第二十一話 白夜亭の新しい朝
オーロラ祭りの夜から、季節は少しずつ動き始めていた。
白夜の名残は、まだ空のどこかに残っていたけれど、朝晩の風は、日に日に冷たさを増していく。丘に並ぶ木造家屋の窓辺には、そろそろ冬支度の飾りが並び始め、湖の水面にも、薄い氷の膜が張るようになっていた。息を吐くと、白く色づくようになったのも、ちょうどこの頃からだった。
町には、あの夜からずっと、オーロラが戻っていた。夜になれば、空には緑や紫の光が揺らめき、それを見上げる町の人々の顔には、以前のような不安の色は、もうほとんど見られなかった。むしろ、誰もが当たり前のように空を見上げ、その光を、日々の暮らしの一部として受け入れているようだった。
白夜亭の看板ランプも、あの夜以来、毎晩、変わらず灯り続けている。大きくはないけれど、確かに消えることのない、あたたかな橙色の光だった。夜、店じまいをするたびに、わたしはその灯りを見上げて、小さな安堵を覚えるようになっていた。
「アイナ、荷物が届いてるよ」
ある朝、ミルヤが息を切らして店に駆け込んできた。頬を上気させ、興奮を隠しきれない様子だった。
「エルナさんが、帰ってくるんだって!」
その報せに、わたしは思わず手にしていた布巾を落としそうになった。
「おばあちゃんが……」
療養先から、ようやく体調が戻ったおばあちゃんが、町へ戻ってくるという。わたしは慌てて店の中を見渡した。棚の毛糸玉、ジャムの瓶、木彫りの人形。すべてが、あの夏の日々を経て、少しずつ姿を変えていた。見慣れたはずの棚が、急にこれまでの出来事の証のように見えてくる。
「ちゃんと、片付けなきゃ」
「大丈夫だよ、アイナ。今のままで、じゅうぶん素敵な店になってる」
リーヴァが、穏やかにそう言って、肩に手を置いてくれた。その手の温もりに、わたしはようやく、少し落ち着きを取り戻した。
その日の午後、汽車の駅まで、わたしはリーヴァと一緒に迎えに向かった。プラットホームには冷たい風が吹き抜けていて、遠くの線路の向こうから、汽笛の音がかすかに響いてくる。プラットホームに降り立ったおばあちゃんは、以前よりも顔色が良く、白髪の三つ編みを揺らしながら、ゆっくりと歩いてきた。
「おばあちゃん!」
わたしは思わず駆け寄った。療養前とは違う、確かな足取りの姿に胸の奥が熱くなった。
「アイナ。元気そうだね」
おばあちゃんは優しく微笑みながら、わたしの頭を撫でた。その手のひらの感触は、少し痩せたように感じられたけれど、確かに、以前と変わらぬあたたかさを持っていた。それから、隣に立つリーヴァに目を向けた。
「あなたが、リーヴァさんだね。手紙で、よく名前を聞いていたよ」
「初めまして。リーヴァ・サリです」
リーヴァが、少し緊張した様子で頭を下げると、おばあちゃんは優しく笑った。
「アイナを、色々助けてくれたそうで。ありがとう」
「いえ……私のほうこそ、助けられました」
その言葉に、わたしとリーヴァは、思わず顔を見合わせた。
駅を出て、町へ続く坂道を上っていく。
ルミラヴィの家々が見え始めたころ、道の向こうから何人もの町の人が歩いてくるのが見えた。
「エルナさん、おかえりなさい!」
最初に声を上げたのは、広場のパン屋のおばさんだった。その後ろからも、毛糸屋の主人や、白夜祭で飾り紐を結んだ子どもたちが次々と集まってくる。
「顔色がよくなったねえ」
「冬支度市までに戻ってきてくれて、本当によかった」
「でも、エルナさんがいないあいだも、アイナちゃんが頑張ってくれたよ」
突然自分の名前が出て、わたしは少しだけ肩をすくめた。
おばあちゃんは町の人たちの顔をゆっくりと見回したあと、隣にいるわたしへ目を向けた。
