第一章 エクス大陸42年。決戦前夜
私は様々な大陸を旅し、この世界を記録する者だ。人々は私を「記録者」と呼ぶ。
私が記録するのは、この目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、肌で感じたことだけだ。これを「記録」と呼んでも差し支えないが、それが「真相」であるかどうかは、あなた自身で判断してほしい。
空気には焦燥を孕んだ硫黄の匂いが立ち込め、森特有の湿った気配と混ざり合っていた。私は諸国を巡る記録者であり、目にしたこと、耳にしたこと、感じたことをただ記録することに専念している。真相が何であるかは、後世の人々に委ねればいい。
深い森の中で道を失い、知らず知らずのうちに魔王軍の陣地に迷い込んでしまった。
「おい!こんなところに人間のガキがいるぞ!」周りの魔物たちが一瞬で群がってくる。
表面上は冷静を装っていたが、心臓は今にも胸から飛び出しそうだった。
「やめろ!」
低く響く声とともに、宝石の嵌め込まれた大刀を手にした高階魔物が影から歩み出てきた。魔物たちは自然と道をあけた。
その魔物は私に向かって歩いてきた。、冷ややかに口を開いた。「迷子か?」私の答えを待たず、森のあちこちを顎でしゃくった。「あっちへ行け。安全な場所へ戻れる。」
私は呆気にとられ、胸元の革製バッグを強く握りしめ、思わず口走った。「……私を攻撃しないの?」
高階魔物は口元を歪め、意味深な微笑を浮かべた。「戦士は戦士と戦う。武器を持たぬ者に、俺は刃を向けん」
胸の中の恐怖が、奇跡的に潮が引くように消えていった。私は本能的に手帳とインクのついた羽ペンを取り出し、その言葉を素早く書き留めた。
「私は記録者です。いくつか話を聞かせてもらえませんか?」
高階魔物は私の真剣な様子に一瞬驚いたものの、すぐに大笑いした。「記録者……?こんな乱世に、こんな乱世に、記録なんぞしている物好きがいるとはな。しかもただの小娘か。」
私は微笑んだ。「これが私の志です。後世の人々がこの時代に何が起きたのかを知り、そこから何かを学べるように。そして、今ここに生きている人々が、後世の人々に忘れ去られないように。。」
高階魔物は笑みを収め、厳かな表情に変わった。「で、何を聞きたい?」傍らを往復するように歩き回る。「質問は二つだけだ。言葉を慎重に選べよ。」
周囲の空気は一瞬で緊張に包まれ、無数の視線が私に突き刺さる。深く息を吸い込み、第一の質問を投げかけた。
「第一に、この世界の運命を変えるほどの戦争において、魔王軍であるあなたたちが心の底から望む『理想の結末』とは何ですか?戦いが終わり、硝煙が消えた時、この大陸がどのような光景であってほしいですか?」
高階魔物は大刀を振りかざし、振り向いて配下たちを鼓舞した。「俺たちの結末は何だ!?」
群がる魔物たちは武器を掲げ、天を突くような咆哮を上げた。「勝利!勝利!」
高階魔物は熱狂する部下たちを満足げに見渡し、周囲を見回した。「これはただの理想ではない。俺たちは勝たねばならん。この大陸の混乱を叩き潰すために——俺たちが受けてきた差別と排斥に、この手で抗うのだ!!」
言い終えると、高階魔物は私に向かって歩いてきた。しかし、その顔に勝利者の誇りはなく、消えることのない憂いが差していた。奴は静かに私を見つめ、第二の問を待っていた。
私は頬を軽く撫で、第二の質問を投げかけた。
「第二に、歴史は常に勝利者の輝かしい功績を記し、敗者の名を消し去ります。もし明日敗北するのがあなたたちだとしたら、あるいはこの戦争によってあなたたちも『忘れ去られた人々』になるとしたら、後世の史書に自分たちの存在とあがきを、どのような一言で締めくくってほしいですか?」
高階魔物は深く息を吸い込み、言葉を発しようとしたその時——
「実に興味深い質問だ。」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲のすべての魔物が一斉に片膝をつき、声を揃えて叫んだ。
「魔王様!」
私は言葉を失うほどの衝撃を受け、ペンを握る手が震えて止まらなかったが、胸の中は期待で満ちあふれていた。
魔王は沈黙に落ち入り、周囲の空気もそれに合わせて静まり返った。風の音だけが静寂の中でサラサラと鳴り響いている。
長い沈黙の末、魔王は遠くを見つめ、ぽつりと二文字を口にした。
「希望。」
私は呆然とし、問い返そうとしたが、魔王はすでに視線を外していた。「問答はここまでだ。」
直後、指を鳴らす音が響き、私は王国の城門前へと転送されていた。
王国の喧噪
