逃亡を試みたことで
事故の大きな傷跡が体にも残っているらしく、彼は私に挑んだが私の抵抗と傷跡に諦めてくれた。
諦めなかったら私は彼を殺す勢いだったのだから有難い事だ。
反抗した私は彼にしたたかに殴られたが、彼はかなりの傷跡を負ったはずだ。
彼のどちらかの腕のどこかの肉を、私は噛み切ってやったのだ。
その事件以来、家の中では彼は私の半径一メートル以内に近寄らない。
「ずいぶん会っていないからお会いしたいわ。トキさん、連れて行ってくださる?きっと私を相良様に連れて行ってくれたらいくらかをお渡しできると思うの。」
私達は朝の散歩時に、夫に内緒で東京へ向かう電車に乗る計画を練った。
けれど、トキが呼んだ車の中で、私はトキを甘く見ていたと知った。
彼女は私を相良に届けずに身代金を相良から強請ろうと考えていたのだ。
「もったいないよな。傷さえなければいい女なのによ。」
「まぁ、してしまえば顔は関係ないだろ。大事な相続人が嫌らしい写真をばら撒かれると知ったらかなりの金額を出すだろうね。そのためには目を瞑ってもやりなさいよ。」
トキは凄い悪人だ。
私は怯えた振りをして彼らを油断させるように頑張った。
目も見えないのに拘束されたら逃げる事など不可能だ。
車はかなり自宅から離れ、たぶん東京には向かっているはずだ。
相良が住む東京で私は嬲られ金を引き出すために再び監禁されるだろうし、きっと和泉よりも逃げ場の無い状態に違いない。
車内に懐かしさもある土の臭いが充満し、振動により走っているところが山深いところではと気づいた時、私は山という存在の懐かしさに勝機を感じた。
なぜかこの機を逃したらお終いだとまで感じたのだ。
さぁ、行動を起こさねばと。
「トキさん。あの、お小水が我慢できないの。よろしいかしら。」
私の言葉にトキもその相棒も下卑た大笑いをした。
車はゆっくりと止まり、私はトキに捕まれて車を降ろされた。
車外に出て深呼吸をすると土と草の青い味を感じる。
鳥のさえずりが私を取り巻いて、私にこっちだと導いているようだ。
あぁ、かっこうが鳴いている。
どんと背中を押されて、私は前へ倒れ掛かった。
咄嗟に両手で自分を支えたため、地面に手を付いて尻を突き出す格好になってしまった上に、なんと、ヒョイと、着物の裾が捲られたではないか。
「金持ちの女にしてはいいケツをしているぜ。」
この下種野郎が。
「きゃあ。」
大きく叫んで転がり、そのときに捕まれていた裾を取り返した。
「ちょうどいいね。おしっこをしている所も写真に撮ろうよ。」
彼らは私を見世物にするつもりだ。
いいよ、見せてやるよと、私の腹は決まった。
男が離れたならばすぐにでも行動を起こさねばならないと、嬉しそうな下卑た笑いを迸らせた男が車の方に歩いて行く音と振動に私は神経を集中させた。
「あの、トキさん。お願いだから許して頂戴。そんな姿を撮るのは止めて。」
怯えて震える女を演じながら、私はトキから離れながらそろそろと動いて立ち上がる。
パシっと女の手で顔を叩かれた。
出来る限り彼女から離れるように、私は大げさに転がってみせた。
「ここでやりなよ。どうせお前は見えないんだろ。ちょっと先は崖だからね。」
「ちょっと先が崖なのですね。」
私は耳を澄ますまでも無い水音に、幸福感さえ湧いたのだ。
私は跳び箱を飛ぶように腕で自分の体を前に飛ばし、そのままバっと体勢を立て直して身を翻すと水音のする方へと駆け出した。
音の方へ一心不乱に真っ直ぐに走ったのだ、飛ぶように。
いや、飛んだ。
彼らを振り切って崖を転がり落ちたのだ。
その結果が今だ。
青い空、雲ひとつ無い青い空に、トンビか何かが飛んでいる。
あぁ、私はようやく解き放たれた。
さぁ、逃げなければ。
私を追うものは、夫と、夫を寝取る女中に、女中を寝取った間男だ。
なんて大変。
身の内から笑い声が溢れてきて、私は声を出して笑わないように口を押さえた。
「見つかったら大変だ。」
けれども、私の逃亡劇はそこで終わり、逃亡さえ出来なかった。
「旦那様!崖下に着物の柄が見えます!」
上を見上げれば黒服の男達が数人崖上に立っており、私は目を瞑って観念した。
その時は。




