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11. 試練

二隻の船が星の海へと放たれてから、九ヶ月が経過していた。


先行観測プローブ、ヘイムダルは、月面管制にいる俺たちの期待を裏切ることなく、一糸の乱れもない完璧な巡航で深宇宙を直進し、予定通り六ヶ月目に無事セレス・マイアーへ到達。


現在は三ヶ月分の解析データを既に月のメインフレームへ送信していた。


俺たちの眼球は極めて順調に解析を進めていた。


……だが、問題はもう一隻の方だ。


五万トンという絶望的なデッドウェイトを背負った牽引艦本隊アトラス。


重力アシストのスイングバイを利用するため、火星のすぐ近くまで来ていた。


長大な低エネルギー軌道を這うように進むその巨大な船体表面では、いよいよ宇宙空間での航行中建造が最終段階に来ていた。


第七重工業区画の地下管制室。ホログラム・モニターには、アトラスの船外カメラが捉えた映像が映し出されている。


青白いプラズマを吹き出しながら定常加速を続けるコアフレーム。


その周囲を数十機の多脚型自動ロボットが蜘蛛のように這い回り、残り少なくなったワイヤーで剥き出しに仮固定されていた装甲ブロックや機材を次々と解き放っては、正規の接続ポートへと溶接していく。


「第二から第五ブロックの外部装甲、定着率85パーセント。応力の分散アルゴリズムは正常に機能している。宇宙空間での分子定着は問題ない」


俺はコンソールのデータを睨みながら、乾いた唇を舐めた。


「ロボット共の溶接シーケンスも順調だ。これなら火星のスイングバイ・ポイントに到達するまでに、外殻は組み上がるぜ」


バルカスが、疲労の色が濃い顔に獰猛な笑みを浮かべた。


定常加速中に船の形状が変わり、重心が移動し続けるという、物理法則への狂気じみた挑戦。


そのズレを、セリアがリアルタイムの軌道計算で相殺し、俺の組んだソフトウェアがエンジンの噴射角を微調整することで、アトラスは奇跡的なバランスで航行を続けていた。


だが、宇宙は人間の傲慢な計算を、いとも容易く嘲笑う。


「……次、外郭はこれが最後だ。エミッターを支えるメインアームの正規マウントへ移行する。重量三百トン。ロボット群、仮固定の電磁ラッチ解除」


俺がステータスを読み上げ、コマンドを送信した。


数分の光の通信タイムラグの後、モニター越しのロボットたちが、宇宙空間に剥き出しで固定されていた、最後の巨大なメインアームに取り付き、太いワイヤーのロックを外した。


その直後だった。


警告アラート。船体外周で微細な運動エネルギー干渉を検知。メインアーム周辺』


無機質なシステム音声が鳴り響いた瞬間、ホログラム・モニターの映像が激しく乱れた。


「何が起きた!?」


俺は即座に映像を解析フィルターに通した。


モニターに映し出されたのは、ロボットがメインアームのワイヤーを外し、正規のジョイントへ移動させようと持ち上げた瞬間の映像だった。


その無防備なアームの端に、直径数センチにも満たない微小な宇宙塵マイクロ・デブリが、相対速度秒速数万キロで直撃したのだ。


装甲板越しなら弾き返せた程度の小石。


だが、固定が解かれた直後の重量三百トンの構造物を保持していたロボットにとっては、最悪のタイミングでの致命的な一撃だった。


デブリの運動エネルギーをまともに食らったロボットは、姿勢制御を完全に喪失し、アームのバランスが崩れる。


俺の目の前で、三百トンの質量がアトラスの船体から分離した。


「メインアームが脱落した! いや、待て……!」


V7エンジンは今この瞬間も、アトラス全体に前進するための猛烈な推力(G)をかけ続けている。ワイヤーという命綱を失ったアームは、加速を続ける船体の推力に置き去りにされるようにして、漆黒の宇宙の彼方へと滑り落ちていった。


「質量が喪失したことで、アトラスの重心が急激にシフトしている!」


俺の網膜で、重心位置を示す赤いマーカーが、安全圏から一気に外側へと跳ね上がった。


五万トン級の船において、数百トンの質量の突然の喪失でさえ、定常加速中の推力バランスを根底から破壊する。


エンジンの莫大な推力ベクトルが、ズレた重心に対して回転モーメントを生み出し、アトラスの巨大な船体がゆっくりと、だが暴力的なエネルギーを伴ってきりもみ状態へと陥り始めた。


