生き抜くために
紀元前2世紀のことである。
エルサレムの北西100キロの町モディンの祭司マッタティアスは、シリアのアンティオコス四世による異教祭儀強制命令を拒否した。
マッタティアスは、異教祭儀を迫るシリアの役人とその命令に従おうとしたユダヤ人を殺し、息子たちを含む、厳格にユダヤ教を守る人々(約一千人)と山に逃れた。
その後、シリア軍は、ユダヤ教の安息日を狙い、山に逃れたマッタティアスとユダヤ教徒たちを襲撃した。
山に逃れたユダヤ教徒たちの一団は、ユダヤ教の安息日の規定に従って応戦することが出来ず、無抵抗のうちに殺されてしまった。
※安息日の基本原則(当時)
「一切の労働・活動を停止する聖なる日」
週の7日目(金曜の日没〜土曜の日没)。(神が創造の7日目に休んだことに由来 )
具体的な禁止内容(当時の理解)
当時すでにかなり厳格に理解されており、基本は「日常的な人間の能動的行為をしない」。
代表例:
・労働全般(農作業・商業・家事など)
・火を使うこと
・物の運搬や作業行為(後に細かく39分類された)
・戦闘は労働・行為とされ、 原則禁止と理解されていた。
戦うことも「活動・作業」に含まれると考えられ、安息日には武力抵抗しないという判断が生まれた。
ユダヤ教徒たちは安息日を理由に戦うことを拒み、シリア軍の襲撃に対して無抵抗のまま、殺されてしまった。
信仰の純粋さを守った結果、共同体そのものが滅びたのである。
この出来事は一つの問いを突きつける。
すなわち、規範を守るために滅びることは正しいのか、それとも規範を曲げてでも生き残るべきなのかという問題である。
この問題に対して、16世紀の思想家マキアベリ氏は、後者に近い立場に立つと考えられる。
彼にとって政治とは現実の力関係であり、道徳や宗教的規範はしばしばそれとは一致しない。
国家や共同体の存続がかかる場面においては、規範に固執することは現実への対応としては不十分となりうるし、必要ならばそれを逸脱する柔軟性こそが「徳」であると主張する。
この観点から見れば、安息日を守り続けて滅びた人々は、信仰的には純粋であっても、政治的・集団的には敗北している。
そして興味深いことに、後にユダヤ教徒側自身が「安息日でも防衛は許される」という解釈へと転換した事実は、現実への適応の不可避性を示している。
※後代のユダヤ法では「人命優先」が原則になり、「命を守るためなら安息日でも行動可能」という考えが成立した。
現代ユダヤ教でも、 人命救助は安息日より優先 が基本である。
さて、この構図は、決して過去の宗教的逸話に留まらないと思う。
現代日本において、平和憲法を守るべき絶対的規範と見るのか、それとも国家の安全保障環境に応じて再解釈・修正すべき現実的枠組みと見るのかという議論に、驚くほど似た緊張関係が存在するのではないだろうか。
周辺国から「軍事強化」と批判される政策も、マキアベリ氏的に見れば、理想を維持するか生存を優先するかという古典的問題の現代版に過ぎない。
重要なのは、規範を守ることそれ自体が目的化した時、その結果として何が失われるのかを直視することであると思う。(規範は本来、共同体を存続させるための手段であったはずである)
マッタティアスの時代に問われた問題は、形を変えてなお、私たちの前に存在しているのではないだろうか。
「日本が生き残るために、どうすべきか」、マキアベリ氏の言葉(警句)に、今まさに改めて耳を傾ける時期に来ているのではないだろうか。
マキアベリ氏の警句(完)




