二話 冷えきったカンケイ
暴力表現、及びグロテスクな描写を含むため、苦手な方はご注意ください。
僕の名前は工藤 誠。
そして、貪欲で要領がよく、窮地に陥れば保身に走るあの女は、僕の妻――美咲だ。
僕は殺されたショックで記憶を失っていたようだった。
男の言うとおり、美咲は尻軽だ。一途で優しかった彼女は、僕と結婚して数年が経過する頃には、前述のとおり変わってしまった。
仕事で帰りの遅い僕を嘲笑うかのように、美咲は浮気や不倫を繰り返すようになったのだ。初めは、隣家に住む二十五、六の青年。高校を卒業したばかりの少年に貢いだり、五十を過ぎて脂の乗った男と屋外でしたりなんてこともあった。
僕は君のために金を稼いでいる。主婦である君が、おとなしく旦那の帰りを待つのは当然のことだろう。
君は家事だけしていればいいんだ。くれぐれも火遊びなんかするなよ。
美咲の不貞行為を知ったその日、僕は彼女にそう吐き捨てた。
だが、今ならわかる。美咲が愛想を尽かすのも無理はない。僕は仕事を理由にして、一切家庭を顧みなかったのだから。
そして、結婚十年目を迎えた今日。美咲はもう疲れてしまったのだろう。
◇◆◇
時は遡る。午後十一時頃のことだ。
仕事を終えて帰ってくると、風呂場の明かりが点いていた。
疲れた僕の耳には鬱陶しいシャワーの音。それに紛れて、微かにすすり泣く声が聞こえてくる。
どうせ、また男にでもフラれたんだろう。ザマァない。僕が身を粉にして働いているっていうのに、男遊びとはまったくいいご身分だ。
「誠さん、おかえりなさい」
「…………」
ガタガタと扉の開く重い音がして、美咲のバカみたいに明るい声が響いた。気味が悪い。いつもは、まるで空気のように扱うくせに。
通りすぎた僕の視界に映った美咲は、一糸纏わぬ姿だった。だが、僕がそれに興奮することはない。もちろん、十年も連れ添った妻を家族としてしか見られないというわけではなく、彼女が誰にでも股を開くような淫乱な女だからである。
「…………」
空いた腹を満たしたくてリビングに入れば、食卓に並ぶ皿の数々。中でもとりわけ大きな皿に、頭の無い、長くて丸々としたものが乗っている。
「……魚か。肉でも食ってくればよかったかな」
家事は女がやるもの。台所になど立ったことがない。だから僕には、その魚がなんという名前なのかわからなかった。
――魚は嫌いだ。
結婚当初、僕は言った。それ以来、食卓に魚料理が並ぶことは一度もなかった。だが、今日は。
「嫌がらせのつもりか」
独りごちた僕の声は、薄暗い部屋にポツンと取り残された。
今夜は飲もう。ビールに冷奴。外へ買いに出るのも面倒だし、醤油と鰹節で済ませるとするか。
そう思考して冷蔵庫へ向かおうとした、その時だった。後方で地響きのような音がしたのだ。僕は驚いて振り返った。
隣の部屋に置かれたガラス製のローテーブルの上で、それは煌々と天井を照らしていた。どうやら、音の正体はスマホのバイブのようだ。
「…………」
幾度となく覗いた彼女のスマホ。浮気相手の男共とどんなバカげた会話をしているのか、興味があった。
勝手にスマホを見られていることに、おそらく美咲は気がついている。だが、彼女はロックを掛けなかった。きっと、僕にその内容を見せたかったからなのだと今では確信している。
“新着メッセージがあります”
そう表示された画面をタップすれば、やはり男からのメールだった。
差出人の名前は及川 宏樹。最近、頻繁に目にする名前だ。
この男にフラれたのだろうか。いや、だが、それなら今さら何のメールだというのか。浮気相手など、所詮はあらゆる欲を満たすためだけのもの。利用価値が無くなれば捨てる。それだけの話だ。
再びタップした画面に映し出されたのは、こんな一文だった。
“殺す準備はできた”
「……!?」
――殺す。
馴染みのない、非日常的な言葉。……まさか。
ふと、背後に何者かの気配を感じた。背中をゾワッと戦慄が駆け上がる。次いで聞こえた、空気を切る音。
バッと振り返った瞬間、景色が高速道路を走っているかのように移動した。
「う……っ!?」
左のこめかみに重く落ちた鈍痛。衝撃のままに僕の体は倒れた。
なんだ……? 今、何が起きて……?
