ep.126 白瀬は、湊の“見せない一行”を察する
白瀬栞は、朝比奈湊の視線が少し変わったことに気づいていた。
たぶん、他の人なら見逃すくらいの変化だ。
教室で黒瀬琉衣奈が席に着く。
ノートを開く。
藤堂莉子にからかわれて、少しむくれる。
湊がそれを見る。
それだけなら、これまでも何度もあった。
けれど最近の湊は、その一瞬だけ、ほんの少し言葉を探すような顔をする。
すぐには声をかけない。
すぐには笑わない。
何かを飲み込んでから、いつもの調子に戻る。
黒瀬さんのことを、以前より長く見ている。
そう思った。
白瀬は、そのことに気づいた自分に少し戸惑っていた。
気づきたくなかった、というほどではない。
けれど、気づくと胸の奥が少しだけ静かに痛む。
黒瀬と湊の間にある夜の時間。
カフェラテ。
クッション。
文句と確認。
見せたノート。
見せない一行。
それは白瀬の知らない時間だ。
もちろん、知っている部分もある。
黒瀬が話してくれることもある。
湊が少しだけ教えてくれることもある。
けれど、本当にそこで交わされた空気は、白瀬には見えない。
黒瀬が夜に湊の部屋へ行くことは、もう完全な秘密ではなくなっている。
莉子も何となく知っている。
白瀬も、踏み込みすぎないようにしながら知っている。
それでも、その時間の中に自分はいない。
そのことを、白瀬は時々思い出す。
そして、少しだけ寂しくなる。
朝の教室。
黒瀬はいつもより少し遅れて入ってきた。
「……おはよ」
「おはようございます、黒瀬さん」
「おはよー、るいな」
莉子が手を振る。
黒瀬は自分の席へ鞄を置き、いつものようにノートを出した。
けれど、今日はその手つきが少し慎重だった。
おそらく、昨日の湊のメモのことをまだ考えている。
見せない一行。
白瀬もその存在を知っている。
内容までは知らない。
ただ、それが黒瀬に関係する一行であることは、昨日の様子でわかった。
湊が教室に入ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
黒瀬が返す。
声はいつも通り。
でも、少しだけ目が揺れた。
湊もそれに気づいている。
そして、すぐには何も言わない。
言葉を急がない。
白瀬は、自分がノートに書いた一行を思い出した。
――朝比奈くんは、言葉を急がない。
あの時は、湊の良いところだと思って書いた。
今もそう思っている。
けれど、その優しさが黒瀬へ向いているところを見ると、少しだけ胸が痛む。
身勝手だ。
自分でもそう思う。
黒瀬が大事にされていることは嬉しい。
黒瀬が少しずつ待てるようになったことも、嬉しい。
湊が黒瀬を雑に扱わないことも、安心する。
なのに、ほんの少しだけ寂しい。
白瀬はノートを開いた。
きれいなページ。
今日の日付。
授業の見出し。
その端に、まだ何も書かれていない余白がある。
そこへ書きたいことはある。
でも、まだ書けなかった。
一限目が終わると、莉子が伸びをした。
「眠い。確認テスト前なのに眠い。人類はもっと朝を遅くするべき」
「莉子、それ毎週言ってる」
黒瀬が言う。
「毎週思ってるから」
「進歩がない」
「るいなに言われたくない」
「何で」
「朝比奈くんの見せない一行、まだ気にしてる顔してるから」
黒瀬が固まった。
「莉子」
「ごめん、口が勝手に」
「勝手にするな」
黒瀬は顔を赤くして湊を見る。
湊は苦笑した。
「まだ見せられないのは変わらない」
「聞いてない」
「顔が聞いてた」
「朝比奈まで顔って言う!」
黒瀬はむくれた。
莉子がすかさずツッコミ帳を開く。
「はい記録」
「莉子、書くな!」
「もう書いた」
「早すぎ」
莉子は声に出して読もうとした。
黒瀬が本気で止める。
「読んだら怒る」
