第166話「異分子」
刑部の問いに、誰もすぐには答えなかった。
部屋の空気が、音を吸い込んだように静まり返る。
窓の外で遠く車の走行音がした気がしたが、それすらこの部屋とは無関係の世界の出来事のように感じられた。
刑部は急かさず、ただ答えが出るのを待っている。
その姿勢も崩さず待つ行為そのものが、圧だった。
最初に動いたのは錦ではなかった。
「犯罪と呼びます。」
低く、短く、そして迷いがない山崎の声だった。
全員の視線が山崎に集まる。
「犯罪は、構成要件で判断します。被疑者の思想は構成要件には含まれません。」
刑部の視線がゆっくりと山崎へ向いた。
「個人の尊厳や自由が侵害された時点で、それは国家目的であっても正当化されるものではありません。」
その発言で、室内の温度がさらに下がった気がした。
刑部は否定しないが、わずかに目を細めた。
「では、質問を変えましょう。」
刑部が姿勢を変えずに言う。
「国家が崩壊した場合、個人の尊厳は守られますか。」
誰も即答できずに黙ったことで、刑部はさらに言葉を続ける。
「この国の状況…人口の維持懸念についてはご存じでしょう。出生率は右肩下がりな上、男性人口の減少率、国外流出率、犯罪被害率、犯罪率、国家資源供給率……」
それは反論を許さない口調だった。
一つ一つ言葉を置くたびに、机の上の空気が重くなる。
「統計を見れば、結論は一つ。」
刑部は静かに言い切った。
「男性は、国家の資源です。」
その一言は俺を向けて放たれ、握っていた手の指がわずかに強張った。
続く刑部の声は、淡々としていた。
「労働力として、生殖資源として、国家維持の基盤として……奪われる資源です。…それは国外に、犯罪者に、市場に。」
刑部の言葉の温度がない。
御厨の眉が冷たい言葉の度に、ぴくりと動いたのが分かった。
刑部はゆっくりと四人を見渡した。
「国家が何もしなかった未来が、『“明るい未来”』になり得ますか。あなた方は、想像したことがありますか。」
その問いは、責める調子ではなく、ただ事実を提示する声だった。
「男性が国外に流出し、出生が止まり、社会保障が崩壊し、治安が悪化する。」
そこで刑部は一拍置き、皆の沈黙を確認すると再度言葉を続ける。
「それでも国家は何もしないことが正しいと?…あなた方はそう考えているわけですか。」
言葉の最後だけ、わずかに重くなった。
山崎が息を吐いた。
「それは極論です。」
「いいえ。」
刑部はその山崎の言葉に即答で返した。
「ただの、現実です。」
刑部は指を組み直した。
「視野の狭い福田や倉橋の話を聞いて、女性の私欲のためだと思いましたか?…違いますよ。……私たちは、男性を守ってきました。」
初めて、言葉に確信が宿った。
「社会の圧力から、犯罪から、国外流出から。……国家として、最優先資源として。」
刑部は静かな声で続けながら、わずかに視線を下げた。
「それが、資源庁創設の理由そのもの。……そう、つまり、この国で一番、男性を守ってきたのは私です。」
部屋の空気が再び凍る。
刑部は顔を上げた。
「そして男性を守ることこそ、私の職責です。」
その言葉が、ゆっくりと部屋に落ちた。
誰もすぐに言葉を返さない。
刑部の言葉は、反論を求めているというより、理解を強要している響きがあったためだろう。
その沈黙を破ったのは、俺だ。
「……守ってなど…いません。」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
四人の視線が一斉にこちらへ向いたのが分かる。
そんな中、俺を見据える刑部の目だけが、わずかに細くなり、「ほう。」と興味を持った声を上げた。
「続けてください。」
刑部に促され、俺は息を一度だけ吸う。
口に出した以上、もう俺に逃げ場はない。
「あなたは確かに、男性という資源を守ったのかもしれません。」
言葉を選びながら続ける。
「でも、男性の人生は何一つ守ってなどいません。」
俺の発言で、山崎の呼吸が止まったのが分かった。
御厨は視線だけをこちらに向け、錦は微動だにしない。
刑部は、瞬きすらしなかった。
「……興味深い主張ですね。」
そして静かな声を出した。
「どう違うのか、是非ご教授頂きたい。」
刑部の問いに、俺の胸の奥が熱くなり、言葉が勝手に口から出る。
「資源は、使われる前提の言葉……しかし、人生は、選ぶもの……選び続けるものです。」
刑部の視線が、初めてわずかに動いた。
「管理された時点で、それは保護ではありません。…ただの……支配です。」
誰も動かず、誰も声を上げず、ただ刑部だけが、静かに俺を見ていた。
刑部はすぐには言葉を返さなかった。
笑ったわけでも、何か感情が動いたわけでもなく、ただじっと俺を観察している目をしていた。
「なるほど。」
刑部の声は、先程までの演説とは明らかに質が違っていた。
「あなたは、そういう人間ですか。」
その一言に、俺の胸の奥がわずかにざわついた。
刑部はゆっくりと椅子の背にもたれた。
「佐藤悠真警部補。」
俺はここで初めて、刑部から名前を呼ばれた。
「戸籍上、親すら存在しない人間が、人生の選択を語る。」
空気が一段階、重くなる。
山崎の肩が、わずかに揺れたのが視界の端に入る。
「18歳までの記憶がなく、長期昏睡状態にあり、他者からの仮初の記憶を自己の記憶と勘違いして生きてきた。」
刑部の視線が、まっすぐに突き刺さる。
「その君が、人生は選ぶもの……と?」
部屋の温度が、確実に下がった。
錦が息を呑む音が、聞こえた気がした。
刑部は感情を乗せない声で言う。
「あなたの人生は、本当にあなたが選んだものですか。」
俺は答えようとして、声が喉に引っかかった。
それを見て、刑部の言葉は止まらない。
「記憶は借り物、戸籍も借り物、過去は空白。人生の選択を迫られる時、人は過去の記憶をベースに選択するものです。」
刑部の静かな声は、なおも続く。
「さあ、それでも君は、『選んで生きている』、と言えるのですか。」
刑部の一切の逃げ場が無い主張に、俺の胸の奥が強く脈打った。
反論したい、否定したい、だが言葉が出ない。
水面下で踠く俺を見ていた刑部は、わずかに視線を和らげた。
それは同情や理解ではなく、やはり分析の視線に感じた。
「私はね。……あなたのような存在を、何人も見てきました。」
刑部が初めて、わずかに息を吐いた。
その言葉で、俺の背筋に冷たいものが走った。
「国家が壊れる時、必ず生まれる異質な人間……いえ、『“異分子”』です。」
刑部の声は静かだった。
そして、次の言葉が落ちた。
「さぁ、『“異分子”』さん。あなたは、国家がなくても生きていけますか。」




