第1話 奪われた皇女は、死の底で殻を破る
人は死を経験すると価値観も、性格も全て変わるそうだ。
私は、祖国を滅ぼしに来た。
吹き荒れる風が、真紅のドレスをはためかせる。眼下に広がるのは、大陸最大の版図を誇る軍事国家。
その中心にそびえるのが、かつての故郷——帝都だった。
私の背後には、地平線を埋め尽くす軍勢が控えている。辺境の小国から始まり、私の胃袋が敵の魔力を喰らい、その力で従えてきた者たちだ。
一騎当千の魔導師も、誇り高き騎士も、最前線に立つ私を見つめていた。私は艶然と微笑む。
「——さあ、狂乱の晩餐会を始めましょう」
私から全てを奪った祖国へ。私の両親を弄んだ者たちへ。
そして私の人生を賭した、壮大なわがままが遂にフィナーレを迎える。
これは、一匹の惨めな幼虫が
全てを丸呑みにする毒蛇へと羽化するまでの、
血と泥で描かれた芸術作品だ。
「さあ、お前たち! 存分に、召し上がれ!」
***
凍てつくような石造りの地下牢。
カビと汚物の臭いが立ち込める穴倉が、帝国第一皇女アナスタシアに与えられた世界の全てだった。
「這いつくばって口にしなさい。魔力ゼロの欠陥品には、豚の餌がお似合いよ」
頭上から降ってきたのは、泥にまみれた残飯だった。
豪奢なドレスをまとった継母が、床に散らばったパンをヒールで踏みにじる。扇で口元を隠し、楽しそうに笑っていた。
腹の虫が鳴る。胃液が喉を焼く。
私は震える手を伸ばし、泥と靴跡のついたパン屑を拾った。
口に押し込む。噛む。飲み下す。
「あら。本当に豚のようね。汚らしい」
「皇女様とは思えませんわ。まあ、あの卑しい女の娘なら当然ですけれど」
ピシァッ、と鞭が鳴った。
細い背中が裂け、熱い痛みが皮膚の下まで入り込む。それでも私は、咀嚼をやめなかった。
(体に傷がついても、心は絶対に傷つけさせない)
血の味がする口内でパン屑を噛み砕く。目を閉じれば、いつも同じ温かな記憶が蘇った。
まだ、お母様が生きていた頃。私とお母様とお父様の三人で、皇城の庭園を歩いた日々。
『アナ、あなたは私たちの宝物よ。何があっても、健やかでいてね』
お母様の手は柔らかく、花の香りがした。
『アナスタシア。お前が笑ってくれるだけで、父様は世界で一番幸せだ』
お父様の腕は大きかった。抱き上げられるたび、ほんの少しだけ空へ近づいた気がした。
あんなにも優しかったお父様は、お母様が亡くなってから変わってしまった。強大な実家を持つ継母を迎えてから、その顔色をうかがうようになった。
魔力を持たない私を「皇族の恥」として、地下へ追いやった。
——私は、そう思っていた。
それでも、あの頃の愛情が全て嘘だったとは思いたくなかった。だから私は、生きることを諦めなかった。
そんな地下牢で、私を人として扱ってくれる者がいた。
「姫様……申し訳ございません。私にもっと力があれば」
深夜になると、近衛騎士のジークが温かいスープと傷薬を持ってくる。
私の執事であり、従兄でもある男だ。幼くして両親を亡くしたジークを、お父様が引き取った。私にとっては、年上の兄のような存在だった。
「ジーク。この薬、高かったでしょ。大丈夫なの?」
「……さあ、姫様。今夜こそ、ここを抜け出しましょう」
いつも薬の話になると、露骨に話を逸らす。
(騎士は嘘が下手でも務まるのかしら)
多分、ジークが用意した薬ではない。
(誰かしら。気になるわね)
けれど、それだけで十分だった。
私にはまだ、味方がいる。その事実だけで、地下牢の冷たさが少し遠のいた。
「今夜は建国記念日です。城も城下町も祭りに浮かれ、警備が薄くなっています」
建国記念日。つまり、私の十四歳の誕生日でもある。
(誰にも祝われない誕生日って、案外慣れるものね)
この部屋に閉じ込められて、今日で丸五年。明日からは、地下牢の環境がさらに悪くなるらしい。
(冗談じゃないわ。これ以上悪くなれるの?)
