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第1話 真夜中カフェの不思議な主

 十二月、冷え切った真冬の深夜。

 僕はとぼとぼと、下を向いて歩いていた。


 寝間着代わりのスウェットに、ダウンを羽織っただけの姿。引きずったサンダルの足取りが重い。首や袖から、冷たい夜気が忍び込んでくる。ダウンの前をかき合わせ、僕はぶるっ、と背を震わせた。


 こんな極寒の深夜に路上を徘徊しているなんて、僕か野良猫くらいのものだろう。明日も朝から仕事なのだ、本当はこんなことをしている場合じゃない。それでも、これ以上家に閉じこもっているのは耐えがたかった。


 ――眠れない。


 眠気はある。でも、眠れない。いや、眠りたくなかった。

 SNSも動画サイトも浴びるように見た。音楽も聞いた。でも、重い布団に丸まって、無表情をスマホのブルーライトで照らし続ける深夜三時の虚無感に、とうとう耐えきれなくなってしまったのだ。


 行くあてなどない。それでも、ただ歩く。じっと下を向いて、僕は履き潰したサンダルを淡々と前後させた。

 冷え切った空気が、僕の耳を痛いほど冷たくさせる。足元のアスファルトがのろのろと後ろに過ぎ去っていくのを見つめながら、はあっ、と真っ白い溜め息を吐いた。


 明日も会議だ。また、なにか言われるんだろうか。

 やってもいないミスの追及や、同じ新卒なのに要領のいい同僚のマウント、先輩からのささやかな陰口。どれだけ下を向いていても、現実は容赦なく僕に降り注ぐ。立ち回りの下手な僕は、いつも貧乏くじを引いている。


 びゅう、と風が吹き抜けた。冷たい。ダウンコートが強くはためいて、今にも耳が千切れそうだ。寝不足続きの身体に寒さが痛いほど沁みて、ひどくみじめな気分になった。


 ――そのとき。

 ふと、青い明かりが地面を照らしているのに気が付いた。


 のろのろと顔を上げる。

 そこには、ビルの合間に埋もれるようにして、一軒の古びたカフェが佇んでいた。闇の中、星型の青いランプが、真鍮製の看板をうっすらと照らしている。


「真夜中カフェ:星月夜……」


 金色の、繊細なフォントで書かれた店名。

 その横には、短いフレーズが添えられていた。



【真夜中カフェ:星月夜

 〜 眠りたくない夜に、一杯のコーヒーを 〜】



 そのカフェは、冷え切った夜の底に隠れるように、青い明かりを淡く灯していた。

 二階建ての建物はずいぶん昔の建築らしく、洋風でありながらもどこか和を思わせる、凝った作りになっている。


 黒壇の美しい木材には星や月の意匠が細かく彫り込まれており、白い漆喰の壁には、いくつもの星座が立体的に浮き彫られていた。


 アンティーク硝子なのだろう、窓硝子の表面には、これまた月と星の模様が繊細に彫り込まれている。真鍮製の看板にも月と星がデザインされており、建物すべてに美しい統一感があった。


 看板を見上げる。

(眠りたくない夜に、一杯のコーヒーを……)


 その文言に惹かれて、僕はふらふらと店内に入った。ちりん、とベルが鳴る音がして、おずおずと店内を見回す。


 二階建ての店内は、思ったより広々としていた。

 室内の中央が、大きな吹き抜けになっている。見上げれば、二階の天井を覆うほど大きな星型の天窓。天窓は金色の真鍮細工で縁取られていて、周りにはいくつもの星型のランプが吊り下がっている。ランプからは青い明かりが投げかけられており、店内は透き通った夜空のようなブルーに染まっていた。


 家具や棚などの調度類は、すべて黒壇で統一されている。黒壇のテーブルにはステンドグラスの星座盤が埋め込まれており、木材は艶が出るほど磨きこまれている。同じく黒壇製の椅子には深い青色のベルベットが張られており、星型をした金色の鋲が縁取りのように並んでいた。


 店の奥から、小さくレコードの音楽が聞こえてくる。ピアノとバイオリンの旋律は透明な切なさを帯びていて、知らない曲なのにどこか懐かしく感じられる。


 ――真夜中の世界だ、と思った。


 店内はどこもかしこも星や月、夜空の紋様に溢れていて、まさに真夜中カフェの名にぴったりだ。


(すごいな……)


