唐王御前
潮騒が聞こえる――。
長秋庵には海などなかったのに、と思えば世界は著しく変じて「おいたわしや」と言う声が聞こえてくる。
潮騒の音が、近く、遠く、何度か行ったり来たりして、目を開けると薄暗い部屋の中に数人の女房達ともに篭められていた。
「おいたわしや・・・・・・。」
⠀そう言うこの女の人が誰なのか、加代子には分からなかったが、あまりに悔しそうに泣いているので背中にそっと擦る。すると、堰を切ったかのように、一層、おいおいと泣かれてしまった。
「このような粗末な苫屋に、御前様が追いやられるなど、御前様自身がお許しになっても我らは許せませぬ。この夜の闇に紛れることが出来れば、素戔嗚尊の所へ参れましょう。御前様から申し上げれば、きっとあの憎き天津神どもを素戔嗚尊が懲らしめてくださいます。」
まくし立てられるように訴えられて何か言わねばと思ったものの、不意に視界は暗くなり、自分が首を横に振るのを感じる。
自分なのに、自分ではない――。
加代子はこの感覚に覚えがあった。素戔嗚尊に須勢理の記憶を見せられた時と同じ感覚だ。
やがて加代子の意識と須勢理毘売命の意識が徐々に交わっていき、加代子の意識が深層に沈んだ頃、須勢理毘売命はゆっくりと目を開き「天津神と事を荒立てる気はありませぬ」と断言した。
「御前様の事は必ず我らが御守りします。ですから・・・・・・。」
しかし、須勢理はもう一度首を横に振ると「これから根の堅洲国に戻り、おもう様にお願いしたとして一体何になるでしょう」と話した。
「最早、会うことは出来ぬというのに――。」
愛したもの、護るべきもの、その何もかも奪われた大己貴命は、先日幽世に移されたと聞く。
「自分の身惜しさに、我が君の慈しみ育てたこの瑞穂の国を、どうして壊すような真似が出来ましょう?」
須勢理が静かにそう話せば、辺りに侍るものが涙する。
建御名方命が屈した後、高皇産霊神から来た「二心無くば、天津神を正妻に据えよ」という文を読み、烈火の如く怒った大己貴命を必死に宥めたのは、もう二年も前の事。
彼の無事を願いながら、ほとぼりが冷めるまでと若之宮に別邸に移り住んだのが、つい昨日の事のように思い出される。
しかし、離れた場所に移っても高皇産霊神の目は厳しく、兄の八嶋士奴美神の治める地域が近い事もあって、「海が近い」「やはり二心があるのだろう」と言われてしまい、その後も「二心などない」と示すためにいくつかの地を点々とし、この縁のない加羅の地へと流れてきた。
(どうすれば、お救け出来たのだろう――。)
大己貴命が幽世に移されたと聞かされた時から、須勢理は心にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚に陥っていた。
天日隅宮に行ったとして彼はもう居ない。
幽世に封じられてしまっては、素戔嗚尊や八嶋士奴美神も彼を救えまい。
それに自分がこの地より動けば、表向き鎮静化している天津神との争いが再び勃発し、この瑞穂の国は再び騒乱に巻き込んでしまうだろう。
「口惜しや――。この葦原中国を平定なさったのは我らが大王。それをあのように卑怯な輩に奪われるとは・・・・・・。」
口惜しいと、自分の心の内を代弁するかのような周囲の様子に、須勢理は無理に微笑んでみせる。そして「言っても詮の無いこと」と宥めた。
「いつの世か、我が魂も砕け散り、やがて幽世に還る時が来ましょう。縁深い我が背の君です。その折にでも会えましょう。」
努めて平静にそう周りに言って聞かせたが、胸の内はチリチリと灼けるように痛んで、須勢理は苦しくなった。
あの時、彼の元を離れるべきではなかった。傍を離れなければ、たとえこの身を挺してでも彼を助けただろうに――。