城内は活気に満ち、街を行き交う人々は忙しなく動き回っていた。誰もが明日の決戦に向けて全力を尽くしている。
私は兵士団の団長を見つけた。
団長は眉をひそめた。「ここは身分違いの場所だぞ、お嬢ちゃん。」
私は団長を見つめ、改めて自己紹介をした。
後ろにいた兵士たちが、私が歴史を記録していることを知ると、一斉に押し寄せてきた。誰もが自分の華々しい戦果や武勇伝、そして戦後に愛する人と結婚する誓いを争うように語りかけた。
その時、澄んだ、しかし圧倒的な声が響き渡った。
「皆、困らせるんじゃない。」
人々は歓声を上げながら道をあけた。中央に立っていたのは、王国の希望——勇者だった。
彼は洗練された鎧を身にまとい、右腰には巨石から引き抜かれたとされる伝説の神剣を挿していた。
私は前に進み出て、胸の中の疑問を投げかけた。
「この争いは、戦いでしか解決できないのですか?他に方法はないのでしょうか?」
勇者は正面から答えることなく、静かに言った。「僕の使命の範囲内で、できることはすべてやった。」
私は必死にペンを走らせながら、より詳しい言葉を期待したが、勇者はただ同じ言葉を繰り返した。「僕ができることは、すべてやった。」
そして、周囲からの崇拝の視線を見回し、私に問い返した。「誰もが君に戦うことを望んでいる。それでも君に、他の選択肢が残されていると思うかい?」
その表情を見た私は、魔王とどこか似た鬱々としたものを感じ取った。だが次の瞬間、勇者は再び自信に満ちた微笑を浮かべた。「明日が過ぎれば、きっとすべてが良くなるさ。」
そう言い残し、彼は訓練所へと戻っていった。
翌日、
両軍は大峡谷で正面から激突した。戦況は数時間に及び、天地の色が変わるほどだった。
戦いは詩的な壮大さなどなく、ただ視界を呑み込む黄砂と、耳を刺す兵器の砕け散る音だけが存在した。私は崖の陰に身を潜め、手帳のページには血の混ざった灰が落ち続けた。
混乱する光と悲鳴の中で——
昨夜、家に帰って結婚すると息巻いていた若い兵士の銀の胸当てが高く跳ね上がり、最後は空っぽのまま熱い砂の上に落ちた。
高階魔物の宝石の大刀は十数人の騎士をなぎ倒したが、最後は五本の長槍に同時に貫かれ、巨躯が山崩れのように崩れ落ちた。
勇者が剣を振るうたびに放たれる眩い聖光と、魔王が覆い尽くす黒霧が交錯し、峡谷の両側の切り立った岩壁を半分削り取った。
最後は魔王と勇者の一騎打ちとなった。二人は限界を超えて戦い抜き、相討ちとなった。
夜幕が下り、戦いが静まり返った頃、私は峡谷の底にある瓦礫の中へと足を踏み入れた。
周囲の無残な光景を見渡すと、至る所に負傷者が横たわっていた。
「……お前、か……?」
声を頼りに振り返ると、そこには血の海の中で虫の息となっている団長がいた。私は慌てて駆け寄り、かがみ込んだ。「団長、しっかりしてください……!」
「お、教えてくれ……お前は、何を記録した……?」団長は虚ろな声で尋ねた。
私は手帳を開き、読み上げた。「団長、敵一人のみを討ち、開戦と同時に矢に倒れる。」
団長は残された力を振り絞り、苦笑いを浮かべた。「せめて……華々しく戦死した、と書いてくれ……」言い終わらないうちに、彼の双眸は静かに閉じられた。
私は手帳のその行を見つめ、しばし沈黙した。
最後に羽ペンを取り、その文字の上に新たな一文を書き加えた。
「団長、決戦にて勇猛に戦死。」
私は手帳を閉じた。
……これくらいなら、嘘にはならないだろう。
生存者を捜してさらに進むと、空気中に漂う刺すような死臭に吐き気がした。少し先には、あの宝石を嵌め込んだ大刀が突き刺さっていた。
そして巨大なクレーターの中には、勇者が静かに横たわっていた。彼の体から光の蝶がふわりと飛び立ち、あの大剣の上にそっと止まったように見えた。
蝶は私の前で舞い、まるで道を案内しているかのようだった。
「誰だ……そこにいるのは……?」かすかな声が耳に届いた。
声を頼りに進むと、驚いたことに上半身だけとなった魔王だった。血の海に横たわり、静かに私を見つめていた。
「お前は……この戦いの結末を、どう思う……?」
周囲には両軍の残骸が散らばり、悲劇を無言で物語っていた。しかし、私が答える前に、魔王の身体は一筋の黒い霧となり、夜の闇へと消えていった。
私は振り返り、あの蝶の後を追って荒涼とした焦土を通り抜け、あの森へと戻ってきた。
陽光が大きな岩の前に差し込み、蝶はその上に静かに止まっていた。私は神剣を握り直し、迷うことなく、その剣を再び巨石へと突き立てた。
柄を見つめながら、私は手帳に自分なりの答えを書き留めた。
滑稽だ
私は振り返り、落ち葉を踏みしめる音を響かせながら、次の未知なる旅路へと歩みを進めた。




