底
佐々木さんの研究室に戻った時、私は何も言えなかった。
入口でひと呼吸したはずなのに、酸素が全然足りない気がする。棚の瓶も、机の上のケーブルも、観葉植物の「ななし」札も、全部ぼんやりして見える。いつもなら「お疲れさま」って言うはずなのに、声が出ない。
足が勝手にベッドの方へ向かう。
毛布をひっぱって、頭からかぶって、膝を抱えた。
目の前で毛布の隙間から入る光がちらちら揺れてる。窓の外で何かが動いている音。フブキくんがいつものように微妙な風を送ってる。クーキまるくんも、小さくブーンって唸ってる。
でも、全部が遠い。
全部が、意味ない。
私は——エラーから生まれた存在。
「管理局施設への攻撃未遂」。
私の歌が、私の名前が、誰かを危険な行動に駆り立てた。
心の奥で何かがぎしぎし音を立ててる。
たぶん、崩れてる音だ。
削除まで、あと64時間。
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コンコン。
「かんなサーン、起きてる?何か食べる?」
佐々木さんの声が扉の向こうから聞こえる。
私は毛布の下で首を振った。声を出すのが面倒くさい。
「お腹すいてない?コーヒーとか、紅茶とか……」
「いりません」
かろうじて言えた。声がかすれてる。
しばらく間があって、足音が遠ざかっていく。
私はフブキくんの風が肌に当たるのがうっとうしくなった。毛布から腕を出して、壁のスイッチを探す。パチンと押すと、風が止まった。クーキまるくんも止めた。窓の方から聞こえてた小さな機械音も止めた。
静寂。
でも、頭の中では相変わらずぎしぎし音が鳴ってる。
窓辺の観葉植物が、霧吹きを待ってる。いつもなら朝一番に「おはよう、ななしちゃん」って言いながら、きらきらの水滴をかけてあげるのに。
今日はできない。
明日もできない気がする。
削除まで、あと60時間。
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「かんなちゃん、璃さんから通信きてるよー」
佐々木さんの声。今度は部屋の中から聞こえる。
私は毛布にもぐったまま答える。
「後にしてください」
声がもっとかすれた。喉の奥が痛い。
佐々木さんのため息が小さく聞こえる。椅子に座る音。コーヒーを淹れる音。
全部が聞こえるのに、全部が関係ない。
私なんて、最初からいなかった方が良かったのかもしれない。
エラーから生まれた存在。
太田さんは私のせいで処分を受けた。
私が名前を呼んだから。
名前は人を救うって、信じてたのに。
名前は——人を傷つける道具だったのかもしれない。
私は毛布の下で丸くなる。膝がお腹にくっつくくらい、ぎゅっと縮まる。
どうせ私は、消えてしまうのだから。
削除まで、あと48時間。
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佐々木さんが「かんなちゃん」って呼びかけても、私は見つめるだけで返事をしない。
「心配してるよー」
佐々木さんの声は優しい。でも、私には届かない。
頭の中で言葉が回ってる。
『君は自然に生まれた存在ではない。システムエラーから偶然生まれた存在だ』
田中長官の声。
私は——エラーオブジェクト。
目の端で小さく光るものが見える。
ななしちゃんの葉っぱが、ちょっとしなびてる。
でも、手が動かない。
佐々木さんが椅子から立ち上がる音がする。足音が遠ざかって。やがて部屋が静かになる。
私は毛布の下で、小さくすすり泣いた。
消えてしまうなら——
今まで歌ってきたことも、無意味だったのでしょうか。
時計の針が、静かに時を刻んでいる。
削除まで、残り24時間。