朧月夜(おぼろづくよ)
八嶋士奴美神と大己貴命の出会いから二年余り。須勢理は父と兄から縁談の話を聞いて、心落ち着かず、早蕨の目を盗んで今日も簀子へと出て夜風に当たった。
月は東に、日は西に――。
空は群青色に染まり、星が瞬いている。うっすらとした薄雲に月は煙り、ネコヤナギの花芽は月の光に濡れて白く光り、ちらほら咲いた菜の花が春風に揺れていた。
昨夜の朧月に思い浮ぶのは月夜に現れる不思議な男で、なぜだか胸が苦しくて、泣き出してしまいそうになる。
「どうしました? 泣きそうな顔をして。」
不意に声を掛けられて、声のする方へ目を向ければ、先日と同じように月影の君が庭先に立っていた。
「どうして、ここに――?」
須勢理がそう問えば「今日はあの朧月に誘われてきたのですよ」と、空を見上げながら月影の君は答える。
「それに、必ずや通ってみせましょうとお約束したでしょう? 来ないと思っていらしたんですか?」
悪戯めいた瞳で言われると、須勢理はふっと笑みを返した。
「貴方は不思議なヒトね。」
「そう言う貴女は今日も魅力的ですよ。こうして恋焦がれて、一目会いたさに来てしまうくらいに。」
あまりに自然に口説かれて、須勢理は「口に油をさしてあるの? そんな風に歯の浮くような事を言って」と笑った。
少しの皮肉と揶揄、そして、有り余る愛情を須勢理の表情に感じると、月影の君こと、大己貴命はいつになく心踊って破顔する。
「いいえ、本心ですよ。そうでなければ、危険を冒してまで、こちらまで来られません。」
大己貴命は「誰に見つかるとも分からないのに」と言いながら、少し助走をつけて走り飛び勾欄を掴むと「よっ」と反動を付けて、鉄棒の要領で登ってくるから、須勢理は驚いて目を丸くした。
「随分と身軽なのね。」
よく見れば、直衣ではなく、群青色の狩衣を着ている。
そして簀子に登ってくると履物を脱ぎ捨てるようにして、ひたひたと須勢理のすぐ目の前まで来た。
思っいたより背丈があって、ふわりと香る麝香の香りに心地良さを感じて、須勢理は僅かに顔を赤らめる。
そして、先日と同じように腕を取られて引かれると、今夜はすっぽりと男の腕の中に閉じ込められた。
狩衣越しに伝わってくる体温と肩に感じる息遣い。嬉しげに抱き締めてくる力が強まり、耳元で「須勢理毘売」と囁かれると、名前を呼ばれただけなのに電気が走ったかのように背筋がぞくりとする。
それなのに、この腕に囚われているのが嫌ではなかったから須勢理は自分自身に困惑した。
視線が絡み合えば、それだけで金縛りにあったみたいに動けなくて、近付いてくる顔を避けることもなく唇を受け入れる。
勾欄越しのものとは違って、抱き締められて交わす口付けは扇情的で、自分でも触れたことのない喉奥深くまで愛撫されると、何も考えられなくなって須勢理は腰砕けになった。
「可愛い人、どうか哀れな迷い人に貴女の局の庇で構いませんので貸して下さいませんか?」
男に囁かれて、このまま流されてしまいそうな気持ちを奮い立たせて首を横に振る。
「貴方の名前も知らないのに・・・・・・。」
その言葉にくすくすと笑いながら「そう言えば、そうでしたね」と言う。
「貴女がつけてくださった月影ではいけませんか?」
須勢理が、もう一度、首を横に振る。触れている須勢理の身体が、緊張のせいか、ほんの僅かに震えているのに気がつくと、男は「では、仕方ないですね」と話した。
「貴女が赦して下さるまで、何度でも通いましょう。」
須勢理はその言葉に、兄の持ち込んだ縁談話を思い出して俯いた。
「いいえ、どうぞ、これきりに。」
泣き出してしまいそうに切なげな声色の須勢理に胸が締め付けられる。
「私の心根をお疑いなのですか?」
寂しげに訊ねられて、須勢理は「違う」と涙声で答えた。
「理由は直に分かります。」
「直に・・・・・・?」
「ええ。ですから、もうこちらへはいらしてはだめ。」
やがて、そろそろと聞こえてきた衣擦れの音に、男は抱きしめていた腕を名残惜しそうに解いて「今夜は時間切れのようですね」と呟くと、登ってきた時と同じようにして去っていく。
「また、明日参ります。」
須勢理は頑なに首を横に振る。少し困惑したような男は、早蕨の「姫様、どちらにおわします?」という呼び掛けが聞こえてくると、後ろ髪を引かれた様子ながら去っていった。
男の気配が夜の闇へと消える。それを見届けると堪えていた涙が溢れてきて、須勢理ははらはらと涙を零した。
「姫様、また、そんな端近にいらっしゃって。」
しかし、須勢理が涙を流していることに気がつくと「いかがなされました?」と慌てた声に変わる。
「何でもないの、何でも・・・・・・。」
一度堰を切って流れ出した涙は拭っても、拭っても止まらない。
《運命のヒトに会うとね、魂は震えるのよ。》
