三話 アイの意味さえ知らない僕ら
微エロ及び猟奇的な描写を含むため、苦手な方はご注意ください。
視覚を奪われた僕は、他の知覚を頼りに彼らの行為を視ていた。
ピチャリ、ピチャリという水音や、犬が喘ぐような呼気。
「……うん。なかなかいいよ、お前」
及川は恍惚とした声を上げた。
吐息混じりに吐き出された、危うさを孕んだ空気。それはねっとりと重く僕にのしかかる。
「…………ね、今……ま………………が……なの……」
「あ? 何?」
「……ううん、なんでもない」
鼻を啜る音。涙混じりの吐息。
及川はきまり悪そうに答えた。
「……そうか」
「うん」
嬉しそうに、けれど寂しそうに、美咲は微笑った。
やがて、開手のように乾いた音や、遠い昔に聞いた懐かしい声が聞こえてくる。果実のように甘く、太陽のように温かなそれは、僕たちがまだ愛し合っていた頃を思い出させた。
あまり体が丈夫でない美咲は、頻繁に風邪をひいていた。そして、いつも決まって拗らせるのだ。魘されて重たい布団を蹴飛ばす彼女の苦しそうな呼気が、僕の耳に木霊した。
「…………愛してる」
それは、湿った絹糸のような声として余韻を残した。
わかっている。美咲はそういう女だ。息をするように嘘をつく、器用な女。
「……お前、自分の立場忘れんなよ」
及川は鼻を鳴らし、満足そうに嗤った。
その時、僕は勝ったと思った。美咲の内側に僕の知らない顔があるように、この男もまた、彼女を“知らない”。優越感が僕を満たして、急に腹が擽ったくなった。
憎いけれども愛はある。糸のように繋がっているのは、僕のそれであり、美咲のそれであった。
「わかってる。あたしは夫を殺された、可哀想な未亡人。浮気なんてしない。夫だけを愛する一途な奥さんだから」
「……嫌な女だな」
「そう? 両想いにはなれないわね、あたしたち」
美咲は悪戯っ子のように笑った。
――あたしは好きよ、扱いやすくて。
彼女が本心を語っていたならば、そう続けたことだろう。
そうとは知らない及川は、皮肉たっぷりに吐き捨てる。
「へぇ……旦那とはえらい違いだけどな」
「若くてイケメンってところかしら」
「バカ言え。低所得で女好きってところだよ」
「それでもいいわ。だって、あたしといる時はあたしだけを見てくれるでしょ?」
美咲の声は吐息すら搔き消して、やがて、シーンという無音が僕の耳を突き刺した。一瞬にして二人ともいなくなってしまったのではないかと思ったのだが、決してそんなことはなく、息が詰まりそうなほどの静寂は本物だった。
「……勘違いするなよ。俺が好きなのはお前じゃない。女だ」
冷や水のような声。沈黙を破ったのは、及川だった。
女にはほとほと疲れたと、面倒だと、彼の口調がそう語っている。
「変な人。人を殺すよりは楽なんじゃない」
くすりと美咲が笑った。一瞬の沈黙ののち、それはすぐに及川の深い溜め息へと変わる。
「……っていうか、ごまかすなよ。お前の番だろうが」
「あたしが下手なの、知ってるくせに」
「いいからやれ。口答えすんな。男には視覚的な快楽ってのがあんだよ」
僕の両の目玉が潰されたからだろう、美咲は幾分リラックスしたようだった。
初め、探るように不規則な音を立てていたそれは、次第にテンポ良く馴染みのリズムを刻み始める。付き合いたての頃、僕が美咲に教えたものだ。
今まではわからなかったが、こうして第三者として視ているとまた違って感じるものだ。
自分のものでしかなかった美咲が、今は他人のものとして快楽に溺れている。彼女の声は昔と何も変わらないはずなのに、どうしてか色っぽくて、狂おしいほど興奮した。
管弦楽のクライマックス。もうすぐ指揮が止まろうかという、その時だった。
ゆっくりと過ぎていた時の中で、それは突然訪れた。シュッという音を合図に、すべての気配が止む。
「はぁ!? ちょっ、待てって! おい! 落ち着け! おい……!」
瞬間、緊迫した及川の声が空気を切り裂いた。続けて、ぐぅ、というくぐもった声、そして、ポタポタと何かが床に垂れる音。
終わったのか。そう思ったのと同時に、フワッと栗の花にも似た独特な臭いが広がった。思春期を過ぎた頃から幾度となく嗅いできたそれは、今の僕にとっては孤独の象徴でしかない。
いつかの気だるい感覚を思い出しながら、僕は溜め息をついた。
「…………」
ハァハァという、息切れのような呼気が聞こえてくる。しっとりとしたそれは美咲のもので、及川の声はない。
僕はただならぬ異変を感じた。何かがおかしい。事は終わったはずなのに、二人が動く気配はない。それに、美咲に男を唸らせるだけの技術があるとはとても思えないのだ。
うっすらと微笑う気配。及川が驚きの声を漏らした。
「く……どう……美咲……、お前…………何、して」
「あんたのこれ……誠さんのとそっくりなの……」
「……っ!?」
及川とは裏腹な、酔っているかのようなふわふわとした声だった。
意味不明な会話だ。襖の向こうで何が起こっているのか、わからなかった……のだが。
花の臭いを掻き分けて漂ってきた異臭に、僕は気がついてしまった。――これはまぎれもなく、血の臭いだ。それも、僕のものとは違う、新しい――。
状況から推測するに、どうやら美咲は及川の男の証を切り落としたようだった。
