いつかの海
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穏やかだった太陽は、日に日にその存在感を増していた。日の光は柔らかさを通り越し、肌をじりじりと焼き始めるのだ。
じんわりと湧く額の汗をぬぐい、ラスカは夏を実感していた。
「うわぁ……」
隣で聞こえた力のない声と軽い衝撃に、海面を眺めていた彼女は甲板へと視線をうつす。
「大丈夫ですか、サーシュさん」
「うん……ありがと」
尻もちをついていた彼は、少女が差し出した手を握ってふらふらと立ち上がる。
しかし、再び波が船を大きく揺らし、サーシュは少しだけ顔をしかめた。
先程までは、広大な景色や潮の香り、寄せては返る波に目を輝かせていたのだが、どうやら船は苦手らしい。
「船が……こんなに、揺れると……思わなかった」
「初めての海なら、慣れないのは仕方がないですよ」
「ラスカは……平気、そうだね……。海、来たこと……あるの?」
「え?」
尋ねられ、ラスカはすぐには答えられなかった。記憶を辿ろうにも、その糸口を見つけることさえままならないのだ。
沈黙してしまった彼女に、サーシュははっと目を開いた。
「ごめん……ラスカは、記憶が……」
「いえ。一つ、分かったことがあります」
申し訳なさそうに俯く少年に、首を振ってそう答える。
ラスカは記憶を失っている。だが、欠落しているのは『思い出』の部分で、知識としての記憶はいくらか残っている。
たとえ覚えていなくとも、知っていることはあるのだ。
「私は海を知っていました。以前にも来たことはあると思います」
「……そう」
船首で砕けた波しぶきに首をすくめながら、サーシュは曖昧な相槌をうつ。
微妙に話しにくい空気となってしまった二人の頭上から、どら声が響いた。
「奴らの生息域に着いたぞ!」
船上に、静かな緊張と共に冒険者達の動く気配を感じる。ラスカは剣を握る手に力をこめると、傍らの少年に目を向けた。視線を受けて、彼も一つ頷いてみせる。
「……任せて」
短い言葉にはしっかりとした意思があり、普段の頼りなげな雰囲気はなりを潜めていた。燃え上がるものとはまた違う、静かだけど確かな決意がサーシュにはある。
「其は音。高さ故に聞こえず、速さ故に逃れられず、不可視故に解せず。
それは目となり手足となる」
目を閉じて、少年は独特な節回しで歌いだす。両手を海面に向けていっぱいに伸ばし、引き戻して……それを四方八方へ繰り返す。
魔法を具現化するのではなく、魔力自体を操っているそうだ。歌で属性や性質を、手の動きで大きさや形状などをコントロールしている。魔力操作自体は簡単なことなのだが、彼は他とは一線を画している、とディークリフトから以前に聞いたことがある。
操れる属性や数が制限される魔法よりも、その技術は多様性に富んでいるのだ、と。
「……標的とは、違うけど……なんか、いる」
程なくして、いつもの口調でそう呟いた。
ケートスという大きな魚の魔物退治に来たのだが、どうやらあてが外れたようだ。
一緒に行動していた三人組のパーティーの一人、槍を手にした長身の男が、飄々とサーシュに尋ねる。
「そんで、一体何がいるってんです?」
「えっと……もたもたしておる場合かっ!撤退だ、すぐにここから離れよ!」
おっとりとしている少年をおしのけるかのように、突然にもう一人の人格が現れて叫んだ。
ぎょっとした男に代わり、ラスカはすかさず尋ねる。
「煌さんっ、どうしたんですか!」
「くらーけんとか言ったか、あれがおる!」
「クラーケン?」
鋭い声で告げられた、その魔物についての記憶を掘り起こす。船を海へと引きずりこむ、巨大なイカのようなものだったはずだ。
身体構造が同じかは不明だが、イカは、その身体のほとんどが筋肉でできている。自在に伸縮させることができる上に、そのスピードもかなりのものだ。
また、吸盤には角質環というトゲのようなものがある。
そして、クラーケンの中には全長2キロメートルを超えるものもいるという。海面を漂うそれは、さながら動く島のようだと。
「や、や、ややばいじゃねぇですか!」
「騒いでねぇで警戒しろっ」
「へ、へい!」
見張り台から飛んできた声に応え、槍使いの男は海から遠ざかるように船縁から離れる。船はすでに進路を変え、速度を上げ始めていた。
その背後に、迫り出すようにして突如大波が現れる。
「遅いっ……!妨げ、防げ、護れぇっ!」
海面を睨んでいた煌は、苛立ちを露わにまくし立てるように吠えた。
ヒュォォオオッ……!
一呼吸の間も置かず、何かが波に紛れムチのごとく唸りを上げて迫りくる。
船を叩き割らんとしていたそれは、煌によって展開された防御壁に弾かれ、大きく仰け反った。
ぬらりと奇妙に光る、海上にそそり立つものーー巨大イカの足という認識だけでは到底足りない。
もはや、生物の枠を超えてしまっているのだ。圧倒的で、仰々しく、その存在に呑まれてしまうような。まるで、数千年を生きた大樹のような気配。
「敵は船の後方だっ、体制を整えろ!」
騒ぎの中でもよく聞こえるどら声を聞きながら、ラスカは前衛へと飛び出した。
不運にも、そこにいたのは後方からの支援向きである魔術師。ローブを纏ったその女性は、恐怖のためか座り込んでしまっている。
「貴女は下がってください!」
彼女を立ち上がらせる余裕などあるはずもなく、ラスカは強引に後方へと突き飛ばす。
甲板を転げていくその姿を横目に、勢いをそのままに振り向きざまに大剣を振り抜いた。
ぐにゅり。
得物から伝わる独特の弾力に、思わず顔をしかめる。しかし、それも一瞬のこと。
少女の視界は、宙を舞っていた。




