第2話 どうかあなたの夜語りを
僕は中空を見つめたまま、ぽつり、と呟いた。
「……ねえ。僕は、ちゃんとした大人に見えるのかな」
少年が、ページをめくる手を止める。
真鍮製の眼鏡の奥、美しい瞳がするりと動いて、僕を見た。
「あなたは、大人じゃないんですか?」
「少なくとも、僕は周りの人たちに、そう見られてはいない」
「なぜですか」
まっすぐに尋ねられ、僕はかすかにためらった。見下ろしたカップの中では、僕の両手に包まれて、夜のような水面が静かに揺れていた。
ふわふわと立ち上る、心をほぐすような深い香り。少年は催促をしない。だけど無視しているでもない。ただ静かに、僕へと注意を傾けている。その態度が、僕の心をほんの少し動かした。
「僕、要領が悪いんだ。どんなに気をつけていても、気を抜くとぼうっとして、ミスばかりしてしまう。いつも下を向いてばかりだから、人の顔も覚えられない」
ぼそぼそと呟くと、少年はかすかに眉を寄せた。
「それにはなにか、理由があるんですか?」
「まあ……あるといえば、あるけど……」
僕は視線をそらし、身を縮こまらせる。逃げるような僕の仕草に、少年は子どもをなだめるような目をした。
「どんな理由ですか? 大丈夫、ここでは誰もあなたを責めたりしませんよ」
美しい瞳をやわらかく細めて、少年が言う。その子どもらしからぬ口調と言葉に、僕は思わず言った。
「きみ、大人みたいなこと言うなよ」
「ふふっ、すみません」
くすくすと少年が笑う。そうやって笑う姿はちゃんと子どものそれで、僕はなんだか肩の力が抜けるのを感じた。
「まあ、いいや。僕がぼんやりしている理由だったね。簡単だよ。寝不足だ」
「寝不足……?」
少年が、ちょっと驚いたように目を見開く。そういう反応になるよな、と僕は苦い気持ちになった。
「そう。ただの寝不足。それで昼間にぼうっとして、ミスしちゃう。どんなに頑張って気を張ってても、肉体の限界には勝てないんだよね」
ふふ、とわざと明るく笑って見せる。けれど少年は、僕を気遣うような瞳をした。そのやわらかな気配から、逃げるように目を伏せる。
「皆に言われるよ。いつまで学生気分でいるんだ。そんなんじゃ社会人失格だ。子供じゃないんだぞ。もっと大人としての自覚を持て。耳にタコができるほど言われてる。でも、眠れない――眠りたくない」
そう、眠れないんじゃない。眠りたくないんだ。たとえ、それで僕の生活が脅かされたとしても。
僕の言葉に、少年はひどく控えめな声で言った。
「それは……心身に問題を抱えているとか?」
視線を上げれば、どこか気遣うような眼差しと目が合う。僕は笑って、わざと明るい顔で首を振った。
「全然? ただ夜更かしがやめられないだけだよ」
あえてからっとした口調で言う。
少年はどこか考え込むような仕草をした。真鍮製の眼鏡の奥から、美しい瞳がそろりと僕を見る。
「あなたは、仕事で何度もミスをして、叱咤され続けてきたんですよね?」
「そうだよ」
「それでも、夜ふかしがやめられない?」
「うん」
「眠れない体質なんですか?」
「本気になれば、五分もかからず快眠だよ」
「じゃあ、あえて夜ふかしをしている?」
「そうだね」
「だけどそれが原因で、著しく問題が出ているんですよね?」
「そうだ」
なんだか、アキネーターや水平思考ゲームのAIになったみたいだ。そう思いつつ、僕はひたすらYESを重ねていく。
少年は「うーん……」と顎に指先を押し当てると、静かに僕を見つめた。
「それは……ただの夜ふかし癖じゃないですよね」
「……まあ、ね」
僕は苦笑して、こくり、とコーヒーを飲む。
少年は静かに僕を見つめていた。その瞳をちらりと見つめ返し、僕は小さく笑う。
「僕はね、眠ることが嫌いなんだ」
僕の返答に、少年は不思議そうに眉を寄せた。
「でも、不眠症ではないんですよね?」
「ああ。眠れないんじゃない。眠りたくないだけ」
「眠りたくない……なぜですか?」
静かな問いかけ。
僕はそっと息を吸うと、一瞬だけ止めて、そして言った。
「――悪いことが、起きる気がするから」
「悪いこと……」
復唱する少年に、僕はかすかに頷いた。
少年が、促すような瞳をする。僕は少しためらって、でも言った。
「……昔ね。兄が亡くなったんだ。ちょうど、今くらいの季節、今くらいの時刻に」
思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
少年は、気遣うようなやわらかな声で言った。
「今くらいの時刻、ということは……お兄さんが亡くなられたのは、夜、あなたが眠っているときだったのですか?」
「ああ」
「だから、あなたが眠ると悪いことが起きると感じるようになった?」
「そうだよ」
僕が寝ると、悪いことが起きる気がする。
そんな思いにかられて、もう何年になるだろう。
兄の死以来、ずっとそうだ。毎晩ずるずると日付変更まで夜ふかしして、いざ布団に入って寝ようとすと、心臓の奥に嫌な予感が押し寄せて、得体の知れない恐怖が込み上げてくる。
そんなとき、僕は震えながらスマホに手を伸ばして、不安を紛らわせるようにSNSや動画サイトに没頭する。そして冷え切ったブルーライトを顔に浴びながら、気絶するまでそれを続けるのだ。
ひとりぼっちで布団にくるまる夜に思いを馳せる僕に、少年は美しく小首を傾げた。
「ですが、それは少々奇妙に感じますね」
「奇妙?」
僕が顔を上げると、少年は静かに頷く。
「ただ自分が寝ているときにお兄さんが亡くなった、というだけでは『僕が眠ると悪いことが起きる』なんて思わないでしょう。あなたの眠りと、お兄さんの死のあいだには、なにか関係があるのではないですか」
「……すごいな。その通りだよ」
僕は眉を下げて笑った。少年の端正な視線を感じながら、コーヒーをまた一口。
ふっ、と小さく息を吐いて、僕は呟いた。
「――きっと、僕が眠ってしまったせいで、兄は死んだんだ」
少年が、真鍮製の眼鏡を持ち上げる。シンと静まり返った瞳が僕を見つめて、少年はささやくように言った。
「もしよろしければ、お兄さんの死について、事情をお聞かせ願えませんか」
少年のひどく真剣な目を見返して、僕はわざとからかうように笑う。
「それは、好奇心?」
「いえ。責任感でしょうか」
なんだそれ。『僕の眠りと兄の死に関係がある』と見抜いてしまった以上、話を聞く責任がある、とでもいうのだろうか。
まあ、いい。時間はある。どうせ帰っても眠れはしないのだ。
僕はそっとカップを置くと、兄の死と、その謎について語り始めた。