そう思うと大己貴命を助けられなかった事が何よりも悲しく、胸が張り裂けんばかりに苦しい。
徐々に表情を取り繕うのも辛くなると、須勢理は和琴を引き寄せ「少し一人にさせて欲しい」と告げた。女房達は「先程の件、どうぞ今一度ご検討くださいませ」と言い残し去っていく。
伽藍堂になった部屋の蔀戸からは月影が入ってきている。
人目を盗んで、遣戸を開けて端近に出れば、月が煌々と光っている。秋の冴え冴えとした月なのに、じわりと視界が滲んで、大己貴命と出会った頃と同じように朧に見えた。
頬に涙が伝う――。
(月やあらぬ、春は昔の春ならぬ・・・・・・。)
須勢理は堪らなくなって「うう」と嗚咽を漏らすと、その場にずるずると崩れ落ち、泣き伏した。
もう、居ない――。
あの《月影の君》はもう二度と現れない――。
一度、溢れ出した感情は留める事が出来ず、須勢理は慟哭した。
その天にも届きそうな泣き声に、邸の内の者も気が付いたものの、いつも気丈に振舞っている女主人の「一人にして欲しい」と呟いた意思を尊重し、局に近付くものは居ない。
月影はさらさらと野に注ぎ、若菜が夜露に濡れ微かにその姿を晒すばかりだ。
「そのようにお泣きにならないで下さい。」
大泣きしている須勢理の前にあの日と同じように人影が現れる。
現れたのは、血こそ繋がっていないものの親子の縁を結んだ木俣神であった。
「母上、夜分に遅くに失礼致します――。」
そして、目を伏せ「既に事の仔細はお聞き及びとお見受けしますが、こちらにいらしては危のうございます」と告げた。
「ご案内致しますゆえ、夜の闇に紛れてお逃げ下さい。」
「どこへ逃げるというのです? もはや、この世に未練などありもしないというのに。」
「そのように哀しい事を仰せにならないでください。父上どころか母上まで居なくなられては、こちらが闇に惑うてしまいます。」
そして、泣き崩れて力の入らぬ須勢理を助け起こす。
「母上が根の堅洲国に戻れるようにと素戔嗚尊が手筈を整えてくださったのです。その間、高皇産霊神の件は私めにお任せ下さい。」
小さかった幼子はいつの間にやら大きくなり、少年から青年へ、そして、頼りがいのある息子へと転じている。
「父上は最期まで母上を案じておりました。自分に何かあった際には、こちらをお渡しして、何とかして素戔嗚尊のいらっしゃる根の堅洲国にお連れせよと仰せでした。」
そうして手渡されたのは、大己貴命の《玉璽》だ。
「きっとこれを母上の元に取りに戻るから、持っていて欲しいとも仰せでしたよ。」
須勢理はかつて紫色の稲妻が込められていた玉璽を手にすると、再び溢れてきた涙を袂で拭った。
「我が背の君は、時々、あからさまな嘘を平然と言うのだから・・・・・・。」
篭められていた大己貴命の気配が消え、単なる印璽に過ぎない石を握りしめると、須勢理はわなわなと肩を震わせ、言葉を詰まらせる。
「あの人、こういう時、騙されたふりをしてあげると、悪戯っ子のような顔をして笑うの。ああ見えて、子供っぽいところがあるというか・・・・・・。ね?」
いつだって、そう――。
須勢理は込み上げてくる嗚咽をこらえるようにして、ポツポツと昔語りをし始めた。
最近でこそ事代主神や建御名方命などに権限移譲をしていたが、それまで大己貴命はあちこちに遠征に行ったり、和議に行ったりと何かと忙しかった。
特に根の堅洲国から戻った最初の五年ほどは、国の経営にあれこれと忙しくし、少彦名命と二人で出雲に寄る時間も余りなく国中を奔走している人だった。
日本海に沿ってあちこちの有力者と和議を結んでいき、その度にその土地の国津神の娘たちが嫁いでくる。それでも「仕方ない」と諦めていた節もあったのだが、旅先の高志の国で沼河比売との間に子を生したと風の便りで聞くと、心がざわめき、よっぽど木俣神を連れて根の堅洲国に帰ろうかと思ったほどだ。
