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胡蝶の夢  作者: みなきら
胡蝶の夢、我となれるか
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木花知流比売

 海霧の中は前後左右よく見えない状態で、池を渡るのとは違い、和多利に渡された綱がなければ、どこともしれぬ所へ飛ばされてしまう心地がした。


 やがて霧が晴れると、そこには立派な邸があり、和多利が「もう綱を離しても大丈夫ですよ」と言っても大己貴命は暫くその邸を眺めてしまう。


「見事ですね――。」


 島の高台に望む邸は、細やかに木彫りがされていて、その上から柿渋を丁寧に塗っているのが分かった。


「綺麗な色合いのお邸ですね。沿道で見た建物とは違い、こちらのは木の傷みが少なそうだ。」

「ここらは塩の被害があるからな。柿渋を塗っていないと、すぐに腐たる。」

「柿渋でこの色合いが出るのですか?」

「ああ、塗り重ねれば塗り重ねるほど深い色になる。昼間は壮観ぞ?」


 そう言うと草鞋を脱ぎ、邸に上がる八嶋士奴美神の後ろで、大己貴命は「こんな格好でお邪魔するのが気が引けます」と苦笑いした。


「和多利、湯浴みの準備と替えの衣を。邸にいる間はゆるりとして旅の疲れを癒してゆけ。」

「ご厚情痛み入ります。」


 兎姫は大己貴命の体温が心地よかったのか、いつの間にか、くうくうと寝息を立てている。仕方なくて、大己貴命も汚れた状態で上がるのを詫びつつ邸へと上がり、兎姫を起こさないようにその腕から下ろした。


 男物の服を纏った兎姫の金の髪は、射し込む月明かりに照らされて美しい。それにも関わらず、大己貴命は彼女を下ろすと、和多利に付いていき、そそくさとその場を外した。


「面白い男だ――。」


 大器であり、一触即発な状態さえ和ます神威は幸魂の神なのであろう。奇魂の自分とも相性の良さそうな男であった。


火群(ほむら)はおるか?」


 和多利とは違うがっちりとした身体付きの隻眼の男が、庇の所へと姿を現し傍に進み出た。


「火群よ、あの大己貴命と言う地祇をいかが見る?」


「佳き神に見えまする――。悪しき神もゆくゆくは彼の神の前にひれ伏すでしょう。」

「やはりお主もそう見るか。」


 そして、几帳を隔てた先の兎姫を見ると「あちらはどう見る?」と訊ねる。


「月の民と縁付くのは、善し悪しが判断の分かれるだろうが、郷長の話した《恐ろしき化け物》とは違うらしい。とても美しい娘だ。」


 兎姫を持て成すように言った郷長は「異形の、恐ろしき化け物」と言ったが、確かにその金の髪と紺碧の眼は異形であるが、八嶋士奴美神にはとても魅力的に見えた。


「月の者と縁付くこと自体は御心のままに。しかし、今夜は《破る》の夜にございます。明日から三日、《開く》、《平》、《満つ》ですので、日は改められた方がよろしいかと存じます。」


 八嶋士奴美神は「心に留めておこう」と微笑み、その場を離れた。


 一方、その頃、大己貴命は和多利に手配してもらって、久しぶりに湯浴みをしていた。


「お湯までお借りしてしまって、申し訳ありません。お蔭様ですっきり致しました。」


 替えの服に着替え、(びん)を整えて貰っている大己貴命は、ぼろの旅装束を纏っていた時と違い、爽やかで匂いやかな好青年と変じた。自分の貸した筒袖の直垂さえ、着る人が違うとこうも違うものなのかと、その変身ぶりにお湯処へ案内した和多利も思わず目を見張ってしまったほどだ。


 しかもお湯処の婢女(はしため)達にさえ笑顔で「ありがとう」と言うから、婢女達はみんなして顔を上気させて目をハートにさせている。そんな状態だったから、こざっぱりとした姿の大己貴命が八嶋士奴美神の元に戻る頃には、邸内の女性達が色めき立っていた。


(これはまた凄いな・・・・・・。)


 身を窶していた時とは違って、磨けば光る珠らしく大己貴命は人目を引く。八嶋士奴美神が宴の席を設け、すぐ隣の席へと手招くと大己貴命は人好きのする笑顔を振りまいて「本当に何から何までありがとうございます」と礼をした。


