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13. 夢

火星の大気圏スレスレで軌道をもぎ取ったあの一瞬の出来事から、第七重工業区画の地下管制室には、重く冷たい絶望が横たわっていた。


月を出発してから九ヶ月。


ホログラム・モニターには、火星の重力アシスト(スイングバイ)で得た莫大な周回加速によって、アステロイド・ベルトへと真っ直ぐに突き進む五万トンの牽引艦本隊アトラスの軌跡が赤く表示されていた。


だが、その推進部を示すデータは、無慈悲な結果を告げている。


「アトラスの現在の絶対速度、秒速三万キロ……。間違いなくアステロイド・ベルトには到達できるわ……。でも」


セリアが、血の気の引いた顔でテレメトリを見つめる。


「減速するためのV7(第7世代・核融合熱推進)エンジンが完全に死んでいる。ブレーキの壊れたダンプカーよ。目的地であるセレス・マイナーに辿り着いたとしても、その絶望的な速度のまま星の横を素通りして太陽系の外縁へ消え去るか……激突して五万トン分の運動エネルギーを撒き散らす宇宙の塵になるか。……どっちにしても、ここで終わりね」


バルカスが巨体を椅子に沈め、両手で顔を覆った。


「……大気圏スレスレの限界突破と、質量パージの反作用だ。コアフレームは保ったが、プラズマ点火チャンバーの隔壁が完全に融解。これは航行中の建造用ロボット群で直せるレベルの損傷じゃねえ。あれはもう、ただの鉄の塊だ」


アトラスのエンジンを遠隔で修理することは不可能。


残存する微細な姿勢制御スラスターの推力では、五万トンの運動エネルギーを相殺するのに数百年はかかる。


俺たちの神技のプログラムも、物理的なブレーキの喪失という絶対的な現実の前には無力だった。


「……打つ手なしか」


俺は絶望の中、コンソールから手を離した。


十八ヶ月という議会の狂気じみた期限。


俺たちはその不可能を可能にするため、すべてを極限まで削ぎ落とし、最短最速の最適解だけを組み上げてきた。


だからこそ、バックアップという概念がこの計画には決定的に欠落していたのだ。


絶望的なこの状況で、誰の口からも解決策は出なかった。管制室には重苦しい諦めムードが完全に漂い始めていた。


「……すまない、少し頭を冷やしてくる」


俺は誰の顔も見ず、重い足取りで第七重工業区画の地下管制室を後にした。


鉄と油の臭いが染み付いた重厚な防爆扉が背後で閉ざされると、残されたのは耳鳴りがするほどの完全な静寂だった。エレベーターホールに向かう俺の足音だけが、無機質な冷たい廊下に虚しく響く。


火星の大気圏スレスレを跳躍するという、針の穴を通すような神技の軌道修正。


あの奇跡的な生還の代償として、五万トンの牽引艦本隊アトラスは、自らを減速するためのブレーキを完全に失った。今この瞬間も、秒速三万キロという絶望的な速度で星の海を暴走し続けている。


ミナのいる居住区の最上層へと向かう専用エレベーターの中で、俺の心は鉛のように重く、そしてひどく冷え切っていた。


計画の失敗。


それは、月全体の酸素が三十年後に完全に尽きるという、覆しようのない滅びの未来の確定を意味する。


一億人の命はおろか、俺はたった一人の妹すら救えなかったのだ。その圧倒的な絶望と自らの無力感を、彼女にどう伝えればいいのか。


静寂が支配する居住区画。医療グレードの部屋の前に立ち、冷たい金属の気密ドアに手をかける。


深呼吸を一つし、無理に表情の筋肉を引き上げてから、ドアを開けた。


微かなオゾンの香りと共に、ベッドに身体を起こしているミナの姿があった。


俺の顔を見るなり、彼女の透き通るような青白い頬にパッと赤みが差し、表情が花のように明るくなった。


「お兄様! ずっと地下にこもりきりだって聞いてたから、心配してたのよ!メッセージも見てないようだし」


「ミナ……。随分と顔を出せなくてすまなかった」


俺は努めて穏やかな声を作り、ベッドの傍らに腰を下ろした。


そして、シーツの上で弱々しく組まれた彼女の手を握る。驚くほど冷たいその指先が、彼女の命の脆さを痛いほど俺に突きつけてくる。


俺の幽鬼のような顔色と、深く沈んだ瞳を見た瞬間、彼女の笑顔はスッと消え、不安げに俺の手を強く握り返してきた。


「お兄様、手が氷みたい……。すごく疲れた顔をしてる。それに、その目……。何か、あったのね」


ミナの澄んだ瞳を見て、俺は誤魔化すことなどできなかった。


「……ああ」


俺は言葉を詰まらせながら、目を伏せた。胸の奥底から、血を吐くような懺悔の言葉が漏れ出す。


「セレス・マイヤーへ向かわせた艦のエンジンが壊れた。火星付近でトラブルがあって、その代償で減速する手段を完全に失ったんだ。船を直すことも、止めることもできない。俺の計算が甘かったんだ……このままじゃ、計画は失敗する。君を……君の未来を、守れなかった」