だから、何度目かの高志の国への遠征の時、須勢理はいつになく沈んだ表情をしていた。
「少し離れるだけだと言うのに、私が出ていったら一人で泣き崩れてしまいそうですね?」
沼河比売とその子供の元に行くのだと思うと、大己貴命の威風堂々とした姿さえ、胸苦しく思って涙を浮かべた。
「私が涙する理由は他にもございます。お心当たりはございましょう?」
須勢理が問うても大己貴命の微笑みは変わらずに柔らかく、須勢理はそれが余計に哀しくて下唇をきつく噛み締めた。
「貴方には他にも寄る辺があるでしょうが、私には貴方だけなんです。一緒に連れて行ってくださることが出来ないのは存じていますが、もう一度・・・・・・。」
きつく抱き締めて欲しい――。
そう言いかけて、須勢理は琥珀色の瞳を潤ませた。それを見ると大己貴命は少し慌てたようにして須勢理を引き寄せて泣き顔を隠すようにする。その袖は茜で染めた事もあり、美しい紅色に染まっていた。
「今日の出立に合わせて、他の衣も着てみたのですがどうもしっくりきませんでした。やはり貴女に見立てて貰ったのが一番ですね。似合いますでしょう?」
彼が愛しくて、聞いている周りの者が真っ赤になるほど褒め称えれば、「やはり今夜はここに泊まります」と苦笑する。そして、一番の従者の比々羅木に「あとは頼んだ」と言うと須勢理を抱えて部屋に戻り、誰も入れないように呪を施すと、ゴロンと寝そべり「ああ、ずっとこうしていたいな」と寛いだ。
「今日、出立なさらなくてよろしかったのですか? お生まれになった御子にお会いになりたかったのでしょう?」
何気なく発した問いに大己貴命は少し気まずそうな笑みを浮かべる。
「なるほど、沼河比売とその御子の事、貴女の耳に入っていたのですね。」
そして、「恋女房である貴女との間にこそ、御子が生まれれば良いのに」と呟く。
「《月影》は誰にも降り注ぐものですもの。仕方ない事かもしれませんね。」
大己貴命に少し意地悪を言って返せば、拗ねた口調で「私の心を信じて下さらないのですか?」と言う。その少し甘えたような拗ねたような姿が何より愛しくて、さっきまで腹立たしく、そして何より悲しくてして仕方なかったのに、自分は結局「信じている」と答えていて、彼は屈託ない笑みを零すのだ。
須勢理はそんな懐かしい日々を思い出して、涙ながらに「彼は、私が騙されたふりをしたら、今も笑ってくれるかしら」と話して、苦しそうに表情を歪ませる。そして、ぼろぼろと涙を零すと、「信じまい、信じまいとしていたけれど、本当に幽世に渡られたのね?」と木俣神に訊ねた。
「母上の身の安全と引き換えに御自ら幽世との境となる岩戸を潜られたそうです。ご立派な最期でした――。」
そして、大己貴命、一人の力ではこちら側に戻れぬように岩戸に呪が施されたことを聞かされる。
「幽世は恐ろしい所と聞きます。修羅の国とも、地獄に似ている国とも・・・・・・。」
「そう――。」
木俣神は「この国をまとめあげた父上にあの様な仕打ちをなさるとは」と悔しげな顔になる。
「しかも、明日の朝になれば、この辺りは高皇産霊神の軍が包囲し、母上も同じか、もっと酷い目にあわされましょう。私はそれを避けたくて出雲より早馬で参ったのです。」
大己貴命のところに行けるならそれでも良いとも思えたが、木俣神に「どうか、その玉璽をもって、根の堅洲国にお隠れ下さい」と繰り返し説得されると我儘に思えて口には出せず、ただ「この苫屋にいる他の者達はいかがするのです?」と訊ねた。
「自決を偽装するつもりです。傍からみれば、そう見える幻を素戔嗚尊がこの地にかけて下さると仰っていました。」
木俣神には悪いが、あからさまな嘘に心が痛む。素戔嗚尊にそう言えと言われているのだろう。目を泳がせる木俣神の様子に須勢理は考えあぐねいた。