「兎姫は気がつかれましたか?」

「いや、まだだ。心地よさそうに眠っている。本当に無防備で愛らしい姫だ。」


 くつくつと八嶋士奴美神が笑ってそう言うと、大己貴命は。「天女に羽衣をお返しになったようにお見受けしたのですが、見間違いでしたか?」と訊ねる。


「そこが悩みどころなのだ。あれが朝までここに居てくれるとしたら、お主の存在は必須であろうな。」


 そう話しながら盃に白酒を注いでくれる。


「なので、暫く逗留してもらいたいが、お主の兄達はどこまで行くつもりなのだ?」

「兄達は八上比売の元に妻問いに向かっております。」

「八岐大蛇の八頭が落ちたという地の娘か。」

「はい、なれど、既に通うものがいると兎姫が申しておりましたから、一波乱あるでしょうね。」


 そして、このまま行けば「体の良い隠れ蓑にされる」と話していたのかと合点する。


「ああ、それで兄達に殺される云々に繋がるわけか。」

「進むも地獄、戻るも地獄なら、お言葉に甘えてここに留まっていたいところですが、兄達がここにやって来てひと騒動起こしても、ご迷惑を掛けてしまいます。ですので、余り長居するわけにもいきますまい。」


 そう言うと大己貴命は盃を煽るようにして飲み干して「本当に参りますよ」とぼやいた。


「なかなかの苦労人だな。」

「兄弟、従兄弟が多いと、あれこれ奪い合いですからね。」


 しかも、自分の母は遠国の出で、頼みは亡き父の覚えだけだったが、それもなくなった今は母一人、子一人、肩身の狭い思いをしていると話した。


「父も良かれと思って、私に多くのものを相続させようとしたんでしょうが・・・・・・。」


 あからさまな依怙贔屓(えこひいき)を、正妻やその子らが許すわけもなく、逆に今の窮地に陥っていると大己貴命は話した。


「父の考えを事前に知っていれば、身の回りの物だけ相続させてもらえるようにして、あとは兄達に引き取るようにしてもらって、のんびり過ごせたんでしょうけど・・・・・・。」


