一章 だからお願いこの手を掴んで(4)
靴音荒く現れたエミリオを目にしても、自称シェレネエラリスは眉一つ動かさなかった。最初から、こうなることを予想していた顔。余計にエミリオの怒りは煽られた。
「どういうこと?」
弓と矢筒は背に、剣は腰に帯びた状態で訊ねる。完全に臨戦態勢だ。しかし剣呑な眼差しを向けても、自称シェレネエラリスは小首を傾げた。
「どういうこと、とは?」
「ちょっと溺れていた間に七年が経過。戦には負けて、この国はカトゥル帝国の属国になっている。おまけに私は死んだことになって埋葬されていた」
エミリオは剣の柄に手を掛けた。
「どういうことですかね、シェレネエラリス様」
軽々しい口調とは裏腹に声は一段と低い。それでようやく怒気を感じ取ったのか自称シェレネエラリスは神妙な顔になった。顎に手を当て、一言。
「シェレネで構わぬと言ったはずだが」
怒鳴りそうな衝動をエミリオは辛うじて押し止めた。
「答えろ」
「それしか方法がなかった」
悪びれることもなくシェレネエラリスは言った。
「貴様を射抜いた矢には毒が塗られていた。『七殺し』の異名を持つ猛毒だ。浄化するにも年月がかかる」
一つ浄化に一年。『七殺し』なので七年。
エミリオの時が止まっている間に、とうに最終決戦は終わっていた。戦いにすらならなかった。カトゥル帝国の圧倒的な軍事力を前に『青薔薇』は内部から崩壊、『黒羽の弓手』エミリオなど主だった戦士達は死に、あるいは離反して散り散りとなった。
「あんたがシェレネエラリスなら、どうしてカトゥルの連中を追い払ってくれなかったんだ」
シェレネ国の名は海の女神シェレネエラリスから賜った。それこそ神話の時代のことなので真偽は不明だが、建国以前からこの国の民はこの女神を信仰し奉ってきた。母なる海を統べる女神シェレネエラリスを――それを、この女神は裏切ったのだ。
「貴様を見捨てて、か?」
「ああそうだよ!」エミリオは剣を抜き放った「あんたが本当にこの国の女神なら、自分の子どもを見捨てるような真似はできないはず!」
「無理を言う。自分の子を死に追いやる親がいるものか」
「たとえ敵わなくても最期まで戦うべきだった! でなければ先に散っていた連中はどうなる。なんのための死だ。なんのための犠牲だったんだ!」
「なるほど。貴様は死に場所を求めていたのか」
シェレネエラリスは金糸のような髪を軽く払った。眇めた目に浮かぶのは、紛れもない侮蔑だった。おそろしく無機質な声音でシェレネエラリスは謝罪の言葉を口にした。
「華々しく散りたかったのだな。それは余計なことをしてしまった。すまん」
視界が真っ赤に染まる。激情に任せてエミリオは剣を振り上げた。