吐き出した瞬間、俺の胸に重くのしかかっていた張りが千切れ、底知れぬ無力感が全身を支配した。


俺は彼女が泣き出すか、あるいは静かに絶望して生きる気力を失うのを覚悟していた。


いっそ、無能な兄を罵倒してくれた方が楽だったかもしれない。


だが、ミナは俺の手を両手でぎゅっと包み込み、静かに俺の頭を引き寄せて、その柔らかな指先で優しく髪を撫でた。


「お兄様」


ミナの声は、驚くほど穏やかで、春の日差しのように温かかった。


「謝らないで。お兄様がどれほど無茶をして、どれほど恐ろしい暗闇の中にいたのか、私にはちゃんと分かっているわ」


彼女の温かい涙が一滴、俺の頬に落ちる。


「……失敗したっていいのよ。三十年後に酸素が尽きるのなら、質素に暮らせばいいの。きっとみんな今の生活を改めなきゃいけないって、分かってくれるわ。私はお兄様がこうして私のそばに、生きて帰ってきてくれただけで、十分なの」


「ミナ……」


俺は彼女の無償の愛情と優しさに胸を締め付けられ、奥歯を強く噛み締めた。


俺が必死に守ろうとしていたものは、三十年後のエネルギー維持という物理的な数字だったが、彼女が求めていたのは、ただ兄がそばにいるという確かな温もりだけだった。


「そんな悲しい顔しないで。お兄様は、私の一番の自慢のお兄様なんだから」


ミナは涙を拭い、少しでも俺を元気づけようと、ふんわりと微笑んだ。


「ねえ、お兄様。私、昨日の夜、とっても楽しい夢を見たのよ」


「夢……?」


俺はゆっくりと顔を上げた。この絶望的な状況で、彼女の健気な優しさがひどく胸に痛い。


だが、俺は黙って彼女の言葉に耳を傾けた。


「うん。私ね、夢の中で、とってもすばしっこい白ウサギを一生懸命追いかけて走っていたの」


ミナは少し懐かしむように虚空を見つめて話を続ける。


「私も、夢の中だからすごく速く走れて。ウサギを捕まえようとして、夢中で野原を全力で走っていたのよ、ふふっ」


心から楽しかったように笑う。


「でもね、足元にあった石につまずいちゃって……あ、転ぶ!って思って、ギュッと目をつぶったの」


俺は彼女の細い手を握り直した。


「そうしたらね、お兄様がすかさず手を伸ばして、倒れる寸前の私を抱きとめて助けてくれたのよ。おかげで怪我一つしなかったわ。お兄様は夢の中でも、ちゃんと私を守ってくれるのね」


