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第一話『大人』

オレは、天谷小次郎天谷 小次郎(あまや こじろう)30歳。


どこにでもいる、ごく普通のサラリーマンだ。


朝は満員電車に揺られ、会社では上司に頭を下げ、

取引先には愛想笑いを浮かべ、夜は終電ギリギリで帰宅する。


そんな毎日を、もう何年も繰り返している。


学生時代はいやというほど勉強し、国立大学を卒業し、大手商社へ入社した。


親は喜んだ。

友人たちは羨ましがった。

就職活動をしていた頃の自分だって、きっと誇らしかったと思う。


夢の大手商社入社!オレは華々しい人生を歩んで行くんだ。そう確信していた。


だが現実は、思い描いていたものとは少し違っていた。


職場の人間関係が悪いわけではない。

上司が理不尽なわけでもない。

給料だって悪くないし、福利厚生も充実している。

傍から見れば、十分すぎるほど恵まれている環境だった。


それでも。


オレは、その場所がどうしても苦手だった。


昼休みの雑談。

飲み会での馬鹿話。

ゴルフや接待の誘い。


みんなが楽しそうに笑っている輪の中で、オレだけがいつも少しだけ浮いていた。


本当は興味のない話題にも笑い、本当は苦手なノリにも合わせる。


空気を読んで、求められる返事をして、

求められる表情を浮かべる。


そうしているうちに、それが当たり前になっていった。


いつしかオレは、自分の本音よりも、

周囲が望む正解を優先するようになっていた。


そして気づけば、、、


自分が何を好きで、何を嫌いで、

何をしたい人間だったのか。

よく分からなくなっていた。


その日も、仕事終わりに飲み会があった。

断ろうと思えば断れた。いや、本当は全く、乗り気じゃなかった。


だが結局、空気を読んでいつものように参加した。


「天谷も飲め飲め!」


「いや、そんなに強くないんで……」


「おい!盛り下がること言うなよ!」

「せっかくの打ち上げなんだし!ほらジョッキもって!」


笑いながら差し出されるビールジョッキ。


オレも笑顔を作り、それを受け取る。


「かんぱーーい!!!」 


大声で誰かが叫んだ


苦い。


酒は嫌いだ、正直まったく美味しいとは思わない。

それでも場の空気を壊さないために飲み干す。


誰かの話に笑い、誰かの愚痴に頷き、

誰かの自慢話を聞く。


気づけば終電が近づいていた。


店を出る頃には、みんな上機嫌だった。


「また行こうな!」

「お疲れ!」

「明日もよろしく!」


そんな言葉を交わして別れる。


そして、、、


一人になった。


駅からの帰り道。

さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かだった。


酔いのせいだろうか。

夜風が妙に冷たく感じる。


街灯に照らされたアスファルトを見つめながら歩く。

カツ、カツ、と靴音だけが響く。


ふと。


足が止まった。


オレは今、何をやっているんだろう。

何のために働いているんだろう。

何のために笑っているんだろう。


そんなことを考えた。


考えた瞬間。

胸の奥に押し込めていた何かが、音を立てて崩れた。


ああ。


そうか。


オレ


もう、自分が分からないんだ。


いつからだろう。

本当の気持ちを隠すようになったのは。


いつからだろう。

誰かに合わせることばかり覚えたのは。


いつからだろう。

自分自身を置いてきてしまったのは。


頬を、一筋の涙が伝った。


気づけば、次から次へと溢れてくる。

止めようとしても止まらない。


オレは街灯の下で立ち尽くしたまま、ただ静かに泣いていた。


まるで、自分でも知らないうちに積み重なっていた何かを吐き出すように。



街灯もまばらな、闇に沈んだ夜道。

小次郎は足取りも定まらないまま歩いていた。


気がつけば、嗚咽が漏れていた。


情けねぇな。


思わず自嘲する。

入社前のオレが今の姿を見たら、なんて言うだろう。

国立大学を卒業して、大手商社に入る。

それだけで未来は明るいと信じていた。

なのに現実のオレは、酔っ払って夜道を歩きながら泣いている。


笑えない冗談だ。


そのときだった。

ふいに体が傾く。


足元がおぼつかず、そのまま誰かにぶつかった。


「あっ――」


反射的に謝ろうとして顔を上げる。


そして、小次郎は言葉を失った。

そこに立っていたのは、老人だった。


長く立派な白髭。

深く刻まれた皺。

ギリシャ神話の神々がまとっていそうな白い衣。


そして何より。


まるで背後から光が差しているかのような、不思議な存在感。


まさしく神。


誰もが想像する『神様』そのものだった。


……なんだこの爺さん。


流石に、飲みすぎたか?

いや、待て。


酔って幻覚を見てるにしても、あまりにもベタすぎるだろ。


そんなことを考えながらも、小次郎は慌てて頭を下げようとした。


だが、うまく声が出ない。

さっきまで泣いていたせいで呼吸が乱れている。


謝罪の言葉は喉の奥で引っかかったまま消えた。


すると老人は、小次郎を真っ直ぐ見つめて言った。


「私は神だ」


静かな声だった。

だが、不思議と耳の奥に響く。


「哀れな君に、もう一度だけ機会を与えよう」


小次郎は思わず顔を上げた。


神は続ける。


「今の記憶を持ったまま、小学校に入学する時点から人生をやり直してみないか?」


意味が分からなかった。

あまりにも現実離れしている。


映画か。

小説か。


あるいは酔っ払いが見る夢か。


冷静な自分なら鼻で笑っていただろう。

だが、その夜の小次郎には、そんな余裕は残っていなかった。


酒に酔い。

心は擦り切れ。

自分が何者なのかさえ分からなくなっていた。


だから。


その言葉は、救いに聞こえた。


「……やり直せるのか?」


気づけば、そう口にしていた。


神は静かに頷く。


「いかにも」


白い髭を揺らしながら神は言った。


「明日の朝、お前は小学生へと戻る」

「記憶はそのまま持ち越すがいい」

「そして、もう一度、自分の人生と向き合え」


あまりにも出来すぎた話だった。


だが小次郎は思う。


どうでもいい。

もう、どうなってもいい。


もし本当に人生をやり直せるなら、それは想像もできないほど特別な体験だ。


何も起こらなかったとしても。

酔った勢いで変な老人に絡まれた。

そんな笑い話になるだけだ。


どちらに転んでも、今よりはマシだった。


だから小次郎は笑った。

半ば投げやりに。

半ば諦めるように。


そして、静かに頷いた。


「分かった」


神もまた頷く。


「契約成立だ」


その言葉を最後に。

老人の姿は夜の闇へと溶けるように消えた。


小次郎はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

まるで夢を見ていたような感覚だった。


だから彼は、深く考えることもなく、ただ軽く頷いた。




それが、自分の人生を大きく変える契約になるとも知らずに。


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