最終話 白夜亭で、きみと暮らす
それから数日が過ぎた午後、リーヴァは大きな布包みを抱えて白夜亭へやってきた。
「それ、どうしたの?」
「雪原から持ってきた」
カウンターの上で包みを開くと、中から小さな銀色の鈴が現れた。
トナカイの首につけるものより少し小さく、表面には青と赤の細い糸が巻かれている。鈴の下には、雪原の道しるべを表す模様を編み込んだ飾り紐がついていた。
「きれい……」
「白夜亭に、つけようと思って」
「店に?」
「うん。雪原の家では、帰る場所の入口に鈴をつけることがある」
リーヴァは鈴を持ち上げた。
「吹雪で家が見えなくても、音を聞けば、帰る方向が分かるから」
わたしは鈴を見つめた。
白夜亭の入口には、いつも小さなランプが灯っている。今度はそこへ、リーヴァの雪原の鈴が加わる。
町の灯りと、雪原の道しるべ。
「一緒につけよう」
「うん」
わたしたちは店の外へ出た。
白夜亭の看板の下には、おばあちゃんが長いあいだ守ってきたランプが揺れている。リーヴァが椅子の上に立ち、わたしは下から飾り紐を渡した。
「もう少し右かな」
「こっち?」
「うん。そこなら、ランプにも当たらない」
リーヴァが紐を結び、わたしは結び目へ指を添えた。
「……帰る場所を、見失いませんように」
小さく唱えると、紐の編み目に淡い橙色の光が染み込んだ。
その瞬間、風が吹いた。
ちりん、と鈴が鳴る。
澄んだ音が、白夜亭の前から町の通りへ広がっていった。ランプの光も風に揺れ、鈴の表面へ橙色を映している。
「いい音」
「うん」
リーヴァは椅子から降りると、看板の下に並んだランプと鈴を見上げた。
「これなら、雪原から戻ってきても分かる」
「白夜亭の場所が?」
「アイナがいる場所が」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「わたし、ずっと店にいるとは限らないよ。仕入れや配達にも行くし」
「そのときは、待つ」
「店の前で?」
「中で」
リーヴァは当たり前のように言った。
「エプロンもあるから」
以前渡した白夜亭のエプロンは、もう店の奥に置かれている。リーヴァが使うカップも、刺繍道具も、少しずつ棚に増えていた。
いつの間にか、白夜亭の中には、リーヴァの居場所ができていた。
「じゃあ、冬は店を手伝ってくれる?」
「雪原の仕事がない日は」
「雪かきも?」
「する」
「ニエルより頼りになるね」
店内から、ニエルの声が飛んできた。
「聞こえておるぞ。我は雪をかくために北の使いになったのではない」
「蜂蜜を食べるためでもないと思うけど」
「蜂蜜は、北の使いに必要な栄養である」
わたしとリーヴァは顔を見合わせて笑った。
しばらく鈴の音を聞いたあと、わたしはふと思いついた。
「来年の白夜祭も、また一緒に出店をしようか」
「うん」
「今度は、雪原の飾りや保存食も並べたいね。リーヴァの模様を入れた手袋も、もっと作って」
「歌を書き留めたものも置ける」
「歌を?」
「アイナのレシピと一緒に、一冊の帳面にする」
リーヴァは指を折りながら考え始めた。
「眠れない夜のハーブミルクには、子守歌。迷子にならない手袋には、道しるべの歌」
「料理と魔法と歌の本かあ」
「二人で作る」
まだ何も書かれていない帳面が、頭の中に浮かんだ。
おばあちゃんのレシピ帳とも、ソルヴェイグさんの歌の記録とも違う、わたしたちの一冊。
「来年までに作れるかな」
「来年だけ?」
「え?」
「その次の年も、続きを書くつもりだった」
リーヴァは穏やかな声で言った。
何年も先まで白夜亭に通い、わたしと一緒に帳面の続きを書く。それを当然のこととして考えてくれている。
そう分かるまでに、少し時間がかかった。
「うん」
わたしは頷いた。
「その次も、もっと先も。書くことがなくならないくらい、いろんなことを一緒にしよう」
「分かった」
リーヴァは、わずかに頬を緩めた。
「春になったら、アイナを雪原へ連れていく」
「本当に?」
「前に約束したから」
「何を持っていけばいい?」
「温かい服と、歩きやすい靴。それから、冷めないスープ」
「スープは絶対なんだ」
