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14. 試練再び

月を出発してから、十一ヶ月半が経過していた。


第七重工業区画の地下管制室。ホログラム・モニターには、数億キロの彼方で繰り広げられる二隻の船のランデブーのテレメトリが、極限の緊張感と共に表示され続けている。


地球圏からの光の通信タイムラグは、現在片道で二十八分。俺たちが見ている映像は、すべて三十分以上も前の過去だ。


俺は脳波デバイスを通じて、月のメインフレームから二十八分前の過去へ向けて祈るように推移を見守った。


事前の膨大な計算と予測プログラムの送信はすべて完了している。


あとは、数億キロ彼方の真空空間で、二隻のローカルAIが、俺たちの引いた軌道をどれだけ正確にトレースできるかにかかっていた。


「ヘイムダル、アトラスの進行ベクトルに完全同期。加速量を調整」


セリアがコンソールに張り付き、血走った目で数値を追う。


「両艦の距離、残り一万キロ。アトラスの相対接近速度、秒速五十キロ……三十キロ……十キロ。……あと百二十秒で、アトラスがヘイムダルに背後から完全に追いつくわ!」


「ヘイムダルのV7エンジンの推力、微調整に入る。相対速度をゼロに合わせるぞ」


複数の立体モニターに映し出される先行観測プローブ、ヘイムダルから届く映像。


ヘイムダルの後方カメラが捉えた漆黒の宇宙空間に、火星での死闘の傷跡を痛々しく残した牽引艦本隊アトラスの巨大な姿が、無音で、だが圧倒的な威圧感を持って迫ってくる。


剥き出しのコアフレーム。大気圏スレスレで焼け焦げた装甲ブロック。満身創痍の五万トンの巨獣が、恐ろしいほどの速度でヘイムダルの背後に迫り、画面全体を覆い尽くさんばかりに巨大化していく。


五万トンの巨獣と、数百トンの小舟。


本来なら一瞬ですれ違い、あるいは激突して木っ端微塵になるはずの二つの質量体が、セリアの軌道計算によって、同調を見せようとしていた。


「……相対速度差、秒速百メートル……十メートル……一メートル!」


セリアの声が裏返る。


「スピード・マッチング、完了! 両艦の相対速度、完全にゼロ!」


「よし! ヘイムダルの姿勢制御スラスターを起動、アトラスの機首ドッキング・ポートへ接合ドッキングさせる!」


俺は拳を握りしめ、次のシーケンスのテレメトリを睨みつけた。


アトラスの機首には、小惑星に撃ち込むための巨大なエミッターの基部が備わっている。


そこへ、ヘイムダルの尾部を強引に噛み合わせ、五万トンの巨体を減速させるための外付けブレーキとして機能させる計画だ。


「ドッキング時に衝撃を与えるな。バルカス、ラッチの応力分散アルゴリズムの最終確認を頼む。五万トンの巨体にヘイムダルの逆噴射推力を伝達するんだ、ジョイントが少しでも歪めばヘイムダルが押し潰されるぞ」


俺の言葉に、バルカスが手元のコンソールを弾く。


「任せとけ。アトラスの機首装甲は俺が組んだチタンとナノカーボンの複合フレームだ。ヘイムダルの推力を船体全体へ逃がすように、ラッチの電磁応力を最大出力に設定して……」