ゆっくりと広がっていく熱。タラリと流れた液体が、皮膚を焦がす。
ぼやけた視界に人影が映った。美咲か……? ……いや、違う。彼女はもっとスラリとしている。その人影は筋肉質で、美咲より頭一つ分高くて。
真っ白になっていた思考が次第に色を取り戻していく。真相は、人影の持つものを見れば明らかだった。その手に強く握りしめられた、重量感のある黒い金属バット。
――殴られたのか。
「何を……」
「……んだよ、くたばってねぇのかよ」
伸ばした手の先で、知らない男の声がした。
金属バットがゆっくりと振り上げられる。やめてくれと叫ぶ余裕もなく、それは残酷な影を伴って僕に迫った。
次の瞬間、無防備な脇腹に走った衝撃。コンクリートの塊を真上から落とされたような感覚に息が詰まる。と同時に、僕の中でくぐもった悲鳴を上げる何か。叫ぼうとして大きく息を吸えば、体の内側を鋭い刃が突き刺す。おそらく肋骨が折れたのだろう。
「……お前……及川、宏樹……か……」
そうか、そういうことか。その瞬間、僕はすべてを理解した。
美咲がこの男――及川と会っていたのは、僕を殺す計画を立てるためだったのか。“今日も楽しかった。また会おうね”などという意味のないメールも、文末にハートが付いたメールも、僕にそれを勘づかせないため。
――逃げろ、美咲!
強盗だと思った。憎しみはあれど、美咲は僕の妻だ。彼女だけでも助かれば……。そう思って叫ぼうとしていた自分がバカらしい。
「くそ……っ」
すっかり言うことを聞かなくなった僕の手は、ローテーブルの上でカタカタとリズムを刻んだ。そして、やっとの思いで触れたのは美咲のスマホ。まさか、皮肉にもそんなもので助けを呼ぶことになろうとは。
頭上から舌打ちが聞こえた。警察を呼ぶとわかれば、コイツも逃げるだろう。だが、それは浅はかな考えだった。
「諦めろよ、おっさん」
嘲るような一言と共に指先に走った、電流のような痺れ。ガチャンという硬質な音。何が起きたのか理解する間もなく、腕が床に叩きつけられていた。
「……っ!」
眼前に広がる光景に、僕は息を飲んだ。
真っ二つに割れたローテーブル。床の上には難関なジグソーパズルができあがっていた。
スマホの画面は陥没し、蜘蛛の巣が張られている。その中心に突き立てられた凶器。少しでもタイミングがズレていたら、僕の指はあっけなく潰されていたことだろう。
及川がスマホを蹴り飛ばした。勢いよく床の上を滑ったそれは、壁に衝突し、幾らか回転して止まる。美しかったフォルムは今では見る影もない。起き上がることもままならない僕と同じく、ただのガラクタだ。
耳元で地を裂くような轟音がしたかと思えば、金属バットが転がっていた。
「これが終わったら俺、あんたの嫁に報酬払ってもらうんだわ。体でさ。だからさぁ」
及川を振り返ると、台所から持ってきたのか、その手には出刃庖丁が握られている。やがて、それはゆっくりと頭上高く振り上げられた。
「……あんま手間かけさせんなよ」
僕が死を確信してから、それが訪れるまでに大して時間はかからなかった。
ギロチンのように迫る庖丁。閉じた目蓋の裏に感じた気配。固まった首の筋肉に摩擦が走り、ジュワッと焼ける。切れ込みはすぐに深くなり、パックリと割れた。顎から額にかけて、ぬるま湯がかかった。直後、口から迸った悲鳴は、しかし、声にはならず地を這いずり回る。
目蓋を開けば、視界の端に映る鮮やかな色。噎せ返るような生臭さ。
鼓動に合わせて鯨の潮吹きのように噴き出した赤が、真白のキャンバスに波を描いている。手前にいる及川をも巻き込みながら。
その時、キィ、と扉を開く音が聞こえて、もう一人の気配がした。オエッと嘔吐いた後、
「……ねぇ……もうやった……?」
と女の声がおそるおそる問うた。美咲が風呂からあがってきたようだ。
「ああ。もうすぐ死ぬだろ」
対する及川の声は、人を切った後とは思えないほど落ち着いていた。
あたりはトマトジュースの入った紙パックを二、三本ぶち撒けたかのような有り様だった。無論、一リットルのパックだ。
まさに血の海。そう形容するのが適当だが、その勢いはとどまることを知らない。
「……見ねぇの? お前を散々苦しめたバカ旦那の死に顔だぜ」
「…………隣の部屋の押し入れまで運んでおいてって言ったでしょ」
「へいへい」
美咲の冷えた声が響いた。
ガッと乱暴に腕を掴まれ、僕は赤く生温かい絨毯の上を引きずられていく。次第に意識が遠のいていく中、もう痛みは感じなくなっていた。
死とはあまりにもあっけないものだ。僕にはそう感じられた。三十年という年月を、病気とは無縁の健康な体ですごしてきたのに、命とはなんと儚いことか。
やがて、僕は硬く冷たい床の上にゴミのように捨てられた。ダン、と大きな音が聞こえて、襖が勢いよく開けられたのだとわかる。腹を蹴られ、僕は石ころのように転がった。
「ザマァねぇな」
耳に落ちた声を最後に、僕は意識を手放した。
◇◆◇




