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夫から逃げたいだけの妻

 何が起こってどうしてそうなったのか混乱した今は上手く説明できないが、私は生きていて、そして目が見えるようになっている事に大喜びだ。

 私の体はかろうじて低木に引っかかり、体は下草にすっぽりと埋まっている。

 これがクッションになり私は助かり、この低木が完全に渓谷に落ちるところを救ったのか。


「ありがとう。」


 自分の背中を支えてくれる木にお礼を言うと、懐かしい声が「どういたしまして。」と答えた。

 私の頭の中で、だ。

 あれは誰の声だろう。


 崖の斜面に見えるはずのない川の姿が突然現れ、私は幼い子供に戻った。

 私は大きな手と体に支えられて、あの川に落ちずに済んだのだ。

 私を支えるこの大きな手を持つ男性は誰だと私は振り返り、自分を支えている、いや、私を引っ掛けている枯れかけた低木に苦笑した。


「白昼夢に浸る前に逃げ出さなければね。」


 ちくちくする低木に体を押し付けるようにして、体のバランスを取りながら私は慎重に体を起こした。

 ここで落ちたら引っかかって助かった意味が無い。


「今が夏で良かった。」


 これが冬だったら、私は木々に引っかかることなく、真っ逆さまに渓谷に落ち切っていただろう。

 落ちなくても目覚める前に凍死だ。


「どうしようかな。」


 どうすれば身の安全が図れるか解らないのだ。

 昨年の事故により、私は顔と視力と名前を失った。

 夫の話によると妹を救うために県道を走っていた私は暴走車に刎ねられたのだという。

 全く覚えていないが。


 そして、美貌で有名だった私の顔に残る傷を知人に見せるべきではないと、彼によって家に閉じ込められた。

 以前の記憶は浮ついた恥さらしな女のものだから忘れた方が良いとまで言われ、さわりしか教えて貰えない。


「お前の妹が死んだのはお前の浮気が原因だ。お前に振られた男が腹いせに妹をかどわかして殺したのだよ。それで君は勘当されて、友人にも見捨てられて見舞いもないのだ。」


 目が見えなくなった私の為に雇われたトキという女中は、夫の言葉を裏付ける新聞の記事を読み上げてくれた。


 天野更紗と天野拓郎の無理心中事件と思わしき事件。


 妹が未成年な事と天野家が名家ということもあり、新聞には若い男女としか書いてなかったようだが、私が怪我をした日付と一緒なのだから事実なのだろう。

 私の恥さらしな行動が妹を殺した。

 そんな恥知らずな女の私にも、夫は優しかった。


 その理由は、私が婚約パーティの日に婚約者を捨てて彼と駆け落ちしたのがなれそめだかららしいが、そんな大恋愛に関わらず、私は夫に囲われているような気にしかなれないのはなぜだろう。

 きっと彼が言うとおりに、記憶を失う前の私は馬鹿だったのだ。


 しかし日々過ごす毎に、私は以前の私を嫌悪する事がなくなってきた。

 何しろ、私の思いは「この男から逃げたい」それのみなのだ。


 夫は仕事よりも盲目になった私に付き添う事が多くなり、そして私が近所の人間と親交を持った事を知るとすぐさま居を変えた。

 これが繰り返される事で、私はトキが私を監視して密告していたのだと気づくことができた。


 そこで計画を立てた。

 朝の散歩だ。

 何度も繰り返し歩いた道筋を覚え、町並みを覚えて交番に駆け込もうと。

 交番で父に連絡すれば勘当した娘でも助けてくれるかもしれない。

 だが、裏切り者のトキが夫を裏切る方が早かった。


「奥様は富豪の相良耀子の相続人なんですってね。」


 目は見えなくても解る。

 きっとトキは厭らしい表情をして私に笑いかけている事だろう。

 盲目で醜くなったの私の代わりに、夜は夫の相手をしているのだから。


 けれどもそれは別に良いことだ。

 何しろ私は夫に触れられる事も嫌なのだ。

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