父は長年仕えてきた者たちを犠牲にせよ、というのだ。
「若竹は連れて行ける――?」
「いいえ、若竹はこちらに残る、と。代わりに女童を何人か付けるので、《根の堅洲国に着いたら母の早蕨によろしくお伝えくださいませ》と申しておりました。」
そして、木俣神に繰り返し「早く、我が背中にお乗りください」と言われると、それ以上は強く言えなくて、須勢理は恐る恐るその肩に手をかけた。
「因果な事ですね・・・・・・。貴方にこうして背負われる日が来るとは。貴方の母親を追い出すような形になってしまったのに。」
「そのような事、仰らないでください。本来なら父を騙して嫁いだ女の子供です。私は誰ともしれぬところへ里子に出されても文句の言えない立場だったのに、そうならないように手を回して直接育てて下さったのは母上でしょう?」
大己貴命は子煩悩で、いつだってまとわりついてくる子供たちを愛していた。そんな大己貴命を須勢理はこよなく愛し、その母親が誰であれ、子供らを相手に物語を読んで聞かせたり、楽器を奏でたり、歌を歌ったりした。
「稲脊脛も悔しがっておりました。事代主があの様に公衆の面前で入水させられるとは思わなかった、と。また、それを聞かされた父上のご心痛はいかばかりだったことかと・・・・・・。」
この二年あまりで、大己貴命が長年心血を注いで築き、他のどの国より繁栄していた瑞穂の国は瓦解した。素戔嗚尊の娘である自分は正妻の座を剥奪され、捕虜同然の生活をしてきたが、終ぞ、彼に会うことは出来なかった。
「このような時、少彦名命がいてくだされば、状況が少しでも変わったのだろうかと思います。」
身体こそ少年のような姿ではあったが、常に大己貴命に寄り添い、その膨大な知識を国づくりに傾けて止まなかった奇魂の神を思う。
日野川と佐陀川の間にある根の堅洲国で、柳舟からは治水の仕方を、妙白からは開墾の際に使う農具の事を日夜学び、それらを自ら相続した土地で試していた大己貴命の前に、ある日突然ひょっこりと現れ、害虫を食べる蟇と鳥を防ぐ案山子を教えてくれた神。
その少彦名命が虫除けの法も改良し、その土地ごとにあった作物の植え方も開発してくれた事で、出雲の国は他国が羨む瑞穂の国となった。
以前は敵対していた八十神達でさえ、少彦名命の《妖しの業》の情報欲しさに、急に大己貴命に擦り寄ってきたくらいだ。
それ故、大己貴命は少彦名命を右腕とし、その豊富な知識を整理しては段階を分けて周辺の国々に解放した。また、商業が発展するように主要な街道を整備し陸路を、八嶋士奴美神の海兵力に守られつつ海上交通を確保し、徐々に出雲を大国へと纏めあげたのだ。
八嶋士奴美神達の海兵力が、南は筑紫の国から、北は高志の国まで伝わっていたのも、大きな牽制になったと思う。
そして、交通の要の美保崎には少彦名と同様、託宣ができる事代主を養子とし、一部自治権を与えることで、大己貴命の築いた国はようやく落ち着いたかのように見えたのだ。
しかし、水面下は違っていた――。
大己貴命が瑞穂の国として葦原中国をまとめきると、高天原は国の礎ごと奪うと決めたらしく、何年か事に天若日子などを寄越しては「元は我らが土地だ、明け渡せ」と言ってきたのだ。
「少彦名命が出奔なされたのも、今思えば彼奴らの闇討ちが故だったのやもしれませぬ。きっと父上の汚名を返上してみせましょう。」
そう木俣神は話すと、須勢理を背負ったまま庭へと降りた。
「そのためにもまずは母上を根の堅洲国の素戔嗚尊の元までお連れします。夜露に御御足が濡れるやもしれませぬが、お許しください。」
須勢理が「構わない」と言うと、木俣神はゆっくりと夜露の置いた草をかき分けるようにして進み始めた。