バルカスの言葉が、不自然に途切れた。


「……おい、嘘だろ」


彼の巨体が凍りついたように硬直している。バルカスの血走った両眼は、ヘイムダルの高解像度カメラが至近距離から捉えた、アトラスの機首部分の映像に釘付けになっていた。


「どうした、バルカス!?」


「アトラスのドッキング・ハッチが……完全にひしゃげてやがる!!」


「なんだと!?」


俺は映像を極限まで拡大し、解像度を上げた。


アトラスの機首、ヘイムダルを受け入れるはずの強固なドッキング・ポート。


だが、その分厚いチタン合金のジョイントリングは、内側にグシャリとひどく潰れ、電磁ラッチの噛み合わせ部分が完全に歪んでしまっていた。


本来、絶対的な真円を描いていなければならない接合面が、まるで巨大な見えない手で捻り潰されたかのように変形している。


「どうしてこんなことに!? あそこは絶対に歪まないように応力分散フレームを組んでいたはずだ!」


俺はデータログを猛烈な勢いで遡った。デブリの直撃か? いや、そんな記録はない。


「……火星での、あの限界突破のロング・バーンだ」


バルカスが苦虫を噛み潰したような顔で、ギリッと奥歯を鳴らした。


「あの時、外装ブロックがの一部が未完成の剥き出し状態で、V7エンジンが自らを吹き飛ばすような爆発的推力を出した。コアフレーム自体はなんとか耐え抜いたが、その凄まじい推進エネルギーの衝撃波と縦揺れの応力がフレームを伝わって、推進軸の最先端……つまり機首のジョイント部分に集中して抜けやがったんだ!」


「船体全体がたわんで、機首のハッチで位相が合って歪んだって言うの!?」


セリアが悲鳴に近い声を上げる。


「あの歪みじゃ、ヘイムダルのドッキング・プローブは絶対に刺さらねえ!」


バルカスの巨体が震える。


「無理に押し込んでも密閉できないし、何より五万トンの巨体を減速させる強大な推力を均等に伝達できない! ブレーキをかけた瞬間にジョイントが滑って、ヘイムダルがアトラスの装甲に激突して木っ端微塵だ!」


管制室に、再び絶望の沈黙が降りた。


アトラスとヘイムダルは今、相対速度ゼロで宇宙空間に並走している。だが、物理的に繋ぎ止める鍵穴が壊れていたのだ。


「ロボットを使ってアトラスのハッチを切り落とし、ジョイントを再形成する時間は!?」


俺が叫ぶ。


「無理だ!」


バルカスが即座に否定する。


「ロボットでのプラズマトーチの出力じゃ、あの分厚いチタン合金の装甲を切り裂いてハッチ形状に研磨するのに三週間はかかる! 減速のタイミングに絶対に間に合わねえし、応力で強度が落ちてるから逆噴射のGに耐えられるかも分からん!」


「ラッチを無視して、機首の装甲の平らな部分に直接押し当てて逆噴射することは!?」


「五万トンの質量を止めるだけの推力だぞ! 正規の応力分散ジョイントを通さずに力任せに押し付ければ、さっきも言ったがヘイムダルの小さな船体は一瞬でペシャンコに潰れて終わりだ!」


「じゃあどうするのよ! このままじゃアトラスは止まれないわよ!」


セリアが頭を抱え、コンソールに突っ伏した。


「イカロス・テンに向けた減速のタイムリミットがあるのよ! このまま止める方法がなければ、五万トンのアトラスはそのまま目標を素通りして、永遠に宇宙の彼方へ消え去るわ!」


俺は血走った目で、アトラスのひしゃげた機首の映像を睨みつけ続けた。これまでの壁をすべてを乗り越えてきたのに、最後の最後に接続できないという物理的な壁が立ち塞がった。


他にドッキングできる部分は……。ひしゃげた外装ハッチ。歪んだメインフレーム。……だが、俺の視線が、アトラスの複雑な構造図の、ある一点でピタリと止まった。


「……バルカス。アトラス内部に仮固定されている、あの巨大なコンテナ群」


俺は震える指でホログラムを指差した。


「あの中の、自己増殖型ナノマシンの素体コアプールを収めたモジュール。……あそこのパージ用ジョイントの規格はどうなっている?」


バルカスが一瞬怪訝な顔をしたが、即座に設計図のインベントリを呼び出した。


「ナノマシンのコア? ああ、あそこは万が一の時に素体だけを緊急パージするためと、月面からマスドライバーで射出する際にカタパルトと直接結合するための高強度汎用ジョイントを備えているが……それがどうした?」