「そうみたいだね」
穏やかな声だった。
町の人たちの後ろでは、色を取り戻した飾り紐が風に揺れ、軒先の鈴が澄んだ音を鳴らしている。子どもたちの手には、あの日染め直した赤や青の毛糸で作られた小さな飾りが握られていた。
わたしがこの町でしてきたことが、形になって、そこに残っている。
そう気づくと、胸の奥が少しくすぐったいような気持ちになった。
「おかえり、エルナさん」
誰かがもう一度言うと、今度は周りの人たちも声を重ねた。
「おかえりなさい」
おばあちゃんは少し目を細めて、深く頷いた。
「ただいま。留守のあいだ、この町とアイナを守ってくれて、ありがとう」
その言葉に、町の人たちは笑った。
けれどわたしには、町の人たちがおばあちゃんを待っていただけではなく、いつの間にか、わたしのことも白夜亭の店主として見てくれているように感じられた。
白夜亭に戻ると、おばあちゃんは、店の中をゆっくりと見て回った。わたしは、緊張しながらその後をついて歩いた。棚の間を歩くおばあちゃんの後ろ姿は、以前と変わらず、店の隅々まで見透かすような佇まいだった。
「あの……店、少し変わってるところ、あるかもしれないけど」
わたしがそう切り出すと、おばあちゃんは、棚に並んだ、色とりどりに染め直された毛糸玉に目を留めた。
「これは、自然染めだね。ずいぶん丁寧にやったようだ」
「リーヴァに教えてもらって……」
次に、おばあちゃんは看板ランプに近づいた。かつて自分が灯した火を、じっと見つめている。その視線には、これまでの長い年月の記憶が静かに宿っているように見えた。
「このランプ、少し違う灯り方をしているね」
わたしは思わず身構えた。何かを咎められるのではないかと、心臓が早鐘を打った。手のひらに、じんわりと汗が滲む。
「あの……夜霜の影のせいで、一度、完全に消えてしまって。みんなで、力を合わせて、なんとか灯し直したんです」
おばあちゃんは、しばらくランプを見つめたあと、柔らかく微笑んだ。ランプの淡い光が、その皺の刻まれた顔を優しく照らしていた。
「いい店になったね、アイナ」
その一言に、わたしは思わず涙がこみ上げそうになった。
「わたし……まだ、おばあちゃんみたいな冬守りには、なれてないけど」
「アイナ」
おばあちゃんは、優しく、けれどはっきりと言った。
「冬守りは、急いでなるものじゃないよ。それに、私のようになる必要も、ないんだよ」
「え……」
「おまえには、おまえのやり方がある。今のこの店を見れば、それがよくわかる」
わたしは、その言葉を静かに胸に受け止めた。喉の奥に詰まっていた何かが、ゆっくりとほどけていくようだった。
「うん。わたしは、まだ見習いだけど」
「見習いで、いいんだよ。焦らず、少しずつでいい」
おばあちゃんの言葉に、わたしは、これまで抱えていた重荷が、少しずつ軽くなっていくのを感じた。自分が祖母のようになれないという劣等感は、もう、以前ほど強く自分を縛るものではなくなっていた。
それから数日、おばあちゃんは店を手伝いながら、ゆっくりと養生を続けた。
けれど、白夜亭の階段を毎日上り下りするのはまだ体に負担がかかるらしく、しばらくは町長の家の離れを借りて暮らすことになった。店のことは、もうわたしに任せると言ってくれた。
「困ったことがあれば、いつでも呼びにおいで」
そう言いながらも、おばあちゃんは以前のように何もかも先回りして手を出すことはなかった。少し離れたところから、わたしが自分で決めるのを待ってくれているようだった。
