天敵
☆★☆★
宙を舞う時というのは、時間がゆっくりと流れているような錯覚を覚えるものだ。
認識、もしくは記憶処理の能力が上がるからだという説をラスカは何となく思い出しーー
ーー今はそんな事どうでもいいや!
さっさと思考を切り替えた。
一瞬でも能力が上がるのなら、それを無駄にするつもりはない。
体勢を整え、衝撃を最小限に抑えて海へと滑り込むように飛び込んだ。
戦闘の喧騒や水飛沫に紛れたのか、誰も気がつく者はいない。
海中は、クラーケンにかき混ぜられたせいで海底の砂が舞い上がり、視界が悪くなっていた。
ーーどうしよう。
どっどっと耳の奥で鳴り響く激しい鼓動を感じながら、なんとか落ち着こうとゆったりと水をかく。
相手が、強ければ強いほど。
状況が悪ければ悪いほど。
ーーものすごくワクワクする!
気持ちが高ぶらずにはいられない。
集中するために目を閉じ、ラスカは思考を巡らせる。イカの天敵といえば、彼らを食する海獣類だろう。
しかし、相手はただのイカではない。クラーケンだ。その脅威となるものは、相応の存在に違いない。
強固な身体、鋭い歯もしくは爪を持ち、圧倒的な力があるーーこの広い海の頂点に立つような存在。
恐れるもののない。いや、恐れるということを知らない、そんな生き物。
ーーさて、と。
つと、海中へと潜り込む。
船の帆ほどのヒレが数メートル先を翻っていった。その根元の辺り、ぐりぐりと動く巨大な二つの目が、こちらを見た気がした。
言葉は通じなくとも、生き物には察する能力がある。相手と自分と、どちらが格上なのか。
だから、ラスカは戦うための敵意は向けなかった。
ーーおいしそうね。
獲物を見つけた捕食者の悦びを込めて、見つめ返したのだ。
☆★☆★
「む?」
煌は、敵の動きの変化にいち早く気がついた。相手の意識が、あきらかにどこかへ逸れている。
この状況から抜け出すには絶好のチャンスだろう。一時撤退し、準備を整えてこなければ勝てる相手ではない。
「よし、撤っーー」
騒ぎの中でもよく響いていた男のどら声が消えたのは、この時が初めてだった。
何の前触れもなく、吹き上がるような魔力の波動が発生したのだ。
「妨げ防げ護れっ!」
咄嗟に、先程と同じ防御壁を展開。同時に素早く印を結び、その強度を上げる。
ゴオオォォ……ッ
謎の波動に巻き上げられた海水が唸り声を轟かせ、辺りへ滝のごとく降り注いできた。
それを弾き返している最中。
煌は、鱗に覆われた艶やかな身体を一瞬だけ波間に見た。
その姿のほとんどが海中にあり、さらに濁流で視界が悪くとも、それは異様な存在感を放っていた。
ーーあれは?!
大きさからは想像もできない速さで、矢のようにクラーケンへと激突していく。
その衝撃は船を軋ませ、ばらばらになってしまうのではないかというほど。
甲板に身体を打ち付けられ、その際に腕を襲った痛みにうめき声をあげる。
船は大きく揺らいだが、徐々に揺れは小さくなっていった。
「無事、か」
周囲に目をはしらせると、共に乗船した者達の姿を確認することができた。身なりはぼろぼろになってしまっているものの、奇跡的に誰一人欠けることはなかったようだ。
否。
ただ一人、この場にいない者がいる。
「ラスカ」
ふらつきながらもなんとか立ち上がり、船のへりへともたれて海に目を向けた。
穏やかになりつつある波間からは、クラーケンが不気味に浮かんでいる姿が見えるだけだ。
既に息絶えているらしく、だらりと波に揺れている。その目と目の間に、何かに突かれたような大きな穴が空いていた。
ーーなんだ、あれは
「おい、あの娘がいるぞ!」
男の声に振り返り、彼の指さす先を目で追う。
倒れた敵の、乳白色の足に引っかかっている少女の姿が見えた。動かない彼女に息が詰まりそうになりながらも、もう一度その名は口をついて出た。
「ラスカッ!」
カッと目の奥が熱くなる。知らず知らずに拳を握りしめていたようだ。掌に爪がくい込んで痛い。
「其は、風。空渡り、運べ、かの場所へ」
震える声を押さえつけながら、詠唱する。風魔法の効果を付与した魔力操作で、海上に漂う少女をそっと甲板へと運んだ。
その華奢な身体を腕に受け止めて、ゆっくりと降ろすーーすっかり冷えてしまっていた。
顔に張り付いた髪をそっと払うと、閉じられた瞼がぴくりと動いた気がした。
「ラスカ?」
僅かに目が開き、あの夕日のような瞳が見えた。ぼんやりとしていて焦点は合ってないようだったが、彼女はふっと微笑みを浮かべる。
震えるように動いたその唇から、何か言葉が漏れたが、聞きとることはできなかった。
そして、ラスカは小さく息をはくと、再び寝入るように目を閉じてしまった。