「推力軸がブレている! このままじゃエンジンが自らの推進力で船体をバラバラに引き裂くぞ!」


バルカスが悲鳴に近い声を上げ、コンソールを乱暴に叩いた。


「出力を落としてスピンを相殺するんだ!」


俺は瞬時に脳波デバイスを深く同期させ、アトラスの制御系にダイブした。数千万キロ離れた船のノズルを、タイムラグがある中予測アルゴリズムで強引にねじ伏せようとする。


緊急停止コードを送信し、エンジンの出力を強制的にカットした。


数分後、モニターの中のアトラスはプラズマの噴射を停止し、ゆっくりとしたスピン状態のまま慣性飛行へと移行した。船体の崩壊はどうにか免れた。


「姿勢制御、スピンを最小限で抑え込んだ……」


俺は荒い息を吐き出した。


「喜んでる場合じゃないわよ!」


隣のコンソールから、セリアの血の気の引いた声が飛んできた。


彼女の展開したホログラムには、火星の重力井戸とアトラスの軌道が真っ赤なエラーで点滅していた。


「三百トンの質量が消え、スピンを抑えるために推力を落とした。私が引いた火星への進入軌道スイングバイ・パスから完全に逸脱したわ! このままだと進入角が狂って、火星の重力に弾き飛ばされるか大気圏に突入して燃え尽きるかの二択よ!」


「軌道を再計算しろ! 今のアトラスの質量と推力軸のパラメータを送る!」


「やってるわよ! でも問題はそれだけじゃない!」


セリアの指先が狂ったような速度で踊り、アトラスの進行方向の空間データをスクリーンに叩きつけた。


「逸れた軌道の先には、火星軌道上のデブリ帯が広がっているわ! 新しいスイングバイの進入角を確保しようにも、そのルート上にはデブリが散弾銃みたいにばら撒かれているのよ!」


質量が変わり、推力軸が歪み、スピンした状態でデブリの嵐が立ち塞がる。


光の通信タイムラグがある以上、手元の映像を見ながらリアルタイムに避けることは物理的に不可能だ。凡庸な航法士なら、ここで船の放棄を宣言する絶望的な状況である。


だが、セリア・ヴァンダーの双眸は、恐怖ではなく、極限の演算に対する凄まじい闘志で爛々と輝いていた。


「……私を誰だと思ってるの。この程度のカオス、乗り切って見せるわ!」


セリアは自分に言い聞かせるように叫ぶと、合成カフェインのチューブを乱暴に放り投げ、コンソールに覆い被さるようにして数式を組み上げ始めた。


彼女の目の下に深く刻まれたドス黒い隈が、モニターの青白い光に照らされて狂気じみた影を作っている。


「状況を整理するわよ! 地球圏と牽引艦アトラスとの光の通信タイムラグは片道八分! 私たちがいま見ているアーム脱落とスピンの映像は、すでに八分前の過去の出来事よ!」


セリアの指先がキーボードを叩き割らんばかりの勢いで踊る。


「アトラスの進行ベクトル上、火星低軌道に散らばるデブリ群の層まで、向こうのローカルタイムでアーム脱落から十八分! 私たちのコマンドが届くのに八分かかるってことは——!」


「俺たちに残されたコーディングの猶予は、たったの二分しかないってことか!」


俺は背筋に氷を突き立てられたような悪寒を感じた。


手元の遅延のある映像からリアルタイムに船を操作してデブリを避けることなど、物理的に不可能だ。


この二分間で、数千個のデブリの軌道をすべて予測し、スピンを利用した回避と火星スイングバイのプログラムを完全に組み上げ、一括送信しなければならない。


「レオン、アトラスの推進制御は私がジャックする! スピンの遠心力、欠落した三百トンの質量の重心ズレ。すべての変数を逆利用して、V7(第7世代・核融合熱推進)エンジンの非対称な断続パルス噴射で船体をジグザグに横滑りさせるマニューバを組むわ!」