「今日が最後の機会です」
ジークの言葉にうなずきながら、私はボロ布に包んだものを握りしめた。
藁を不格好に編んだ、小さなお守り。お父様の無事を祈り、何度も作り直したものだ。
(逃げる前に、これだけは渡したい)
それが、取り返しのつかない悲劇の幕開けとも知らずに。
***
地下牢を抜け出した瞬間から、皇城はおかしかった。
外では花火が上がっている。城下では、きっと誰かが笑っている。
けれど城内は、息を殺したように静まり返っていた。
近衛兵の姿がない。音楽も、祝いの声も聞こえない。あるのは、鉄が錆びたような血の臭いだけだった。
「……お父様?」
嫌な予感が胸を叩く。
ジークの制止を振り切り、私は玉座の間へ走った。重い扉が、ほんの少しだけ開いている。
その隙間から、私は見てしまった。
血。血。血。
豪華な絨毯の上で、お父様が倒れていた。
胸から血を流し、動かない。傍らで笑っていたのは、継母と異母妹たちだった。
「ああ、本当に目障りな男でしたこと。これでようやく、私たちの時代ですわ」
その奥に、杖を持った男が立っている。
帝国宰相バイパー。血だまりの中で、穏やかに微笑んでいた。
(全部、つながった)
継母とバイパーが手を組み、お父様を殺して国を奪ったのだ。
「お父、様……ッ」
私の声に、バイパーが振り返る。
「おや。処分する手間が省けましたね」
杖が持ち上がった、その瞬間。
血まみれのお父様が最後の力を振り絞り、バイパーの足にすがりついた。
「逃げ……ろ……アナ……生き、ろ……ッ!」
「邪魔ですよ、暗愚な皇帝」
漆黒の刃が、お父様の背を貫いた。
私の目の前で。
「お父様ァァァッ!」
お父様の体から力が抜けた。その懐から、小さなものが転がり落ちる。
血だまりに沈んだのは、小鳥を彫った木の薬入れだった。毎日届けられていた傷薬の容器と、同じ形をしている。
(ああ……お父様だったのね)
私に会うことを禁じられても、ジークに薬を託してくれていた。
ずっと私を気遣い、不器用に愛を贈り続けてくれていたのは、お父様だった。
手から藁のお守りがこぼれ落ちる。血の海へ沈み、小さな染みを広げた。
遅れて飛び込んできたジークが剣を抜く。けれどバイパーは、愉快そうに目を細めただけだった。
「悲しいですか、無能姫。ですが、あなたは無能ではなかったのですよ」
「……何を」
「私が、そう見えるようにしただけです」
私には生まれつき、触れた魔力を喰らい尽くす力があった。
それを恐れたバイパーは、幼い私に呪いをかけた。才能を封じ、生命力まで奪う呪いを。
「五年間、豚のように床を舐める日々はいかがでしたか?」
「あなたの惨めな人生は、全て私が演出したものなのですよ」
(全部、あなたのせいだったの)
怒りより先に、呆れた。
これほどの手間をかけて、幼子一人を虐げる男がいるなんて。
(どれだけの暇人よ)
「さあ、バイパー卿。そのゴミを焼却なさい!」
継母の声が弾んだ。
次の瞬間、バイパーの杖から黒い霧が放たれる。
禁呪——死の猛毒霧。
「姫様ァァァッ!」
ジークの叫びが遠ざかる。
黒い霧が、私を包み込んだ。
皮膚が焼ける。肉が焦げる。
骨の奥まで毒が入り込み、全身が黒く炭化していく。
声が出ない。指一本、動かせない。
(死にたくない)
その言葉だけが、私の中に残った。
***
——死にたくない。
暗く冷たい意識の底で、私は何度も念じた。
痛い。苦しい。熱い。
それでも、心だけは死ななかった。
お母様は追い詰められて死んだ。お父様は目の前で殺された。
私から光を奪った者たちは、今頃あの城で笑っている。
なのに、私の人生はここで終わる?
