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君主は、民衆が何か誤りをおかしても、

君主は、民衆が何か誤りをおかしても、苦情を言うことはできない。

なぜなら、民衆の犯した誤りは、統治者側の怠慢か、そうでなくても、統治者が犯したことを、民衆もまた、踏襲しているに過ぎないからである。

リヴィウスは言っている。

「大衆は常に、政治を行う者を模倣する」

ロレンツォ・メディチもこれに同意見だったらしく、次のような言葉を残している。

「君主が行うことを、大衆もまた行う、なぜなら、民衆の視線は、常に、統治者に向けられているからだ」


「政略論」


※リヴィウス

 ローマ帝政初期・アウグストゥス時代の歴史家で、『ローマ建国史』を著作した。『ローマ建国史』は前8世紀の都市ローマの成立から、初代皇帝アウグストゥスの時代までを論述し、一部は残っていないが、ローマ史の基本文献の一つとなっている。


※ロレンツォ・メディチ

15世紀後半、イタリアのルネサンス最盛期のメディチ家当主。イル=マニフィコ(偉大な人)と言われた。

 ロレンツォはメディチ家の全盛期をもたらしたコジモ=デ=メディチの孫、ピエロ(「痛風病み」イル=ゴットーゾ)の子。

 1469年、父のピエロが死に、20歳で推されてフィレンツェの「国家の長」の地位につく。共和政なので世襲はできないが、この時期までにメディチ派は市政の要職を独占していたのでその後見で権力を握ることができた。

しかし、反メディチ派の襲撃を受け、危機一髪で難を逃れ(この時弟のジュリアーノは殺された。1478年のパッツィ事件)

 またフィレンツェの強大化を恐れ反メディチ派と結んでいたローマ教皇とナポリ王国もすぐれた外交手腕で屈服させ、かえって権力を強めることに成功した。


統治者を学校長とした場合を考えてみた。

最近発生した辺野古沖のボート転覆で修学旅行中の女子生徒と船長が死亡、その他、怪我人も多数発生した、という事件が発生した。

当該、修学旅行を主催した学校長は、当初は一応の謝罪会見を行ったらしいが、今年の始業式で、黙祷すら行わず、「今回の事故が起こった直接的な原因は、私(学校)にあるわけではないんですけれど(学校に事故の責任はない)」と、生徒の前で発言したとか。

学校長は、学校行事全ての円滑で安全な遂行を管理監督すべき立場と思うが、その職務に「手落ち」があったから、悲惨な事件が発生したと思うけれど、実に他責思考で無責任な発言と思う。


そういう統治者(学校長)の言動を、生徒が踏襲(模倣)するとは思いたくないが、実に情けない統治者(学校長)と思う。


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