「大事」
「じゃあ、雪原でしか採れないベリーも探したいな。白夜亭の新しいジャムにできるかも」
「案内する」
春は雪原へ。
夏は白夜祭を一緒に開く。
冬はこの店で、スープを作り、手袋を編む。
リーヴァが雪原へ帰る日もあるだろう。わたしが町で店を守る日もある。それでも二つの場所を行き来しながら、また同じ店へ帰ってくることができる。
どちらか一つを選ぶのではなく、町と雪原の間に、わたしたちなりの道を作っていけばいい。
看板の下で、もう一度鈴が鳴った。
「リーヴァ」
「なに?」
「この鈴、帰ってくるときだけじゃなくて、出かけるときにも鳴るよね」
「うん」
「だったら、帰る場所の印だけじゃないのかも」
「ほかに、何の印?」
わたしは少し考えてから答えた。
「一緒に、新しい場所へ行くための印」
リーヴァは鈴を見上げた。
「それも、いいと思う」
橙色のランプと、銀色の鈴。
二つの光と音が重なり、白夜亭の入口で静かに揺れていた。
これから先、どんな季節が来るのかは分からない。
けれど、来年のことも、その先のことも、もう一人で考えなくていい。
隣には、同じ未来を思い描いてくれる人がいる。
それだけで、まだ見たことのない冬の景色さえ、少し楽しみに思えた。
季節は、少しずつ冬へと近づいていく。
そのある朝、白夜亭の扉を開けると、外は、これまでよりもずっと冷たい空気に包まれていた。吐く息が、はっきりと白く色づいて、目の前でゆっくりと消えていく。けれど、店の中には、いつものようにスープの湯気が立ち込めている。
「ただいま」
声がして振り返ると、リーヴァが雪を払いながら店に入ってきた。その肩には、うっすらと、初雪の欠片がついている。頬は寒さで赤く色づき、けれどその表情には、確かな安らぎが浮かんでいた。
「おかえり」
わたしは、自然とそう答えていた。
その言葉が、あまりにもすんなりと口から出たことに、自分でも少し驚いた。
けれど、きっとこれでよかった。
リーヴァは雪原へ出かけても、また白夜亭へ戻ってくる。そしてわたしは、その姿を迎える。
それがいつの間にか、特別なことではなくなっていた。
「帰ってきた」
リーヴァはそう言ってから、少しだけ言い直した。
「アイナのところに」
胸の奥へ、あたたかなものが静かに広がった。
わたしはもう一度、今度はさっきよりもはっきりと言った。
「うん。おかえり、リーヴァ」
白夜亭の入口で、ランプの光と雪原の鈴が、同時に小さく揺れた。
リーヴァはいつもの場所に外套を掛け、いつもの椅子へ腰を下ろした。わたしは何も尋ねず、二人分のカップを棚から取り出す。
その一連の動作は、これから先も何度でも繰り返される、わたしたちの暮らしの始まりのように思えた。
カウンターの上で丸くなっていたニエルが、片目を開けて、のんびりとした声で言った。
「む。よい朝だ。では、蜂蜜入りミルクを要求する」
その台詞に、わたしとリーヴァは、思わず顔を見合わせて笑った。
「相変わらずだね、ニエル」
「相変わらずでいいんだよ、たぶん」
わたしは鍋に手を伸ばし、いつものように蜂蜜入りのミルクを温め始めた。指先に小さな魔法を込めて、湯気がゆっくりと立ち上るのを見つめる。鍋から立ち昇る甘い香りが店の中にじんわりと満ちていった。
白夜亭のランプが窓の外の冷たい空気の中で、変わらず、やわらかな橙色の光を灯していた。大きくはないけれど、決して消えることのない確かな灯り。
北極圏の小さな町、ルミラヴィ。
白夜亭の扉の前には、新しい看板が静かに揺れている。
「白夜亭――冬守り見習いと、雪原案内人の店」
その扉の内側で、わたしたちはこれから訪れる冬に向けて、また新しいいつもの朝を迎えようとしていた。
窓の外では、冷たい風が丘の上のカラフルな家々の間を吹き抜けていく。けれど、その風の中にも、どこかあたたかな気配が混じっているように、わたしには感じられた。
小さな魔法と小さな灯り。それらが積み重なって作られる、この町の暮らし。
わたしはこれからも、その一部として自分にできることを、ひとつずつ、丁寧に続けていくのだろう。
それが、わたしの冬守りの形だから。
(おしまい)