 大己貴命は「死人に口なしですからねえ」と、少しおどける様に話す。


「しかも、こんな事態になっていても、心底、兄達を嫌いになれないから困り者です。」

「嫌いになれないのか?」

「ええ、幼き頃に優しくしてもらった思い出と言うのは厄介ですね。」


 その話を聞くと八嶋士奴美神は、幼き頃、自分に擦り寄ってきた須勢理の赤子の頃を思った。


「うちの父も末の妹ばかり可愛がるから、お前の兄達の気持ちも分からぬではないが、父は嫌いになっても妹を嫌う気にはならぬな。」


 その言葉に大己貴命が「ご兄妹でいらっしゃるんですか?」と相槌を打つ。


「ああ、歳が十近く離れているし、私は早くに家を出てるから、三つ、四つの頃までしか知らぬが、あの頃は本当に可愛くてなあ。」


 あれを見たら、荒ぶる神の代名詞の父でも、目を細めてしまうのは理解出来る。


「《兄しゃま》と呼ばれると、むず痒くて堪らなかったのを覚えてる。」


 八嶋士奴美神が頬を緩めて話すから、大己貴命もふっと笑った。


「兎姫を見ていると、何となくだが、その妹姫に似ていてな。特に拗ねて、口を尖らせる仕草はよう似てる。」


 焚き火越しに気まずそうに視線をずらし、口を尖らせて詫びる兎姫の姿を思い起こすと、八嶋士奴美神はくつくつと再び喉を鳴らして笑った。


「稲葉の八上比売の元へなら、明日の昼頃に出ても間に合うであろう。ゆっくりして行け。」

「それで、貴方と兎姫の仲をとりもてと?」

「ああ、そうだ。事が成就するように《兄弟の契り》を交わそうではないか?」


 上機嫌で八嶋士奴美神が言うと、それにはその場に控えている者たちがギョッとした。


「あの、今の話を聞いて、それでもなお《兄弟の契り》を交わすのですか?」


 大己貴命が呆れ顔でそれを聞くが、八嶋士奴美神は至って真面目だった。


「我はお主が気に入ったのだよ、大己貴命。我はお主を助けるためなら、お主の兄達と事を構えて、蹴散らすのも吝かではない。」

「それはまた、穏やかならぬ話ですね――。」

「お主は《武》を振るう気はないと話していたが、お主がお主の民草を守るには、我も強い《盾》が必要だと思うぞ?」


 そして「その役目に自分たちを使えば良い」と八嶋士奴美神は話す。


「別にお主の兄達を攻め滅ぼすつもりなどは毛頭ない。あくまでも自己防衛手段だと思えば良かろう。」

「分かりました。事が成った場合には正式に盃を交わしましょう。しかし、兎姫の心までは私には変えられませんよ?」

「それはこちらでやる事だ。お主は兎姫の警戒を解けばそれで良い。」


 そう言う八嶋士奴美神は、大己貴命が見ても男らしく、先のことと言い悪い男には見えなかったから「承知しました」と話した。


 ◇


 そんなわけで、しこたま呑んだ翌朝――。


 大己貴命が目を覚ますと、兎姫の冷たい紺碧の眼に見下ろされていた。


「お、おはようございます・・・・・・?」


 兎姫は「うぬは本当に役に立たぬ」と開口一番罵る。辺りを見回しても主たる八嶋士奴美神が居ないから、大己貴命は兎姫の冷たい視線に、にへらと笑みを返した。


 兎姫は、昨日、八嶋士奴美神に返してもらったはずの衣ではなく、外の海の景色にも生える花薄の襲ねを身につけていた。白と青の襲ねに金の髪が映えてとても美しい。


「うぬは、ここでただ寝ていただけか?」

「ええ、今、起こされるまではぐっすり。今、何時でしょうか?」


 そう訊ねると、兎姫は呆れたように溜息を吐き「では、彼奴の単独犯か」とぼやく。


 その言葉と昨日の八嶋士奴美神の様子で、彼がここに居ない理由はそれとなく察せたが「何かございましたか?」と惚けておいた。


「そろそろ起きたか、弟よ?」


 頬に手形をつけた八嶋士奴美神が入ってきて、兎姫がそれを睨みつける。昨夜とはまた別の一触即発の状態に、大己貴命は八嶋士奴美神に肩を竦めてみせた。


「うぬら、いつの間に《兄弟の契り》を交わしたのだ?」


 兎姫が訊ねると八嶋士奴美神は「昨夜の内に」と答える。


「《破る》の占の日に色々と契りを交わすとは、つくづく薄情な奴よ。」

「ならば、《開く》の本日にもう一度結べば良くはないか?」


 ふふんと、八嶋士奴美神がしたり顔で笑えば、兎姫はじっとりとした目で八嶋士奴美神を見た。


「妾はお主が好かん。」


 犬も食わぬ何とやらの状態に、そっと大己貴命がフェイドアウトしようとすると、兎姫に「どこに行くつもりじゃ?」と咎められる。


「えーと、厠へ?」


 疑問形で答えれば、兎姫はにっこりと笑み、凄みを増す。「笑顔の方が怖いとはこれ如何に?」と思いながら、大己貴命が後退ると八嶋士奴美神は「そう凄むな」といなした。


「兎姫、いや、木花(このはな)知流(ちる)比売(ひめ)。大己貴命には我らの見届け人として朝まで留まるようにお願いしていたのだよ。」

「木花知流比売・・・・・・?」


 その名を言い当てられた事に兎姫は目を見開き、大己貴命は目を瞬いた。


「ほんに月読命は、我らが血族の好みと弱みを熟知していらっしゃる。」


 大山津見神が養女の木花知流比売は、月読命の落胤(らくいん)が一人だと聞く。それが目の前にいる兎姫だと聞くと、大己貴命は「彼女が何者か」は理解は出来ても、「どうしてこの場にいるのか」までは理解出来なくて困惑顔に変わった。


「それで、その木花知流比売がどうしてこちらにいらっしゃるのです?」


 大己貴命が訊ねれば、八嶋士奴美神は「我を篭絡するためにであろう?」と微笑んだ。


「そして、それはある意味、叶っておるが、それは目的のひとつに過ぎぬ事も察しておる。兎姫よ、何故こちらに参られた?」


 すると、兎姫はふっと自嘲の笑みを浮かべると「うぬが妹姫の事を天津(あまつ)甕星(みかぼし)が欲していることは知っているか?」と八嶋士奴美神に訊ねる。


「ああ、父上が断ったと聞いている。」

「私はそれを覆させるために、お主を篭絡せよ天津甕星に遣わされた。事が成れば、月読命に自らの子と認めさせようと。」


 実の父に捨てられ、養父には木花知流比売と「滅び」の名を受けた生は、苦しくて仕方なかった。それゆえ実の父である月読命由縁の玉兎(ぎょくと)から名を借り、「月の御使いの兎」と称していたと話す。


「天津甕星のような狼藉者を、我が推挙すると思うか?」

「いや、思わぬ――。それに今思えば天津甕星の思い付きであろう。」


 兎姫は哀しげな目になると、「しかし、風の便りに聞くうぬが妹が小憎らしくてな」と呟く。


 そして、自分が金の髪、紺碧の瞳を持つ忌み子でなければ、あのようにかしづいて貰えたのだろうかと思ったら気持ちのやり場がなかっただけだと話した。


「そうか――。ではその分も我が兎姫の事を好こうではないか。月に帰る心配もないのであれば、安心して大己貴命を見送れるというものだ。」


 満足げに八嶋士奴美神がそう言うと、兎姫は顔を赤らめてそっぽを向き、話を聞いていた大己貴命は「なんだか勝手に丸く収まった?」と安堵する。


 八嶋士奴美神は百面相をしている大己貴命を見ると、くくっと笑った。


「そろそろ行かねば、お主の他の兄達が痺れを切らすのではあるまいか?」


 八嶋士奴美神がそう言うと、大己貴命は「お幸せに」と笑ってのっそりと立ち上がった。

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