第1話「♡±0」
『みんなのひろば』収録前。体操のおにいさん誠司は、歌のおねえさんと体操のおねえさんの楽屋に入り浸っていた。
-僕は高橋誠司、30歳。『みんなのひろば』第15代目体操のおにいさんを務めている-
-僕の平凡な筋トレ人生は、歌のおにいさんとの出会いで大きく変わっちゃった!あの日から4年。僕の片思いは続行中☆-
プロローグが終わると、タブレット画面に桜が映る。そして、「どきどき♡トレーニング〜君と僕のメロディ〜」というタイトルが表示された。
歌のおねえさんが、仕事の片手間に作ったとは思えない出来栄えだ。誠司は、大会前のように真剣な表情で画面を見つめた。
「真彩ちゃん」
「はい!」
「このプロローグ……恥ずかしいです」
「乗り越えてください!」
舞台は収録スタジオに切り替わり、画面に悠馬が現れる。
悠馬は「誠司くん、今年もよろしくね」と微笑んだ。宣材写真を切り取っただけとはいえ、誠司の胸を高鳴らせるには十分だった。
柔らかい焦茶色の髪。清潔感いっぱいの優しい笑顔。
「主婦の王子様」という異名が、これほど納得できる人は見たことがない。
柔軟剤を人間にしたら、きっと悠馬が誕生するだろう。
誠司の顔は次第に赤くなり、宣材写真の悠馬から目を逸らした。
だが、画面下には三つの選択肢が立ちはだかっている。
▶︎「よろしくお願いします」
▶︎「今日も素敵ですね」
▶︎「好きです。付き合ってください」
「好感度をアップさせましょう!」
誠司の隣で、ゲーム製作者の真彩は拳を握った。
ふっくらとした頬に、幼さを感じさせる顔立ち。黒目がちな丸い瞳には、期待が輝いている。
誠司のために二週間かけて作った力作なので、真彩は絶対に役に立ってほしいと思っていた。
誠司は眉間に皺を深く刻み、筋肉に覆われた腕を組む。そして、静かに頭を抱えた。
誠司は、恋愛シミュレーションゲームという試合に負けた。
「選べません……」
「なんでですか!」
「何を言っても、悠馬さんに迷惑な気がして……」
「『よろしくお願いします』ぐらいは言ってください!」
誠司は一番目の選択肢に向けて、慎重に人差し指を伸ばす。
タップすると、悠馬の隣に「♡±0」と表示された。
真彩は眉を下げ、「現状維持ルートですね……」と少し寂しそうに言った。
誠司は顔を渋く歪ませ、さらに深く頭を抱え始めた。もう前転をしそうなぐらい、背中が丸まっている。
「僕は……体操のおにいさんなので……これでいいんです……」
その様子を見ていた梓は、ゆっくりとため息をついた。
せっかく床にマットを敷いたのに、真彩と誠司が楽屋に揃うと、柔軟をする時間を奪われてしまう。
梓は誠司に近づき、肩にそっと手を置いた。
「ゲームで落ち込まないの。あと、いつまでここにいる気?」
誠司は頭を抱えたまま、「いつまでも、いさせてください……」と唸った。
梓のため息はますます深くなる。
「ここ、私と真彩の楽屋なんだけど?自分の楽屋があるでしょ。しかも、悠馬さんと二人きりの」
『みんなのひろば』の楽屋は、真彩と梓、悠馬と誠司の二部屋に分かれている。
誠司はいくらでも好きな人と二人きりになれるのだ。
だが、誠司はそんなチャンスを喜んで使えるような人ではなかった。
「……無理です。緊張で息ができなくなります」
悠馬と出会って四年。
恋を自覚してから、誠司は悠馬から逃げ続けてきた。
悠馬を前にすると、感情が喉まで溢れてきて、いらないことを口走るのではないかと怖いからだ。
バレないようにするためには、逃げたほうが誠司にとっては楽だった。
その時、コンコンと軽やかなノック音が響いた。
誠司の180cmもある体が、ソファーから飛び上がる。
「悠馬さん……!」
「なんでわかるんですか?」
「これは悠馬さんのノック音です」
「判断方法がすごい!」
真彩は慌ただしくタブレットを片付け、梓は楽屋のドアを開けに行く。
「失礼しまーす」
ドアの隙間から、悠馬が顔を出した。
悠馬は今日も穏やかな表情で、誠司に微笑みかけた。
「誠司くん、ここにいたんだね。そろそろ収録始まるよ」
誠司は直立不動だった。
口を開いては、魚のようにパクパクと動かす。
何かを喋ろうとしているのか、必死に息を吸っているのか。どちらにも見える。
そんな誠司を見かねた梓は「今、行きます……!」と笑顔で返した。
悠馬は微笑み返し、誠司をちらっと見た。
誠司はさらに背筋を伸ばす。
悠馬は少し困ったように笑って、そのまま楽屋から去った。
誠司の体から、しなしなと力が抜ける。
そのままソファーへ座り込んだ誠司は、遠い目をしていた。
先ほどの悠馬の笑顔を、早速脳内で再生しているのだ。
悠馬が自分に笑顔を向けた。悠馬の目に自分が映った。それだけで誠司は幸せになれた。誠司は、悠馬のことに関してはコスパのいい人間だった。
そんな誠司を見ていた真彩は、心配そうに梓へ言った。
「今日の放送テーマ『ぎゅー!』ですけど、誠司さん大丈夫ですかね?AED用意しましょうか」
AEDを取りに行こうとする真彩の腕を掴み、梓は静かに首を横に振った。
「大丈夫。これ持っていくから」
梓は自分のカバンの中から、コールドスプレーを取り出す。
体操のおねえさんとして持参していたものが、同期の恋に役立つ日が来るとは、梓も思っていなかった。
だが、これさえあれば、きっと誠司を蘇生させることはできる。
「じゃあ、悠馬さん待ってるから。行くよ」
梓は真彩と誠司を引き連れて、楽屋を出た。
姉御は今日も頼りになる。真彩は一生ついていこうと思った。
誠司は、これから待ち受ける試練に、足取りを重くしていた。
今日の収録で、誠司は悠馬とハグをしなければならない。