「はいはい、読むのはやめます」
「書いた時点でだめ」
「でも大事な記録」
「大事にするな」
そのやり取りを見ながら、白瀬は湊の方を見た。
湊は笑っている。
けれど、笑いきってはいない。
少しだけ何かを抱えている。
見せない一行。
それはたぶん、軽い冗談ではない。
莉子のツッコミ帳に書かれるような軽さではない。
黒瀬のことを、湊がどう感じているのか。
それに近いものなのだと思う。
昼休み。
黒瀬と莉子が購買へ行き、教室には湊と白瀬が残った。
偶然だった。
いや、莉子は少し気を利かせたのかもしれない。
最近の莉子は、茶化しながらも距離の取り方が上手い。
白瀬は弁当箱を開きかけて、湊を見た。
「朝比奈くん」
「うん?」
「最近、書いていますか?」
湊は一瞬、動きを止めた。
「メモ?」
「はい」
「少し」
「黒瀬さんのことを?」
言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。
けれど、もう戻せない。
湊はすぐには答えなかった。
その沈黙で、答えはほとんど見えた。
「……うん」
小さな返事。
白瀬は静かに頷いた。
「そうですか」
「白瀬さんには、わかるんだな」
「何となくです」
「顔?」
「顔と、間です」
「間」
「はい。朝比奈くんが黒瀬さんを見る時、少しだけ言葉を待つようになったので」
湊は困ったように笑った。
「そんなに出てる?」
「少しだけ」
「黒瀬みたいに?」
「黒瀬さんほどではありません」
「それはそうか」
二人で少しだけ笑った。
けれど、すぐに静かになる。
白瀬は箸を置いた。
「見せない一行があるんですね」
湊は、今度ははっきり驚いた顔をした。
「黒瀬から聞いた?」
「少しだけ。でも、内容は聞いていません」
「そっか」
「見せられないのは、黒瀬さんに関することだからですか」
湊はスマホを見た。
画面はついていない。
でも、その中に一行があることを、白瀬は知っている。
「たぶん」
「たぶん?」
「黒瀬のことを書いた。でも、それが何なのか、自分でもまだちゃんと整理できてない」
「だから、見せられない」
「うん」
白瀬はその言葉を受け取った。
胸の奥が少しだけ痛む。
湊が整理できないほど、黒瀬のことを考えている。
それは、わかっていたはずだった。
けれど、本人の口から聞くと、やはり少し違う。
「黒瀬さんは、待てると思います」
白瀬は静かに言った。
湊が顔を上げる。
「そう思う?」
「はい」
「黒瀬、すごく気にしてるけど」
「気にしていると思います」
「うん」
「でも、以前より待てる人になっていると思います」
湊は少しだけ黙った。
「白瀬さんが言うと、説得力あるな」
「私も、待ってもらいましたから」
黒瀬は、白瀬の一行を待ってくれた。
無理に見せなくていい。
でも、消さないで。
あの言葉があったから、白瀬はノートの一行を消さずにいられた。
そして、見せることができた。
だから、黒瀬は待てる。
きっと。
「朝比奈くん」
「うん」
「見せられる時が来たら、きっと黒瀬さんにちゃんと届くと思います」
「届くかな」
「はい」
白瀬は少しだけ笑った。
「黒瀬さんは、届いた時にとてもわかりやすいので」
湊も笑った。
「それはわかる」
けれど、白瀬の胸の中には、まだ小さな痛みが残っていた。
湊は黒瀬に届ける言葉を持っている。
まだ見せられないほどの言葉を。
そのことが、少し羨ましい。
少しだけ寂しい。
白瀬は、自分のノートを開いた。
余白に、そっと一行書く。
――見せない一行は、たぶん一番大切な一行。
書いてから、胸の奥がきゅっとした。
この一行は、誰に見せるためのものでもない。
黒瀬にも、湊にも、莉子にも、まだ見せない。
自分のための一行だった。
そこへ、黒瀬と莉子が戻ってきた。