幼い頃に、母の奇稲田姫が教えてくれたように、ただどうしようもなく涙が零れて仕方ない。
「姫様・・・・・・。八嶋士奴美神が持ってきたというお話ですが、この早蕨めがお断りしてもよろしいのですよ?」
その言葉を聞くと須勢理は涙を拭って「そうじゃないのよ」と涙声のまま話す。
「兄様の持ってきたお話が嫌なわけではないの。兄様のお目に適う方よ? きっと立派な方でしょうし、お会いするのが楽しみだわ。」
「ですが・・・・・・。」
「これはね、月影があんまり綺麗だったから、涙が零れてきただけなの。」
「月影にございますか?」
「ええ。紛らわしくてごめんなさい。」
手には決して入らない、遠く美しい月影に思いを馳せて見上げれば、今宵も春めいた月が浮かんでいる。
須勢理は今宵はしずしずと部屋に戻っていった。
一方、その頃、大己貴命は少し離れた所から、邸の奥へ入っていく須勢理毘売命の様子を眺めていた。
須勢理に「もうこちらにいらしてはだめ」と言われて、何をどう間違えしまったのか、一人考え込んでいた。
実は邸の者に見つかっていたのだろうか。
だがしかし、それならもっと警備が厳しいだろうし、あんな風に須勢理毘売命が端近にいる事もあるまい。
それでは嫌われてしまったのだろうか。
しかし彼女の態度からは、それらしい様子は見られなかった。
「おい、そろそろ戻って来いって!」
囁く声に我に返れば、五十猛神が垣根のところで呼んでいる。声を頼りに垣根を抜けて往来へ出ると、五十猛神は「素戔嗚尊に見つかったら、半殺しの目に合うんだからな」とぼやいた。
「そんなに恐ろしい方なのか?」
「お前、素戔嗚尊の伝説、知らないのかよ?」
「それは聞いていますけど、どこまで本当なのかは眉唾でしょう?」
「いや、あの伝説はマジもんなんだって。あそこの親父殿は数多の天つ神でも手に負えなくて神逐された方だぞ?」
それを奇稲田姫と須勢理毘売だけが宥められるのだと言われれば、奇稲田姫の居ない今、須勢理毘売命がどれだけ重要な存在なのか思い知らされる。
「よもや本当に八嶋士奴美神を味方に付けてくるとは思わなかったが・・・・・・。」
「会ってみたら、以前、お世話になった方だったんですよ。」
「お前、神皇産霊神と言い、存外、顔が広いよな・・・・・・。」
「いやあ、世間が狭いんですって、きっと。」
そう言って大己貴命が人好きのしそうな笑顔を作ると、五十猛神は肩を竦めた。
「おい、そこで何をしている?」
五十猛神が驚いて振り返れば、噂をすれば何とやらで、八嶋士奴美神がすぐ側に立っていた。
「何か悪さでも企んでいたのか?」
「まさか、散歩ですよ。」
しれっと白を切る大己貴命に、五十猛神は呆れ、八嶋士奴美神はクッと喉を鳴らす。三人は夜道を昔語りをしながら進んだ。
「お主のそう言うところは本当に感心するよ。」
「何のことでしょう?」
「そうやって、猪の代わりに焼けた大岩が落ちてきた時も、大木に挟まれた時も、餌木を使ってしれっと八十神の後ろから現れたんだろう? 本当にえげつない精神攻撃するよな。」
殺ったと思って見に行けば、にっこりとして「兄さん達、何をなさってるんですか?」と背後から現れるんだから甚だタチが悪い。
「それで、この間、お前の兄貴たちは戦々恐々として、やってきたわけか。」
「もう一度だけなら餌木も使えるんですけど、出来ればそろそろ引いて欲しいものです。あんな猟奇的な殺され方を何度もされたくないですし。」
初めての時は母親の前で起こった事もあり、神皇産霊神も巻き込んでの大騒ぎだったのだと話す。
「しかも、神皇産霊神も悪ノリしてなあ・・・・・・。」
「どうせなら」と、エステをされて、盛装をさせられ送り出されたものだから、八十神達がぎょっとするのも道理な話だった。
「あの時のあんぐりとした顔。今、思い出しても、笑えますね。」
大己貴命がくつくつ笑いながら歩いていくと、五十猛神は八嶋士奴美神に「本当に須勢理の婿がねに大己貴命を推薦して良かったのか?」と訊ねる。
八嶋士奴美神は「こやつくらい図太くなければ、父上には適うまい」と笑う。
「狸狐の化かし合いどころか、龍虎の戦いになりそうだがな・・・・・・。」
「そんな事しませんよ。」
「いいや、すると思う。」
五十猛神が断言すると、大己貴命は「しませんって」ともう一度話した。
「まあ、こう見えて好い男だぞ?」
八嶋士奴美神が言えば「まあ、こう見えてな・・・・・・」と、五十猛神も納得はする。大己貴命は「それは褒めていただいているんでしょうか?」と苦笑いを浮かべた。
三人でそぞろ歩きをすれば、先程までの須勢理毘売命の様子は気に掛かりはしたものの、いつになく幸せな気分だった。
「八嶋士奴美神、明日はよろしくお願いしますね。」
春風そよぐ道の脇には菜の花が咲き始め、朧な月の光に照らされていた。