ふざけるな。
こんな理不尽なまま、惨めに死んでたまるか。
『……痛い? 苦しい?』
闇の奥から、声がした。
ジークでも、お母様でもない。大人の女のような、甘くねっとりとした声。蛇の舌先のように、意識の奥へ絡みついてくる。
『ずいぶん長く、腹を空かせてきたのね』
(誰……?)
答えの代わりに、何かが背骨へ絡みついた。ぬるりと這い上がり、胸の奥で鎌首をもたげる。
『このまま死ぬの?』
『お父様を殺されて、あいつらに笑われたまま?』
(嫌よ)
『なら、喰らいなさい』
(何を)
『毒を。呪いを。あなたを殺そうとする全てを』
甘い声が、耳元で笑った。
『私たちは、殺される側ではないわ』
その瞬間、私の中で何かが開いた。
胃の底に、深い穴が生まれる。死の霧が、そこへ流れ込んだ。
毒が養分に変わる。呪いが熱に変わる。痛みさえ、私のものになる。
『いい子』
女の声が満足げにほどけた。
『その弱い殻を脱ぎなさい。全部、喰らってしまいなさい』
***
「姫様……申し訳、ございません……ッ!」
森の奥にある、古びた廃屋。
あとで聞いた話では、ジークは閃光玉で追っ手の目を眩ませ、炭化した私を抱えて皇城を脱出したらしい。
ベッドに横たえられた私の体は、真っ黒な塊にしか見えなかった。
「私の力が足りなかったばかりに……姫様をお守りするお約束すら……ッ」
泥まみれのジークが、何度も床へ額を打ちつけている。
(うるさいわね。起きてるのに)
もちろん、声にはならなかった。
ジークが血走った目を上げ、ふらつきながら立ち上がる。
「まだです。この森には解毒の薬草があると聞きました。必ず、私が姫様を——」
——パキリ。
静まり返った廃屋に、乾いた音が響いた。
ジークが振り返る。私の炭化した背中に、亀裂が走っていた。
——メリ、メリメリメリッ。
「ひ、めさま……?」
黒い殻が割れ、隙間から紫色の魔力光が漏れる。
グジャリ、と湿った音がした。
蛇が古い皮を脱ぐように、炭化した殻が内側から崩れていく。
「姫様……!」
腰を抜かしたジークの前で、私は抜け殻の中から這い出た。
傷一つない、白磁の肌。焼け落ちたはずの青い髪は、深い紅へ変わっていた。
ゆっくりと瞼を開く。
黒い瞳の奥で、虹彩が鱗のような紋様を描いている。
人間の目ではない。でも、人間でなくなったわけでもない。
ただ、何かが変わっていた。
床に落ちた私の影が、わずかに揺れる。
(……何、これ)
答えは出なかった。
私は泣きじゃくるジークを見下ろした。言わなければならないことが、山ほどある。
助けてくれてありがとう。お父様は。私の体は、いったい——。
その言葉を紡ごうとした瞬間、強烈な飢餓感が全身を貫いた。
胃の腑を直接焼かれ、内臓が裏返りそうになる。
パン屑では足りない。スープでも足りない。
もっと熱くて、力に満ちたものが欲しい。
魔力を。命を。
「ジーク」
「は、はい! 姫様、お怪我は!?」
私はゆっくりと息を吸った。
「……お腹が空いたわ」
ジークが止まった。
「……え?」
「お腹が空いたのよ」
5年ぶりの我儘は、我儘と言うには悲しすぎるほど切実だった。
約1ヶ月ほど休載しておりました。
数少ない応援していただいてた皆さま申し訳ありませんでした。
オリジナル版はこちらですので、初めましての方はどうぞ
https://ncode.syosetu.com/n4625lw/
全てを奪われ、絶望の淵に落とされたアナスタシア。
しかし、彼女の執念はまだ死んでいませんでした。
次回、彼女が「最強の捕食者」として殻を破ります。
少しでも「面白そう!」「姫、やっちまえ!」と思っていただけましたら、
ページ下部の【☆】をタップして評価や、
ブックマークをしていただけると執筆の大きな励みになります! 応援よろしくお願いいたします!