「その汎用ジョイントの規格は、ヘイムダルの機首にあるセンサーアレイのマウント規格と完全に一致しているんじゃないか?」


俺の言葉に、バルカスが目を見開いた。


「……確かに、元々は同じ規格のパーツを流用して組んだが……まさか、お前」


「アトラスのひしゃげた機首ごとドッキングするのは諦める!」


俺は猛烈な勢いでコマンドを構築し始めた。


「アトラスの船外ロボット群を使って、装甲の電磁ラッチを物理的にこじ開けし、中からナノマシンの素体コアだけを丸ごと引っこ抜くんだ! そして、それをアトラスの船体から完全に分離し、ヘイムダルの機首に直接ドッキングさせる!」


「アトラスを捨てるってこと!?」


セリアが弾かれたように顔を上げた。


「そうだ! ひしゃげたアトラスにドッキングできない以上、五万トンの船体ごと減速させることは物理的に不可能だ。だったら、計画の本質だけを救い出す!」


俺は熱を込めてホログラムを操作した。


「俺たちの最終目的は、新しい目標である小惑星イカロス・テンの慣性を相殺し、重力の坂道を転がしてみせることだ。そのために絶対に必要なのは、アトラスという巨大なドンガラじゃない。トポロジカル慣性共鳴則を実行するためのナノマシンと、そのコアだけだ!」


バルカスの顔に、血の気が戻っていく。


「……数百トンのコア単体なら、ヘイムダルのジョイントでもV7エンジンの推力で安全に減速できる!」


「その通りだ! ヘイムダル単独でイカロス・テンに到達し、ナノマシンを小惑星に打ち込み、慣性制御の実験を行う!」


「物理的には成立するわね……」


解決の糸口が見えた。そう思った直後だった。


セリアが致命的な欠陥を瞬時に指摘する。


「……でもね。ダメよ」


バルカスが怪訝な顔をする。


「どうした、セリア?」


「アトラスを捨てるということは……アトラスのメインバンクに組み込まれているトポロジカル慣性共鳴則を行うためのナノマシンの精密制御部も、一緒に捨てるということよ」


その言葉に、俺は息を呑んだ。


空間の慣性をゼロにするトポロジカル干渉。それは、小惑星の不均一な内部構造に合わせて、ナノマシンの幾何学トポロジーをコンマミリ秒単位でリアルタイム制御し続けなければならない、極めて繊細で複雑怪奇な技術だ。


その膨大で緻密な計算とフィードバック制御を担っているのが、アトラスの船体深部に鎮座する巨大な専用の精密制御ユニットだった。


「ヘイムダルは、純粋な観測プローブなのよ……」


セリアが絶望的な声で呟く。


「搭載されているのは、小惑星を解析するためのセンサー群と、そのデータを処理するための頭脳だけ。ナノマシンのカオスな位相を精密に制御して書き換えるための専用ハードウェアなんて、どこにも積んでないわ……」


俺はギリッと奥歯を噛み鳴らした。


ナノマシンのコアだけを持ち出せても、それを正しく制御できなければ、小惑星の慣性を相殺することはできない。


制御を失ったナノマシンを起動すれば、一瞬で位相がズレて重力波が逆流し、イカロス・テンもろとも対消滅を引き起こして宇宙の塵になる。


「……ヘイムダルの頭脳に、制御プログラムを強引にインストールできないのか?」


バルカスが喉を詰まらせながら聞く。


「無理だ」


俺は即答する。


「ソフトウェアの問題じゃない。ナノマシンの展開パターンをリアルタイムで同期させるには、ヘイムダルの観測用回路じゃ、帯域が足りずに演算しきれない」


アトラスの巨大な船体をそのまま減速させることは不可能。


ナノマシンのコアだけを取り出してヘイムダルに繋ぎ、アトラスのドンガラを捨てて身軽になれば、確実な減速と小惑星の捕獲は可能になる。だが、その代償としてナノマシンを制御する頭脳を失う。