ミナは無邪気に笑い、俺の手をぎゅっと握りしめた。


ミナの何気ない、俺を気遣って話した優しい夢の光景。


俺は力なく微笑み返し、彼女の頭を優しく撫でた。


「……そうか。夢の中でくらい、君の役に立てたなら良かったよ」


その優しさに耐えられなくて、その場に長くはいられなかった。


彼女の優しさが、俺の不甲斐なさを浮き彫りにするようで、居たたまれなかったのだ。


俺たちは互いの体を心配し合い、痛みを共有し合うような言葉を交わした後、俺は逃げるようにしてミナの部屋を後にした。


……気密ドアが閉まり、一人になった無機質な白い廊下で、俺は重い溜息をついた。


すべてが終わりだ。三十年後の窒息を待つだけの、緩やかな絶望の日々が始まる。


重い足取りでエレベーターに向かいながら、俺の頭の中に、先ほどのミナの夢の話が気になってふと蘇った。


『ミナがウサギを夢中で追いかけていたら、足元の石で転びそうになっても、すかさず俺が手を伸ばして、助けた』


ただの他愛のない夢の話だ。


物理法則など存在しない、彼女の無意識が作り出した幻覚。


だが、限界まで疲弊しきっていても、俺のエンジニアとしての論理的思考回路が、なぜかその状況に違和感を持った。


「……ミナは全力で走っていた。俺はそれを、転ぶ寸前にすかさず手を伸ばして、助けた……?」


俺は立ち止まった。


もし俺が彼女を見守っていただけなら、全力で走っている人間を助けられるわけがない。


倒れる瞬間、俺がミナを後ろから追いかけたとしても、彼女がバランスを崩したその瞬間に”すかさず”追いついて抱きとめることは、反応速度的にも物理的にも不可能だ。


夢の中とはいえ、運動エネルギーに逆らわず安全に、そして咄嗟に抱きとめるための、唯一の物理的な正解。 それは――


「……ああ、そうか。俺はミナのすぐ隣で、彼女と同じスピードで一緒に走っていたんだな。じゃないと、咄嗟に腕を掴んで助けることなんてできない」


その瞬間。


俺の脳の深淵で、絶望の泥に沈みかけていたニューロンのネットワークが、数億ボルトの閃光を放って一本の極太の光の筋へと繋がった。


「まてよ……。そうか、その手があった!相対速度をゼロにして、五万トンの鉄塊を掴めばいいじゃないか!」


俺は、雷に打たれたようにその場に立ち尽くし、そして次の瞬間、喉の奥から獣のような笑い声を漏らした。


さっきまでの絶望と無力感が嘘のように吹き飛び、全身の細胞が歓喜で打ち震え、エンジニアとしての熱い血が再び脳を沸騰させている。


「……なんでこんな、物理の基本中の基本である相対力学の概念に気づかなかったんだ!!」


俺は踵を返し、気密ドアを乱暴に開け放ってミナの部屋へと駆け込んだ。


「お兄様!?」


驚いて目を丸くするミナの両肩を掴み、俺は笑い出した。


「ミナ! 君の夢は最高だ! 君の見たウサギが、星を救う鍵だ!」


俺は彼女の額に強くキスをし、再び気密ドアへ向かって駆け出した。


「必ず、君の未来を繋いでみせる!」


「あ……お兄様……!」


バタン、と重い気密ドアが閉まる音が、静かな部屋に響いた。


取り残されたミナは、宙に浮いたままの自分の手を見つめ、寂しげな微笑みを浮かべた。


「……やっぱり、お兄様の頭の中は、私よりもお仕事の数式でいっぱいなのね」


彼女は自分の額に残る温もりに触れ、ポツリと呟いた。


兄が絶望から立ち直り、再び目に光を取り戻してくれたのは心から嬉しい。


けれど、彼女はどうしようもない孤独と一抹の寂しさを感じていた。


「でも……お兄様が諦めないなら、私はここで待つしかないわ……」


彼女はシーツを握りしめ、静かに目を閉じた。


俺はエレベーターを地下深層へと急降下させ、管制室の扉を蹴破るようにして飛び込んだ。


「セリア! バルカス! アトラスを止める方法が見つかった!」


俺はコンソールに飛びつき、猛烈な勢いで軌道図を展開した。


「アトラスのエンジンが死んで自力で減速できないなら、別の船を使って外からブレーキをかければいい! 先行している観測プローブ、ヘイムダルを使ってな!!」


俺の言葉を聞いた二人の顔から、瞬時に諦めの色が消え去った。


彼らは、即座にその提案の実現可能性を猛烈な勢いで脳内で弾き出し始めた。


「ヘイムダルをアトラスに向かわせて逆噴射の動力源にする気ね!その手があったわ!」


セリアが瞬時に意図を理解し、コンソールを叩いてヘイムダルのスペックを呼び出す。


「現在セレス・マイナーで解析中のヘイムダルには、完全な状態のV7エンジンが積まれている。推力重量比はアトラスの百倍以上。……アトラスに追いつく動力源としては申し分ないわ」


「そうだ! ヘイムダルを外付けのブレーキとして使う!」


俺は二つの機体が宇宙空間でランデブーする全く新しい軌道を引いた。


「アトラスの現在の位置と、ヘイムダルの位置の中間地点へ向けて、ヘイムダルをまずは到達させる!」


「そこからヘイムダルをまた戻すのね!」


セリアの目が、ホログラムの軌道予測を鋭く追う。


「ああ!」


俺の指先が、空間にUターンの数式を描き出す。


「中間地点に到達したら、そこからヘイムダルをUターンさせるんだ!Uターンしたヘイムダルを、アトラスが進む全く同じ軌道上に乗せる。この時点では、アトラスはまだまだ後方から猛スピードで追いついてきている状態だ。そこからヘイムダルは、徐々にアトラスの相対速度に追いつくよう加速させていく!」