 幻想的な世界観に圧倒され、ドアの前で立ち尽くしていた僕は、ぱらり、と紙がめくれる音ではっと我に返った。

 音のほうに目を凝らす。最奥のカウンターの内側には、中学生くらいの少年が座っていた。


「っ……」


 思わず息が詰まる。

 その少年が、あまりにも美しい顔立ちをしていたからだ。


 端正な表情がちらりと僕を見て、めくっていた本をぱたりと閉じる。真鍮製らしい眼鏡を持ち上げて、少年がやわらかく笑った。


「いらっしゃいませ。お一人さまですね?」

「あ、ああ……」


 どうぞ、と呼びかけられ、おずおずとカウンターに歩み寄る。白い手に促されて、僕は大人しく紺色の椅子を引いた。座面や背面もまた、繊細な星型の縫い取りがしてある。その見事な細工の上に、僕はそろりと腰を下ろした。


 黒壇のカウンターは、夜のように深く、艷やかな黒色をしている。端々に星の紋様が掘られており、立体の意匠は青い光を反射してやわらかく輝いていた。


 カウンターの内側で、少年がにこりと微笑みかけてくる。その背後には作り付けの大きな棚があり、これもまた見事な星月の彫刻細工がなされていた。


 棚に並ぶのは深い紺色に金の縁取りをした、繊細なカップたち。使い込まれたアンティークのコーヒーミル。丁寧に洗われたネルドリップのフィルターに、産地別に並べられたコーヒー豆の缶。そのどれもに、優美な星のデザインがほどこされている。


(どうしよう……なんかすごいところに来ちまったな)

 内装といい、調度といい、全てが綺麗すぎて落ち着かない。

 僕はもじもじとベルベットの椅子の上で身動ぎした。逃げるように下を向き、ぼそぼそとつぶやく。


「その……こんなスウェットで来て悪かったね」


 僕の消え入りそうな声に、少年がくすりと微笑む声がした。


「ここは、長夜を必要とされるお客さまにのみ開かれるカフェです。あなたがここへ来たということは、この場所が必要だということ。服装で人を選ぶようなことはしませんよ」


 少年らしい、やわらかな声音。穏やかな口調に、そろりと顔を上げる。

 カウンター越しの少年は、澄んだ瞳で静かに僕を見つめていた。本当に、驚くほど整った容姿の子だ。


 色素の薄いさらさらの前髪が、真鍮の眼鏡に淡く降り掛かっている。硝子越しに見える瞳は長いまつ毛に縁取られ、涼やかな目元は月のような静謐さをたたえていた。すっと通った真っ直ぐな鼻筋、少し薄めの知的なくちびる。色白の頬はやわらかな稜線を描き、子どもと大人の間をただよう者特有の、絶妙なバランスを保っていた。


 僕があまりにもぼんやりしているからか、少年はどこかくすぐったそうに笑った。


「ご注文はいかがいたしますか?」

「え、ああ……その、カモミールティーとか、ある?」

「ございますよ」

「じゃあ、それで……」

「かしこまりました」


 カモミールを頼んだものの、別にハーブティーが好きなわけじゃない。よく眠れるお茶として有名だからだ。すでに三時も過ぎている。いい加減眠らないと、明日が怖い。


(わかってる。わかってるんだけどなあ……)


 それでも、布団でスマホを眺めて眠りから逃げるのをやめられない。自分でもバカみたいだなと思うが、どうしようもないのだ。


 黒く輝くカウンターに肘をつく。寝不足の頭がぼうっとする。

 しゅんしゅんと湯が湧きはじめる音がした。温かみのある音色に、まぶたが半分落ちかける。かりかりと心地いい音。それから、ふわりと香ばしい香りがして――


(ん? 香ばしい……?)