「……お前……バカ、か……。旦、那の……死体から……取れば、いい、だろうが……」
及川のぶつ切りの言葉に、美咲はこう答えた。
「言ったでしょう? あたし、今でも誠さんのことが好きだって」
「は……」
ああ、やはり僕たちは繋がっていたのだ。
及川は絶句した。おそらく気がついたのだろう。美咲がぼそりと呟いた、あの言葉の正体に。
「好きな人を傷つけるなんてこと、あたしにはできない」
「……俺を、利用……した……っていう、のか……」
「そうね。でも、別にあんたじゃなくても良かったのよ。だってあたしは」
言葉は途切れ、代わりに、冬の寒い日に手のひらを温めるような、はぁーっという吐息が聞こえた。
「ん……」
部屋に響いた、美咲の声と唾液の音。
どうしてか、僕はゾクリとした。背中を蠕動が這い上がって、腰のあたりが熱くなった。美咲がその赤く熟れた舌を這わせているであろうものは、及川のそれであるはずなのに。
「狂って、やがる……。くそ……っ」
「……させないわよ」
床を打つ硬質な音の直後、ピシャリという乾いた音がして、「うああああっ!」と及川の情けない悲鳴が上がった。おそらく、根のなくなった部分を打たれたか蹴られたかしたのだろう。
「諦めなさい。通報するなら、あんたを殺すから」
悪態づいた及川は、果たして僕と同じ道を辿った……かに思えたのだが。
「…………わかった、わかったよ……しねぇよ……」
「そう。素直ね」
痛みの隙間から漏れ出た及川の苦しそうな声に、美咲は気を許したようだった。
一人が立ち上がる気配。畳を擦る音。
一瞬のち、美咲は、いなくなった我が子を捜し求める母親のように、僕の名前を何度も呼んだ。
「誠さん! 誠さん! 誠、さん……っ!」
ドタドタと慌てたような足音が近づいて、バッと襖が開かれた。
体が温もりに包まれる。締めつけるほど熱いその抱擁は、甘え上手な美咲らしい。
僕の右目に突き刺さったままだった出刃庖丁が、そっと抜かれる。視界は黒から赤へ、そして、丸めたティッシュのようになった美咲の顔が覗いた。
「あたし、誠さんに愛されたいだけだった……。誰でもよかった、代わりなんて、誰でもよかったのよ……」
割れ物を扱うかのように僕の頬を撫でながら、美咲は吐き出すように言った。
ああ、そんなことだろうと思っていたよ。
じゃあ、どうして僕を殺したんだ。もっとも、手を下したのは君じゃないが、そう依頼したのは君なんだろう。
「……誠さん、愛してる。愛してるわ。だから……あたしを殺して……?」
美咲が僕の両手に庖丁を握らせた。
もちろん、死んでいる僕が美咲を殺すことは不可能だ。今から彼女がしようとしている行為は、僕の手を使って自分で自分を殺すことに他ならない。
ふと、思った。
そういえば、美咲は何で及川のを切ったんだ? 人の肉を切れるようなものが、我が家にあっただろうか。
僕が思考する間にも、庖丁は美咲に吸い寄せられていく。無抵抗なそれが、裸の胸に突き立てられようとした、その時だった。
美咲の上体が僅かに倒れて、皮膚を掻き分けるいやな音がした。「うっ」という短い悲鳴。掠った刃先が、雪のように白い美咲の柔肌に赤を滲ませた。
花が咲き乱れる時のように、血の臭いはよりいっそう濃くなった。
「……バカな男」
美咲はそう吐き捨てると、傷が痛むのも気にせず、狂ったように笑い始めた。そして、後ろを振り返らずに言った。
「……これであんたは、幸せな夫婦を惨殺した……殺人犯ね」
「バカは、お前だよ……。死人に口なし。ストーリーを作る、のは……この……俺だ……」
美咲の背後に立っていたのは、及川だった。生まれたての子鹿のように足を震わせ、手に血まみれの――おそらく、美咲と及川の血である――鋸を握っている。
目玉が落ちそうなほど目蓋を押し広げ、三つの血に赤く染まった顔を歪めて、美咲は笑い続けている。
今日、君が死んだ。君の心は死んでしまった。……いや、もしかしたら、君はとうに死んでいたのかもしれない。
力を失った美咲は、僕に凭れかかるように倒れた。
「よかっ……た……。これからは、ずっと……一緒、ね……」
狂気に満ちた最愛の人は、その蜘蛛の糸で僕を雁字搦めにした。
「ふざけやがって……」
強く女を思わせる細くて色っぽい首に、刃が触れる。堪えきれぬ痛みのせいか、怒りのせいか、カタカタと震えるそれは、美咲の首の皮を切った。
――やめてくれ。
そう叫ぶ気力は、もう僕にも美咲にも残っていなかった。
ギコギコと太い幹を切るように鋸を扱う及川は、返り血を浴びても平然としていた。
及川は自分に有利なストーリーを作るだろう。だが、彼は過ちを犯した。美咲の口中に残された体液と、壊された彼女のスマホ。それらの証拠を隠滅しない限り、及川は美咲の言うとおり、最悪な結末を辿ることになる。
首を切られているというのに、美咲は幸せそうな顔をして僕を見ている。
僕は後悔していた。もっと美咲を愛すればよかった。殺されたから思うわけじゃない。生を渇望していたわけでもない。こんなにも僕を愛してくれていた美咲を、僕はこんなにも苦しめていたんだ。
熟しすぎた林檎のような赤に、僕は沈溺する。そして、彼女の体はだんだんと重くなっていった。