バルカスが身を乗り出し、構造データを展開する。


「逃げながら加速する数百トンのヘイムダルに、火星で加速した五万トンのアトラスが後ろから追いついてくる。その追いつくタイミングで、両者の速度差を完全にゼロに合わせるんだな!」


「その通りだ! アトラスより圧倒的に質量の小さいヘイムダルなら、アトラスの絶望的な速度にも余裕で追いつける。そして完全に横並びになることが可能だ!」


俺は声を張り上げた。


「相対速度をゼロにして、二隻を物理的にドッキングさせる! その後、ヘイムダルのV7エンジンをアトラスの推進軸と完全に同期させて、全力でブレーキをかける!」


バルカスがジョイント部の強度計算を猛烈な勢いで始める。


「アトラスの機首の装甲ブロックを即席のジョイントにする。ヘイムダルの推力を五万トンの巨体に伝達するんだ、中途半端な接合じゃヘイムダルがひしゃげるぞ。応力分散のアルゴリズムを書き換える!」


セリアは凄まじい速度で軌道計算のパラメーターを組み替えていく。


「ヘイムダルの軌道を再計算するわ! セレス・マイナーから離脱させて、アトラスとの中間地点へ向かわせるパスを引くわよ!」


管制室は一瞬にして、絶望のどん底から、時間と物理法則に対する極限の闘技場へと変貌を遂げた。


だが、セリアの弾き出した軌道図を見て、俺たちのタイピングの手がピタリと止まった。


「レオン、問題が一つあるわ」


セリアが赤いエラー表示を指差す。


「アトラスは火星での変則的な回避マニューバで、予定していた軌道から大きく逸れているわ。エンジンが生きていれば航行中に推力で余裕で補正できたけど、今は無理。……アトラスの現在のズレた慣性軌道の延長線上でヘイムダルをドッキングさせ、減速した場合……」


軌道図のシミュレーションが弾き出した最終停止位置は、当初の目標であったセレス・マイナーからは数百万キロも離れた、全く別の宙域だった。


「完全に停止できる座標は、セレス・マイナーとは程遠いわ。ヘイムダルの加減速推力が足りないからじゃない。アトラスが現在乗っているレールそのものが、当初の小惑星から大きくズレてしまっているのよ。……つまり、目標の小惑星を、変えるしかない」


「……この期に及んで、ターゲットを変更するのか」


「ええ。アトラスの現在の修正軌道の延長線上で、ドッキング後にヘイムダルの推力で停止可能な近傍に、条件を満たす別の小惑星を今から探し出さなきゃならないわ」


セリアは凄まじい速度で天体データベースをスクリーニングし、一つの岩塊をハイライトした。


「あったわ。アトラスの修正軌道の終点近傍を公転しているC型小惑星イカロス・テン。推定質量一兆トン。構成成分も申し分ない。ここを新しいターゲットに再設定するわ!」


「待てよ!」


バルカスが鋭く指摘する。


「ヘイムダルはこの三ヶ月間、セレス・マイナーの解析に掛かり切りだったんだぞ! ターゲットを変えれば、これまで蓄積したトポロジカル構造のデータが全部パーになる! 新しい小惑星の内部構造を一から解析し直す時間が、俺たちに残されているのか!?」


「間に合わせる!」


俺はコンソールに向かい、両手を強く握りしめた。


「ヘイムダルがセレス・マイナーを離脱して、アトラスとの中間地点にたどり着くには二ヶ月半、そこからイカロス・テンへ連れていくためには、更に二ヶ月半!」


「ええ、アトラスの現在の位置から逆算すると、ヘイムダルが中間地点へ着くのはちょうど二ヶ月半になるわ」


セリアが即座に計算を裏付ける。


「ヘイムダルは今すぐセレス・マイナーの解析を破棄し、アトラス救出へ向かわせる。イカロス・テン到着時点で、議会のタイムリミットまで残り四か月ある」


「残り四か月でイカロス・テンの解析が間に合うのかよ!?」


バルカスが叫ぶなか、セリアのタイピング速度がさらに一段階跳ね上がる。


その顔には、最高に知的な笑みが浮かんでいた。


「幸いイカロス・テンの座標ならヘイムダルの遠隔スキャンがギリギリ届くわ!これから先、アトラス救出作戦含めてイカロス・テンの遠隔解析を常に行わせる!」


俺たちは再び、時間と物理法則に対する、狂気じみた極限の闘いへと身を投じる。


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