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10. フェースワン、始動

命名された二隻の船――五万トンの牽引艦本隊、アトラスと、数百トンの先行観測プローブ、ヘイムダル――を軌道へ上げるまでに許された猶予は、残り僅か七日まで迫っていた。


牽引艦本隊アトラスを先行して打ち上げ、火星の重力を利用した加速を使ってセレス・マイアーへ向かう。渡航期間は十二か月


一方、質量の小さい先行観測プローブ、ヘイムダルはアトラスの三日後に打ち上げ、直接セレス・マイアーを目指す。こちらは六か月で到達する。


月の地下深層、第七重工業区画。今やプラズマ溶接の凄まじい熱気と大型マシニングセンタの絶叫に近い稼働音によって、灼熱の狂乱状態へと変貌していた。


五万トン級の牽引艦本隊アトラスを宇宙空間で組み上げるための外装ブロック群と、その心臓部となる完璧なコアユニット、それらと数万トンのナノマシン素体プールを繋ぐチューブ群の準備


そして、それとは全く別の設計思想で組み上げる数百トンの先行プローブ、ヘイムダル。


これらをほぼ同時にデリバリーする。


それは、帝国の造船史において誰も試みたことのない、常軌を逸した計画だった。


「レオン! 本隊に括り付ける外装ブロックのペイロード・バランスが狂い始めてるぞ!」


足場の上から、極限精密製造局の工廠長バルカスが血走った目をひん剥いて怒鳴り散らした。


彼の巨体は油と煤に塗れ、疲労で一回り小さくなったように見える。


「これでいい!航行中での建造のために未完成の装甲板やらナノマシンのコンテナをブロック化してドッキングするんだ、重心がブレるに決まっている!」


「このままV7(第7世代・核融合熱推進)エンジンを吹かしたら、推力軸がズレて一瞬でスピンして宇宙の塵だぞ!」


「物理的なパッキングに頼るな、ソフトウェアの動的補正で相殺する!」


俺はコンソールに張り付き、霞む視界を合成カフェインで無理やりこじ開けながら、数万行に及ぶコードを叩き直した。


「ブロックの質量分布の偏りをリアルタイムで算出し、V7エンジンのインジェクター噴射角を非対称に制御して推力ベクトルを重心のズレに追従させる! バルカス、お前は物理的なラッチの電磁ロックだけを確実に固定しろ!」


「ちょっと待ちなさい!バカもの!」


通信モニター越しに、データ・アーカイブ室に籠りきりのセリアからヒステリックな声が飛ぶ。


「勝手に推力ベクトルを弄らないで! 牽引艦本隊の火星スイングバイへの打ち上げウィンドウまであと百六十八時間しかないのよ! 五万トンのデッドウェイトを背負って火星を経由する低エネルギー軌道は正確性が命なのよ!」


セリアの目の下にはドス黒い隈が深く刻まれているが、その思考と連動したタイピング速度は常軌を逸していた。


「あんたが推力ベクトルを勝手に弄ったら、私の組んだ軌道パスの数式が全部灰になるわよ!」


「だから、推力補正の変数はすべてお前のテレメトリと同期させている! 俺の組んだ動的補正アルゴリズムをお前が軌道計算にねじ込め!」


「言われなくてもやってるわよ!」


極限の集中力と、時間という絶対的な暴力。


互いの専門領域の限界を削り合う、容赦のない要求のぶつけ合い。


睡眠時間はとうに平均二時間を切っていた。俺もバルカスもセリアも、極限の疲労で視界の端が歪み始めている。


だが、思考の解像度だけは恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。


不可能の壁を、知性と力技と計算で殴り壊していく圧倒的な知的興奮が、肉体の限界を完全に麻痺させていた。





その狂騒から遠く離れた、第一理学塔の最上層に位置する居住区画。


医療グレードのクリーンルームでは、地下の熱気とは対極の、重苦しいほどの静寂が支配していた。


微かなオゾンの香りと、生命維持装置が刻む規則正しいリズム。真珠色のシーツに包まれたベッドの上で、ミナ・ハルシュタットは静かに目を閉じていた。


彼女の側頭部には、一億人の市民が日常的に使用しているのと同じ、超没入型仮想空間(VR)へのダイブ・デバイスが装着されている。


視神経に直接送り込まれるのは、かつての地球を模した完璧な青空と、果てしなく続く透き通った海。そよ風が頬を撫で、波の音が心地よく響く。


痛みも、息苦しさも、孤独もない。すべてが計算し尽くされた、絶対的な快楽と安らぎの楽園。市民たちがレゴリス(月の砂)を貪り食ってまで手放そうとしない偽りの現実がそこにあった。