 不意にコト、と音がして、目の前にカップが差し出された。

 美しい青のカップには、星座の模様が描きこまれている。流星をモチーフにした立体的な取っ手には、優美な金縁細工がなされていた。


 ただ、僕を困惑させたのはカップの美しさではなかった。

 青いカップの中には、黒い液体がたゆたっている。ふわり、と立ち上る香りは間違いなく、コーヒーのそれだ。

 僕は眉を寄せ、少年に言った。


「あの、僕の注文、カモミール……」

「ええ、存じておりますよ」


 少年はにこり、と優美に微笑む。


「でも、あなたが本当に求めているのは、ハーブティーではないですよね」

「えっ……?」

「あなたはあの看板を見て、この店へいらっしゃった。あのフレーズ、覚えてらっしゃいますか?」

「『眠りたくない夜に、一杯のコーヒーを』……」

「そのとおりです」


 何もかもわかっている、という風に微笑む少年に、思わず苦笑した。


「……僕が眠りたくないのも、お見通しってわけ?」


 僕の言葉に、少年は無言で目元を和らげる。見るものを安心させるような笑みに、僕はなぜか懐かしさのようなものを覚えた。


 少年は慣れた様子でコーヒーミルやドリッパーを片付け始めた。流れるような仕草は、明らかにいつもここで働いている人のそれだ。


 いくら大人びた子だからといって、こんな深夜に、子どもを働かせるなんてどうかしている。そう思った僕は、眉をひそめて少年に尋ねた。


「ねえ、オーナーは外出中? きみは息子さん?」

「おや。ここの店主は僕ですよ」


 ばかな。

 ひそめた眉根がさらに寄った。思わず、たしなめる口調で言う。


「きみ、大人をからかうもんじゃないよ」

「ふふっ、大人、ですか」

「……笑うなよ」

「ふふ、すみません。つい」


 むう、とくちびるを捻じ曲げる。何が「つい」なんだ。

 端正な顔立ちの少年は、ひそやかに含み笑うさまも美しい。

 ただ、大人という言葉を笑われたのは不服だった。


 そりゃあ僕だってまだ二十三歳、新卒一年目のひよっこだ。何をやってもうまくできなくて、先輩や上司に呆れられてばかり。自分の意見を言うこともできず、いつも下を向いている。おかげで人の顔すらろくに覚えられない。


(だからって、笑わなくったっていいだろ……)


 もやもやした感情を押し殺し、艷やかな青いカップを手に取る。黒い水面に星型のランプの光がちかちかと反射して、まるで深い夜空のようだ。


 拗ねた気持ちのまま、くちびるを尖らせてカップに口をつける。

 その瞬間、ふわり、とコーヒーの香りが鼻先をくすぐった。


(あ……)

 深い熱を帯びた、ほろ苦い香り。心地いい苦さがそっと口内に忍び込んで、じわりと広がっていく。こくり、と小さく喉を鳴らすと、コーヒーはゆっくりと喉を落ちてゆき、腹の底がじんわりと温かくなった。


 ――美味しい。

 暗い夜道を歩いていたときの冷え切ったみじめさに、深い味わいのコーヒーがやけに沁みた。ひねくれていた感情が、ゆっくりとほどけていく。


 僕の機嫌が直ったのがわかったのだろう。少年はかすかに微笑むと、ぱちり、と手元のランプをつけた。惑星をかたどった青いスタンドランプが、カウンターの周辺だけをふわりと明るくする。少年は真鍮製の眼鏡を軽く持ち上げると、さっきのように本をめくりはじめた。


 僕もまた、無言でカップを傾ける。藍色のカップの縁から、夜のように暗い液体が口内に入って、ゆっくりと僕の内側へと染み込んでいった。


 ふわふわと、香ばしい匂いがカウンターの周囲に漂っている。僕はほうっ、と静かに息を吐いた。かじかんでいた指先にゆっくりと血が通ってゆき、じいん、とくすぐったいようなもどかしさ。僕は両手でカップを包み込むと、こくり、こくりと何度も喉を鳴らした。


 惑星のランプ、その薄青い明かりが、少年の周囲をやわらかく照らしている。身体の内側が、少しずつ温かくなってくる。聞こえるのはレコードのかすかな旋律と、少年がページをめくる音だけ。


 静かだった。星が落ちる音さえ聞こえそうだ、と思って、詩的すぎる表現に自分で苦笑する。


(……なんか、久しぶりだな、こういうの)

 ずっと、なにかから逃げるみたいにして暮らしていたから。


 ふうっ、と息をつく。コーヒーの湯気が、ふわりと青い空気に散っていった。どこか夢を見ているような、ぼんやりした気持ちになる。



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