管制室に、重く冷たい沈黙が落ちた。 片道二十八分の光の壁の向こうで、アトラスとヘイムダルは相対速度ゼロで並走し、俺たちの決断を待っている。


「……じゃあ、どうするんだよ」


バルカスが、祈るように俺を見た。


「アトラスと無理やりドッキングして両方とも木っ端微塵になるか、ここで全てを諦めるか。……他に選択肢なんてないじゃない……」


セリアの吐き出すような呟きを聞きながら、俺はコンソールの縁を強く握りしめ、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。


そして、狂気と絶望の狭間で、俺はたった一つの、しかし最も忌まわしい禁じ手を口にした。


「……ヘイムダルに精密制御機能がないなら、俺がやる」


「……はい?」


セリアが眉をひそめる。


「この月の地下管制室から、地球圏のメイン演算回路を使って、俺自身が直接ナノマシンを制御する」


「……何を言ってるの!?」


セリアが悲鳴のような声を上げた。


「月とイカロス・テンの距離じゃ、光の通信タイムラグは片道三十三分よ! 往復で一時間以上! そんな遅延の中で、コンマ一秒の位相ズレが命取りになるトポロジー制御を、遠隔操作でやるっていうの!?」


「他に方法がないんだ!!」


俺は血走った目でセリアを怒鳴りつけた。


「アトラスの精密制御部はもう使えない! ヘイムダルにも積んでいない! なら、俺の脳波を直接月のメインフレームに繋いで、三十三分遅れで届くイカロス・テンのフラクタル構造のデータを見ながら、一時間六分後の未来のカオスの揺らぎを完全に予測して、ナノマシンの展開プログラムを先回りで送信し続けるしかないんだ!」


「不可能だ、レオン!」


バルカスがコンソールを叩き割らんばかりの勢いで怒鳴る。


「お前自身が議会に言ったじゃないか! 小惑星の構造は未知のカオスだ! 一時間以上も前のデータを見て、リアルタイムの位相を合わせるなんて無茶苦茶だ!」


「無茶じゃない! ヘイムダルがこの一ヶ月半かけて解析したイカロス・テンの遠隔解析データがある!」


俺は凄まじい勢いで反論した。


「そのマップと、ここのメイン回路の予測アルゴリズムと、状況に合わせて書き換える俺の脳を極限まで同期させれば、一時間後のカオスの揺らぎを先読みしてコマンドを叩き込むことは可能だ! ……いや、可能にしてみせる!」


「途中で計算が破綻したら、対消滅を起こしてヘイムダルもろとも終わりよ!一時間後を予測するなんて、耐えられる演算量じゃないわ!」


「星を動かす大勝負だ!」


俺は両手でコンソールを強く叩いた。


「失敗すれば宇宙の塵だ。だが、やらなければ三十年後に月は死ぬ!これしか手はない!」


俺の狂気に満ちた眼差しと、決して退かない覚悟を見て、セリアは息を呑み、そしてゆっくりと手を離した。 バルカスも、俺の決意の重さに圧倒され、無言でコンソールに向き直った。


「……いいわ。あんたのそのイカれた執念には呆れて言葉も出ないわ」


セリアは深くため息をつき、そして不敵な笑みを浮かべた。


「三十三分遅れの遠隔トポロジー制御。その絶望的な未来予測モデルの構築、私の軌道計算もフル稼働でサポートしてあげる!」


「分かった。じゃあまずはこいつの回収からだな」


バルカスも、飽きれた笑みを浮かべて空間キーボードを叩き始めた。


「よし、コマンド・パッキング完了! 送信センド!!」


俺は、三十三分後の未来へ向けて、祈るような思いで実行コマンドを叩いた。


光の速度と時間という絶対的な壁に、人間の知性と狂気で挑みかかる。一億人の命と、ミナの未来を賭けた最後の、そして最も絶望的な闘いが始まる。

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