23. エピローグ:神々の盤面
時は西暦3500年。
天の川銀河のオリオン腕を二分する、広大な暗黒の宙域。
そこでは今、二つの巨大な星間文明による、宇宙の覇権を懸けた凄惨な殺戮劇が繰り広げられていた。
一方は、かつて地球という青い星から這い上がり、太陽系を完全に掌握した太陽系人類文明。
そしてもう一方は、人類よりも遥かに古い歴史を持ち、自らを宇宙の理の体現者、理体文明と自称する高次元種族の文明である。
戦況は、完全に泥沼の膠着状態へと陥っていた。
両文明の技術力は、三千年紀の半ばにおいて奇しくも拮抗していた。
双方が操る主力艦隊の巡航速度は光速の80パーセントに到達しており、相対論的な時間遅延と空間歪曲を駆使した神出鬼没の艦隊戦は、互いの母星系に決定的な打撃を与えることができず、ただ無為に星々と資源をすり潰し合うだけの消耗戦へと変貌していたのだ。
光速の80パーセントで飛び交う反物質兵器の閃光が、遠く離れた星雲を不気味に照らし出す中。
理体文明が誇る、次元の狭間に隠蔽された超時空観測ステーションの内部で、光の粒子の集合体として実体を結んだ人影、個体識別番号1658番が、ホログラムの戦況図からふっと視線を外し、人間のような芝居がかった溜息をついた。
「よう、2465番。お疲れ」
1658番は、隣に表れた同僚の光体に、軽い調子で声をかけた。
「ちょうど今、一つの過去の調整を終えて帰ってきたところさ。西暦2500年の地球圏……あの忌まわしい月面の地下へとね」
2465番と呼ばれた光体が、無邪気な声で応じる。
「そうか、2465番。あの野蛮な太陽系人類の過去干渉か。この膠着した戦況を打破するために、人類の過去に介入して技術的進化を遅らせる任務だったな。……で、標的であるあの時代の特異点の人物を物理的に消去してきたのか?」
「いやいや、そんな無粋で直接的な真似はしていないよ」
2465番は、クスクスと喉の奥で笑うような音の波形を響かせ、空中に西暦2500年の月面の映像を展開した。
そこには、レオンが、まさに今帰還してセリアとバルカスとともに抱き合っている姿が映し出されていた。
「彼らの脳髄が好む奇跡的な閃きに偽装して、彼の深層意識に少しばかり干渉してきただけさ。おかげでレオンは無事に、トポロジカル慣性共鳴則という極上の甘い果実を手に入れて、一兆トンの星を見事に持ち帰ったというわけさ」
2465番の光体が、激しく怪訝そうに明滅した。
「……正気か、2465番? 奴らの過去の偉業を妨害するどころか、手助けをしてどうする。わざわざ未成熟な文明に、絶体絶命の危機を乗り越えさせ、慣性共鳴則を完成させたというのか。それは彼らの進化を不必要に加速させ、現在の我々の首を絞めることにならないか?」
「逆だよ、完全に逆さ」
2465番は、まるで無知な実験マウスを観察するような、極めて冷酷で傲慢な視線をホログラムに向けた。
「レオン・ハルシュタットが無事にトポロジカル慣性共鳴則を手に入れて、それを文明の礎にしてしまえば……太陽系人類の文明進歩は、ここから絶望的なほどに遅れるんだよ」
「どういうことだ?」
「僕らの膨大な多次元データ・バンクを見れば明らかだろう? 宇宙の他の文明でも、文明の初期段階で慣性共鳴則という奇跡の技術に辿り着いてしまった種族は、例外なくそこからの発展が著しく遅滞しちゃうんだよ」
2465番は、手元で光速の限界を示す物理定数の数式を弄りながら、楽しげに語る。
「質量の慣性をゼロにして空間を滑る。一見すると究極の物理法則のように見えるだろう? けれどね、あの技術には、この宇宙の絶対的な物理制限による限界値が存在するんだ。……トポロジカル慣性共鳴則は、どんなに基礎理論を発展させ、どんなに莫大なエネルギーを注ぎ込もうとも、光速の1パーセントという速度の壁を、理論上絶対に超えることができないんだよ」