「ただいまー」
莉子が購買袋を下げている。
黒瀬は焼きそばパンを持っていた。
席に戻るなり、黒瀬が白瀬と湊を見比べる。
「何話してたの」
莉子がにやにやする。
「お、るいな、気になる?」
「気になるっていうか」
黒瀬は少しだけ言葉を探す。
「二人とも真面目な顔してたから」
白瀬はノートを閉じた。
「少し、メモの話をしていました」
「朝比奈の?」
「はい」
黒瀬は湊を見る。
湊は頷いた。
「内容は言ってない」
「……ならいいけど」
黒瀬は少しだけむくれた。
けれど、本気で怒っているわけではない。
「白瀬」
「はい」
「何か言った?」
「黒瀬さんは、待てると思います、と」
黒瀬は固まった。
「……白瀬」
「はい」
「そういうの、普通に言うなって」
「本当なので」
「出た」
莉子がツッコミ帳を開く。
「はい記録」
「莉子、書くな」
「これは書くでしょ。白瀬さん、るいなの成長を信じる」
「見出しつけるな!」
黒瀬は顔を赤くして莉子を止めようとする。
湊は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、白瀬はまた少し胸の奥が揺れる。
でも今度は、その揺れを無視しなかった。
放課後。
白瀬は図書室の当番だった。
返却作業をしながら、昼に書いた一行を思い出していた。
――見せない一行は、たぶん一番大切な一行。
書いた時は少し苦しかった。
でも、消したいとは思わなかった。
それは白瀬の本音だった。
湊が黒瀬へ見せられない一行。
黒瀬がそれを待とうとしていること。
自分がそれを見て、少し寂しいと思ったこと。
全部を一行にすると、そうなった。
図書室の扉が開く。
黒瀬だった。
「白瀬」
「黒瀬さん」
珍しい。
けれど、最近はもう完全に珍しいとは言えなくなってきた。
黒瀬は図書室に少し慣れ始めている。
「何してんの」
「返却作業です」
「それ、前も聞いた」
「はい」
「本、まだ読んでる」
黒瀬はぼそっと言った。
白瀬は微笑む。
「嬉しいです」
「普通に言うな」
「でも、本当なので」
「出た」
黒瀬はカウンターの前に立ち、少しだけ迷うような顔をした。
「昼」
「はい」
「朝比奈と何話してたの、ほんとは」
白瀬は少しだけ考えた。
隠すようなことではない。
でも、全部を言うのは違う。
「朝比奈くんが、まだ自分の言葉を整理している途中だという話です」
「……そっか」
「黒瀬さんは待てると思う、とも言いました」
「それは聞いた」
「はい」
「白瀬は、何でそう思うの」
黒瀬の声は少し真面目だった。
白瀬は返却本を一冊、そっと横に置いた。
「私の一行を、黒瀬さんが待ってくれたからです」
黒瀬は黙った。
「無理に見せなくていい、と言ってくれました。でも、消さないで、とも言ってくれました」
「……うん」
「あの時、私はとても助かりました」
「助かった?」
「はい。待ってもらえたことで、見せる勇気が出ました」
黒瀬は視線を落とした。
「そんな大したことしてないし」
「私は、大きいことだったと思っています」
「普通に言うなって」
「本当なので」
「もう」
黒瀬は困ったように笑った。
それから、少しだけ言いにくそうに言う。
「白瀬」
「はい」
「朝比奈の見せない一行、気になる?」
白瀬は、すぐには答えられなかった。
黒瀬はそれを見て、少しだけ目を細める。
「……気になるんだ」
「はい」
栞は正直に答えた。
「気になります」
「そっか」
「でも、私が見たいものではない気がします」
「どういう意味?」
「たぶん、黒瀬さんに向けたものだと思うので」
黒瀬の顔が赤くなる。
「……まだわかんないじゃん」
「そうですね」
「でも、あたしのことっぽい」
「はい」
「それは、ちょっと」
黒瀬は言葉を探した。