「むしろスピンさせて推力をかけるだと!?」


バルカスが血走った目をひん剥いて怒鳴った。


「冗談じゃねえ! 推力軸がブレたままエンジンを吹かせば、巨大な推力と遠心力が喧嘩して、未完成のエンジンマウントが内側から捻じ切れるぞ! アトラスは最後の外装が組み上がってないんだぞ!」


「マウントが千切れるのが先か、デブリに蜂の巣にされるのが先かのチキンレースよ!」


セリアが血を吐くような声で叫び返す。


「バルカス! 耐えられるフレームの限界値と、絶対に応力をかけちゃいけないジョイントの座標を今すぐ全部レオンに送りなさい! レオン、私が今から秒刻みの三次元空間座標の変数を送る! バルカスの指定した弱点を避けながら、寸分違わずエンジンの噴射タイミングを合わせるのよ!」


「分かった、データを寄越せ!」


俺は脳波デバイスを限界まで深く同期させ、アトラスの制御ソフトウェアにダイブした。


四億キロ離れた船のノズルを、予測アルゴリズムだけで強引にねじ伏せる。セリアから転送されてくる軌道計算は、もはや神技を通り越して芸術的な狂気そのものだった。


「最初の噴射タイミング、スピン角四十五度の瞬間にコンマ二秒! これで第一波のデブリを右へ躱す!」


セリアが数式を投げつける。


「ダメだ、その角度で吹かすと第三隔壁に負荷が集中する!二秒遅らせろ!それでロール軸をズラせ!」


バルカスが応力データを叩きつける。


「遅らせたら直径二メートルの岩塊と正面衝突するわよ! 推力を八パーセント絞って!」


「推力を絞れば火星の重力井戸のエッジに届かなくなる! 姿勢制御スラスターを同調させて、無理やり船体を捻って帳尻を合わせる!」


俺は脳細胞が焼き切れるほどの激痛に耐えながら、二人の矛盾する要求をソフトウェアの言語へと翻訳し、動的補正アルゴリズムを秒単位で組み上げていく。


「残り十秒! コンパイル急いで!」


セリアが悲鳴を上げる。


「終わった! 全シーケンス、パッキング完了! 送信!!」


俺はエンターキーを叩き割らんばかりの勢いで押し込んだ。


『緊急回避・スイングバイ複合プログラム、送信完了。アトラス到達まで四八〇秒』


無機質なシステム音声が鳴り響き、管制室に息の詰まるような、死のような沈黙が降りた。


俺たちはただ、ホログラム・モニターに映し出される八分前の過去の映像と、センサーが絶え間なく拾い続けるテレメトリの数値を睨みつけることしかできない。


俺たちが血反吐を吐いて組み上げた一矢のプログラムが、数千万キロの彼方で的を射抜くか、それとも虚空に消えるか。結果を待つだけの、無力で残酷な八分間。


「……これだから、遠隔操作の無人機は嫌なんだ」


俺はコンソールの縁を白くなるほど強く握りしめ、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。


「現場にいれば、数秒で対応できるトラブルだ。光の速度という宇宙の理不尽に、ただ祈ることしかできない」


だが、祈る暇すら宇宙は与えてくれなかった。


絶え間なく届き続ける八分前の観測データを処理していたセリアのコンソールが、突如としてけたたましいアラートを鳴らし始めたのだ。


「ウソでしょ……!?」


セリアが顔面を蒼白にして、ホログラムを激しく拡大した。


「進行方向、火星低軌道上のデブリ同士が連鎖衝突ケスラー・シンドロームを起こしているわ! 脱落したアームの破片が他のデブリに直撃したのよ! その玉突き衝突で軌道が変異して、さっきの予測リストになかった直径五百メートルの巨大な岩塊が、アトラスの修正軌道上に完全に割り込んできた!」


「なんだと!?」


俺は総毛立つ思いでモニターを見た。


八分遅れの情報が届き、俺たちの目の前で、巨大な岩塊がアトラスの死角から弾き出されてくるのが見えた。俺たちがさっき送ったプログラムには、あんな巨大な岩塊の回避データは含まれていない。


「岩塊とアトラスの衝突までの相対時間は……七分後!」


セリアのタイピングする指先が震える。


「こっちの通信遅延が片道八分!今すぐ追加プログラムを送っても、間に合わない!」

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