病弱なミナもまた、弱り切った肉体から逃れるため、時折この仮想の海へダイブしていた。


だが——ミナは数分と経たずに、自らの手でデバイスを乱暴に外した。


「……はぁっ……」


現実の無機質な白い天井が視界に戻る。冷たい空気。規則的な機械音。彼女はデバイスをベッドの傍らに放り投げ、細い両腕で自らの身体を抱きしめた。


「こんなもの……ちっとも綺麗じゃない」


VRの中でどれほど美しい波の音を聞いても、完璧な青空を見上げても、彼女の脳裏に浮かぶのは、今も命を削っているであろう兄、レオンの姿だけだった。


お兄様は今、私が吸うこの空気を繋ぐために、地獄のような場所で戦っている。それなのに、私だけがこんな偽物の楽園で安らぎを得るなんて……


枕元に置かれた端末の画面には、兄へのメッセージ履歴が並んでいる。


『無理しないでね』 『ちゃんと眠っている?』


送信されたメッセージには、既読すらつかない状態がもう何週間も続いていた。


以前のレオンは、どれほど研究が忙しくても、数日に一度は必ず顔を見せ、冷たくなった彼女の手を握って、他愛のない話をしてくれていた。 だが今は、その温もりすら遠い過去のようだ。


自分が病弱でなければ。兄はあんな狂気じみた計画に身を投じる必要などなかったのではないか。 罪悪感が、彼女の小さな胸を強く締め付ける。


「……お兄様」


ミナの透き通るような白い肌の下、青い血管が微かに脈打つ。


三十年後の確実な酸素や、永遠に続く人類の楽園。そんな大義名分はどうでもよかった。彼女が本当に望んでいるのは、たった一人の家族である兄が、自分のそばで笑っていてくれることだけだ。