「怖い」
「はい」
「でも、嬉しい」
「はい」
「でも、怖い」
白瀬は静かに頷いた。
「どちらも本当だと思います」
黒瀬は少しだけ驚いた顔をした。
「白瀬、そういうの否定しないよね」
「否定する必要がないと思うので」
「強い」
「そうでしょうか」
「強い」
黒瀬はカウンターに軽く指を置いた。
「白瀬は」
「はい」
「平気?」
問いの意味は、少し曖昧だった。
けれど白瀬にはわかった。
湊が黒瀬を見ていること。
黒瀬が湊を待とうとしていること。
その間に自分がいること。
それについて、平気なのか。
白瀬はすぐに答えられなかった。
図書室の静けさが、少しだけ深くなる。
「……まだ、わかりません」
白瀬は正直に言った。
黒瀬は黙って待った。
その姿に、少し胸が温かくなる。
「でも、黒瀬さんが待てることは、良いことだと思います」
「それ、答えになってる?」
「半分くらいは」
「便利にした」
「はい」
黒瀬は少しだけ笑った。
けれど、笑ったあとも白瀬を見ていた。
逃げていいのに、逃げない。
それが黒瀬の最近の変化だった。
白瀬は少しだけ目を伏せた。
「黒瀬さん」
「何」
「私は、黒瀬さんと朝比奈くんの距離が近づいていることを、嬉しいと思っています」
黒瀬は固まった。
「でも」
白瀬は続ける。
「それだけではない気持ちも、少しあります」
「……うん」
「まだ、うまく言えません」
「言える時でいい」
黒瀬はすぐにそう言った。
前に言ってくれたのと同じ言葉。
白瀬は、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「普通に礼言うなって」
「本当なので」
「それはもういい」
黒瀬も少し笑った。
その日の夜。
黒瀬は湊の部屋へ行った。
カフェラテを両手で包みながら、少し考え込んでいる。
「白瀬と話した」
「図書室で?」
「うん」
「見せない一行のこと?」
「それも」
湊は少しだけ姿勢を正した。
黒瀬はカップを見つめる。
「白瀬、朝比奈の見せない一行、たぶん一番大切な一行だと思ってる」
湊の手が止まった。
「そう言ってた?」
「直接じゃないけど」
「そっか」
「何か、白瀬はわかってる気がする」
「うん」
「朝比奈があたしのこと書いたってことも」
「うん」
「それが、まだ見せられないくらい近いってことも」
湊は黙った。
黒瀬は少しだけ顔を赤くする。
「白瀬、平気じゃないかも」
「……そうか」
「でも、ちゃんと応援してくれるみたいな顔する」
「うん」
「それ、たぶん強いけど、痛いよね」
湊は黒瀬を見た。
黒瀬はクッションを抱え直す。
「白瀬、ちゃんと強いけど、傷つかないわけじゃないと思う」
その言葉は、黒瀬らしくないくらい丁寧だった。
いや、最近の黒瀬らしい言葉だった。
白瀬を見ているから出てくる言葉。
「うん」
湊は頷いた。
「そうだな」
「だから、朝比奈」
「うん」
「見せない一行、雑に扱わないで」
「扱わない」
「白瀬のことも」
「うん」
「あたしのことも」
「うん」
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
「あと、急がなくていい」
湊は息を止めた。
「ほんと?」
「ほんとは気になる」
「うん」
「でも、急がなくていい」
「ありがとう」
「普通に礼言うな」
「言いたかった」
「ずるい」
黒瀬は顔を赤くした。
けれど、逃げなかった。
白瀬は、湊の“見せない一行”を察した。
それが黒瀬へ向けられた、きっと大切な一行なのだと。
そして、自分の中にある小さな寂しさにも気づいた。
それでも白瀬は、黒瀬なら待てると言った。
その言葉を受け取った黒瀬もまた、誰かの痛みに気づけるくらい、少しだけ変わっていた。