時折、ソルヴェイグさんと会って、二人で昔話に花を咲かせる姿も見られた。窓越しに見る二人の姿は、まるで若い頃の写真の中の光景が、そのまま現実に重なったかのようだった。
「あの子たちを見ていると、私たちの若い頃を思い出すね」
おばあちゃんがそう呟くのを、わたしは偶然、耳にした。その声には、懐かしさと、確かな慈しみが静かに滲んでいた。
リーヴァはあれから、雪原の集落と町とを行き来しながら、白夜亭を手伝うようになっていた。
「今日は、集落に用事があるから」
そう言って出かけていく日もあれば、
「今日は、こっちにいる」
と言って、店番を手伝ってくれる日もあった。二つの場所を行き来しながら、リーヴァは少しずつ、自分なりの居場所の形を見つけているようだった。以前のような、どちらの場所にも馴染めないという焦りは、その表情から、少しずつ薄れていった。
「無理して、どちらかを選ばなくていいんだよ」
わたしがそう言うと、リーヴァはゆっくりと頷いた。
「うん。今は、両方が、私の場所だと思ってる」
その言葉には、以前のような迷いはなく、ただ穏やかな確信だけがあった。
ミルヤは冬支度市の記録係として、町のあちこちを飛び回っていた。
「今年の市、去年より活気があるって、みんな言ってるよ」
その声は、いつも通り明るく、町中を駆け回る足音が、なんだか耳に心地よく響いた。
オスカリは、白夜亭の新しい看板作りに取り掛かっていた。
「アイナ、新しい看板の文字、どんなのがいい?」
「うーん……」
わたしはしばらく考えてから答えた。これまでの日々を思い返しながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「白夜亭――冬守り見習いと、雪原案内人の店」
「いいね、それ」
オスカリは、嬉しそうに頷いて、さっそく木材に文字を彫り始めた。木を削る音が、店の裏手から規則正しく響いてくる。
ニエルは相変わらず、店のあちこちで菓子をねだっていた。
「む。今日も、蜂蜜入りミルクを要求する」
「ニエル、少しは働いてよ」
「我は、偉大なる北の使いだ。働くのは、おまえたちの役目である」
その掛け合いは、以前と何も変わらなかったけれど、ニエルの背中に浮かぶオーロラ模様は、あの祭りの夜以来、ずっと力強く輝き続けていた。
冬支度市の準備が本格化する中、ある朝、オスカリが仕上げた新しい看板が、白夜亭の扉に取り付けられた。木の香りがまだ新しく漂う看板を、みんなで扉に掲げる作業は、なんだか小さな儀式のようだった。
『白夜亭 冬守り見習いと、雪原案内人の店』
その文字を見上げながら、わたしはこれまでの日々を思い返していた。
煙突から落ちてきたニエルとの出会い。リーヴァとの初めての出会い。白夜祭で子どもたちに歌を届けたこと。色を失った毛糸を、みんなで染め直したこと。迷子のトナカイを、雪原で探したこと。湖畔のサウナ小屋を、みんなで直したこと。ベリー畑で、森への感謝を学んだこと。町から消えた古い歌を、みんなで探し集めたこと。北灯文庫で、冬守りと歌守りの記録を見つけたこと。夜霜の影に、言えなかった弱さを打ち明けたこと。冬支度市の準備を通して、町の絆を深めたこと。リーヴァの帰る場所を、一緒に見つけたこと。消えたランプを、みんなで灯し直したこと。北風の鹿が眠る丘で、祖母たちの過去を垣間見たこと。最後の一節を、町中の記憶から探し出したこと。そして、オーロラ祭りの夜、北風の鹿を目覚めさせたこと。
どれもが、大きな奇跡ではなかった。けれど、そのひとつひとつが、確かに、わたし自身の魔法として、この町に根付いていた。振り返るたびに、それぞれの記憶が、まるで小さな灯りのように胸の奥で静かに輝いているのを感じた。




