、ぼやぼや仕事している間に、また横から掻っ攫われたら目も当てられないからでしょ」
としらっと返されている。本当に幼稚すぎて、流石にエリスに告げることは憚られた。
「じゃあ、ダンスホールに行くのって……」
「わたしを馬鹿にしている連中の鼻は明かしてはやれるかもね」
リリーは天井を向いたまま視線だけエリスに流して皮肉な笑いを漏らした。エリスは、その心情が推し量れず黙ってリリーを見つめる。アーサーと別れて以降「噂のほとぼりが冷めるまで」とリリーは屋敷から出なかった。ダンスホールには、その手の噂が何処よりも早く、面白おかしく飛び交う。今リリーが行けば、好奇の目に晒されるのは必至だ。噂を上塗りする為と言うが、諸刃の剣ではないか。
「嫌なら行かなくてもいいんじゃない? 旅行疲れが出て寝ているって言ってあげようか?」
エリスが心配げに告げる。昔も同じようなことがあった。強引なアルフレッドを窘めて「嫌なら行かなくてもいい」と周囲は常にリリーに告げていた。でも、リリーはいつもアルフレッドについて行く。不思議な二人だった。
「別に疲れてないし暇だから。取り敢えずご飯食べる」
エリスの懸念を他所にリリーは呑気に答えた。リリーらしすぎてエリスは笑った。リリーは「悩みなんてなさそう」と思わせるのが上手い。長所であり短所でもある。分かりやすくて分かりにくい。アルフレッドとは、多分真逆だ。
何にせよ、リリーが気の済むようにするのが一番いい。男連中は張りぼての味方らしいので、自分はちゃんとリリーの味方でいよう、とだけエリスは思った。