「……たった光速の1パーセント……!」
1658番が、その意味を理解して波形を震わせた。
「そう。現在の我々や奴らが当たり前のように操っている光速の80パーセントなんて次元には、あの技術ツリーをいくら伸ばしても永遠に届かないのさ」
2465番は、ホログラムの中で、再会に歓喜の涙を流すレオンとミナの姿を指差した。
「けれどね、西暦2500年の彼らにとって、あの技術はまさに麻薬さ。彼らはあんな魔法のような力で星を動かし、愛する者を救ったという強烈な成功体験を得てしまった。だからこそ、彼らは技術の真の進化は、慣性共鳴の延長線上にあると完全に勘違いしてしまう」
2465番の笑い声が、冷厳なステーション内に響き渡る。
「その結果どうなると思う? 彼らは最高でも光速の1パーセントしか出せないあの欠陥技術の改良ばかりに何百年もの膨大な時間と国家予算を注ぎ込み、それに固執するのさ。僕らが今使っているような、空間そのものを折り畳む真の量子重力推進や、高次元空間へのダイブといった光速の80パーセントに至るための正しい基礎研究を、完全に放棄してしまうんだよ。彼らが自分たちの進んでいる道が行き止まりだと気づく頃には、もう手遅れなのさ」
ホログラムの中では、レオンが最愛の妹・ミナと抱き合い、未来を勝ち取った喜びに涙を流していた。
そして月に目を向けると、一億人の市民が、永遠の酸素が約束されたと歓喜の声を上げている。
命を懸けて絶望を乗り越え、最高のハッピーエンドを勝ち取ったと信じて疑わない人間たちの、あまりにも美しく、そして滑稽な姿。
「彼らは今、自分たちの知恵と勇気で運命を打ち破り、人類の輝かしい未来を切り拓いたと信じ切っているだろうね」
2465番は、その大団円の光景を、ゴミでも払うかのように指先で弾いて消去した。
「けれども、その最高の成功体験と感動のドラマこそが、彼らの知性を未来永劫縛り付け、文明の進化を何百年も停滞させる、最も強固な呪いの鎖になるんだよ。……僕がそっと落とした小さな毒は、彼らの文明の根幹を静かに、しかし確実に腐らせていくのさ」
「……見事な盤上遊戯だ、2465番」
1658番の光体が、畏怖と感嘆の波形を示す。
「野蛮な太陽系人類は、自分たちの手で自分たちの首を絞めたというわけか。これほどの致命的な技術的遅滞を彼らの歴史に組み込んだのなら、現在の光速の80パーセント同士の混沌とした戦況も、根底から覆る」
「うん。過去改変の波及効果が現在の僕らの時間軸に完全に到達し、奴らの技術的停滞という結果がこの西暦3500年の戦場に上書きされるのは……そうだな、相対時間であと百年後くらいかな?」
2465番は、ホログラムのコンソールを静かにスリープ状態へと移行させた。
そして、消えゆくホログラムに広がるちっぽけな太陽系と、そこで無知のまま奮戦を続ける人類の艦隊を見下ろし、酷薄な、あまりにも絶対的な支配者の笑みを浮かべた。
「まぁ、のんびり待とうよ。僕らにとって、百年なんてあっという間だからね」
2465番の無邪気な声が、虚空に溶けていく。
「あとたった百年待てば、間違った進化の袋小路で立ち止まり、我々よりも数百年遅れた旧式の艦隊へと成り下がった奴らを、僕たちが赤子をひねるように圧倒して、完全に蹂躙できるよ。……太陽系人類の命運は、あの西暦2500年の奇跡の帰還の瞬間に、すでに尽きたのさ」
二つの高次存在の光体は、無機質な静寂の中で、ゆっくりと明滅を繰り返した。
一億人の命と愛する者を救うために、血反吐を吐いて奇跡を成し遂げた英雄たちの物語。
だが、その美しい栄光の陰で、真の宇宙の支配者たちが、千年後の完全なる殺戮へ向けて、静かに、そして冷酷に時計の針を進め始めていた。