「仮想空間の青空なんていらない。お願い……どこにも行かないで。私を、一人にしないで……」


ミナは冷たい星空の見える窓に向かって、大粒の涙をこぼしながら切実に祈った。


兄が作り上げようとしている未来が完成したとき、そこに彼自身の姿がなくなってしまうのではないか。その恐怖だけが、彼女を夜な夜な苛んでいた。





そして、地獄のような狂乱の七日間が経過した。


西暦2501年。月の暗黒面、巨大なクレーターの縁に建造されたマスドライバー発射台。


その軌道上に、いびつで巨大な質量体が据え付けられていた。 牽引艦本隊アストラ。


だが、その姿は到底宇宙船と呼べるような代物ではない。


完璧に組み上げられたのは、剥き出しのV7エンジンと演算コアからなる中心フレームのみ。


その周囲には、無数の装甲ブロックと自己増殖型ナノマシンのコンテナ群が、仮組みのワイヤーとラッチで無骨に縛り付けられている。


完成度にしてわずか三割。臓物と骨組みだけが寄せ集められたような、異形の塊だ。


地下の専用管制室。モニターの光が、俺、セリア、そしてバルカスの顔を照らし出している。


全員の目の下にはドス黒い隈が深く刻まれ、立っているのがやっとの状態だったが、その瞳の奥には確かな熱が宿っていた。


「……牽引艦本隊コア、各種パラメータ正常。質量分布の動的補正アルゴリズム、オンライン」


俺が、掠れきった声で最終報告を上げる。


「ブロックの固定ラッチ、全ロック確認。V7エンジン、プラズマ点火シーケンス・スタンバイ。コアの剛性は完璧だ」


バルカスが太い指でコンソールを叩き、獰猛な笑みを浮かべる。


「火星スイングバイ軌道への打ち上げウィンドウ、オープン。重量五万トンの未完成のドンガラを、一年かけてセレス・マイナーへ送り届ける長旅の始まりよ」


セリアが投影されたキーボードから手を離し、不敵に笑う。


「第一射、本隊……射出ローンチ!」


俺がエンターキーを叩き割らんばかりの勢いで押し込んだ。


瞬間、マスドライバーの莫大な電磁加速が、未完成の五万トンの塊を月の重力井戸から蹴り出した。


凄まじいGを伴って飛び出した本隊は、暫くした後にV7エンジンを点火。青白いプラズマの炎が漆黒の宇宙空間に眩い尾を引き、不格好な巨大質量体は、火星の重力アシストを利用する重厚な軌道へと滑り出していった。


ここから十二ヶ月。自動ロボットたちが航行しながらブロックを組み上げ、到着する頃には完璧な牽引艦へと変貌を遂げているはずだ。


「本隊、予定軌道への投入を確認。重心移動のリアルタイム補正プログラム、正常稼働」


セリアが安堵の息を吐く。だが、俺たちの戦いはまだ終わっていない。


「休む暇はないぞ。次は三日後のヘイムダルだ」


俺は血走った目で、隣のスクリーンに展開された極小の機体図面を睨みつけた。


……そして三日後、最後の一滴まで知能と体力を絞り尽くす最終調整の果て。


マスドライバー発射台には、本隊とは打って変わって、流線型の研ぎ澄まされた銀色の機体がセットされていた。


先行観測プローブ、ヘイムダル。 全長わずか三十メートル。エミッターも、ナノマシン素体のコンテナすら持たない。純粋な目(超高精度センサー)と脳(量子演算コア)、そしてオーバースペックともいえるV7エンジンだけで構成された、極限まで質量を削ぎ落とした完成された鋭角的な船体。


本隊が一年かけて到着する前に、セレス・マイナーの未知のカオスを完全に解析し切るための、俺たちの眼球だ。


「先行プローブ、最終同期完了。推力重量比は本隊の百倍以上よ」


セリアの投影タイピングの速度が上がる。


「火星の重力アシストなんて悠長なものは使わないわ。極限まで落とした質量だからこそできる圧倒的な推力で一直線にアステロイド・ベルトへ突き刺さる、超高エネルギーの直行軌道ダイレクト・パスよ。本隊を追い抜き、半年で対象に到達させる」


「センサーアレイのマウント、冷却系フル稼働。熱膨張のブレはゼロだ」


バルカスが祈るようにコンソールを握りしめる。


「頼むぞ、俺たちの希望」


俺はメインコンソールに手を置き、確かな熱を込めて号令を下した。


「第二射、先行プローブ……ローンチ!」


音のない真空空間で、マスドライバーがプローブを弾き出す。


暫く後の姿勢安定をシステムが確認すると、軽量の機体に対してオーバースペックなV7エンジンが火を噴いた。


本隊の緩やかな加速とは比較にならない、暴力的で圧倒的な推力。


プローブは一瞬にして光の矢となり、火星の軌道を完全に無視して、星々の海へと一直線に躍り出た。


「……推力安定。初期加速、計算通りよ」


セリアが背もたれに深く沈み込み、長い息を吐いた。


「予定軌道へ完璧に乗ったわ。半年後、セレス・マイナーで待ち合わせよ」


モニターに映るプローブの光点は、あっという間に星々の瞬きの中に紛れ、見えなくなった。


「……飛んだな。二隻とも」


バルカスが、天井を仰いで太く息を吐いた。


「ああ。第一段階フェーズ・ワンの、盤面は整った」


俺は血走った目で、虚空の彼方を見つめた。


本隊が航行しながら己を組み上げ、プローブが先行して星のカオスを暴く。 俺たちが物理法則と時間に喧嘩を売って絞り出した最適解が、今、四億キロの深宇宙へ向かって突き進んでいる。


真珠色のドームで眠る一億人の命と、妹の未来を乗せた壮大なタイムアタックが、ついに火蓋を切った。

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