残った言葉
――Solve.
――Compare.
――Coagula.
最初にあったのは、その三つだった。
意味は分からない。
どこで聞いたのかも、誰に教えられたのかも分からない。
ただ、それだけは妙にはっきりしていた。
忘れてはいけない。
そんな気さえした。
次に、光があった。
眩しい。
何かが聞こえる。
けれど、それが何を意味する音なのか分からない。
身体を動かそうとして、思うように動かないことに気づいた。
声を出そうとすると、喉から自分でも驚くほど甲高い音が漏れた。
すると、誰かが近づいてきた。
温かいものに抱き上げられる。
知らない声と、知らない匂い。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
その時のことを、シオンは後になってもほとんど覚えていない。
覚えているのは、三つの言葉だけだった。
⸻
シオン・リーメルが物心をついた頃には、自分が少し変わった子供だという自覚があった。
と言っても、大人の言葉を何でも理解できたわけでも、読み書きができたわけでもない。
ただ、気になることを放っておけなかった。
木の匙を落とせば、もう一度落とす。
高いところから落とした時と、低いところから落とした時で音が違えば、なぜ違うのかが気になる。
父のガルドが店の奥から呼ばれてくるまでの時間も、なぜか毎回数えていた。
泣けばすぐ来る時もあれば、なかなか来ない時もある。
何が違うのか。
それを考えるのが、シオンには面白かった。
「またやってるの?」
柔らかな声がして、頭を撫でられる。
母のフィリアだった。
シオンは床に転がった二本の木匙を見比べた。
「こっちのほうが、おと、おおきい」
「そうね」
「なんで?」
「なんでだろうねえ」
フィリアは答えを教える代わりに笑った。
シオンは少し不満だったが、その笑顔は嫌いではなかった。
⸻
シオンが二歳になった頃、妹のティアが生まれた。
小さくて、よく泣いた。
最初のうちは、それくらいにしか思っていなかった。
それでもティアが泣けば気になり、寝ていれば起こさないように少し静かにする。
母が忙しそうなら、近くにある布を持っていった。
できることは少なかったが、シオンなりに兄になっていった。
ティアが生まれてから、二度目の冬を迎える前だった。
フィリアは病で亡くなった。
当時のシオンに理解できたのは、ある日から母が家にいなくなったということだけだった。
何日待っても帰ってこない。
父に聞くと、いつもより少し長く黙ったあとで答えた。
「母さんは、もう帰ってこない」
それ以上は聞かなかった。
なぜか、その時だけは。
幼い頃の母について、後にシオンが思い出せることは多くない。
声と、手の温かさ。
少し甘い匂い。
そして、質問をしても嫌な顔をしなかったこと。
それくらいだった。
⸻
ガルドは器用な男ではなかった。
商売では客の顔も仕入れ値もよく覚えているのに、料理になると同じものばかり作った。
洗濯物は畳めても、どこにしまったか忘れる。
ティアの髪を結ぶことは、特に上達しなかった。
「兄ちゃん、いたい」
「父さんに言え」
「父さん、もっといたい」
「……すまん」
ティアが四歳になった頃には、そんなやり取りも珍しくなくなっていた。
シオンが横から手を出す。
「動くなよ」
「シオンのほうが上手!」
「それは褒めてるのか?」
「父さんより!」
「比較対象が悪いだろ」
ガルドが苦笑する。
三人で暮らすようになってから、シオンは自然と店を手伝うようになった。
リーメル商店。
アルネアの中央区から少し外れた通りにある、小さな店だった。
保存食や油、紐、簡単な薬草、旅人向けの道具など、暮らしに必要なものを少しずつ置いている。
大きな商会には敵わない。
それでも、近所の人間はよく店へ顔を出した。
ガルドは儲け話よりも、客との付き合いを大事にした。
幼いシオンには、その理由がよく分からなかった。
同じ商品なら、高く売れた方がいい。
同じ金額なら、安く仕入れた方がいい。
単純な話に思えた。
けれど父は時々、計算に合わないことをした。
長く付き合っている客には少し安く売り、支払いを待つこともある。
農家が困っていれば、予定より多く仕入れることもあった。
「損してない?」
ある日シオンが聞くと、ガルドは商品の木箱を閉じながら答えた。
「今日はな」
「今日は?」
「そのうち分かる」
それ以上は教えてくれなかった。
シオンは少し考えて、覚えておくことにした。
分からないことは、まだ多かった。
⸻
異変が起きたのは、シオンが六歳になったばかりの頃だった。
その日は店番をしているガルドの横で、商品の整理を手伝っていた。
二袋の乾燥豆が置かれている。
片方は大きな袋で、もう片方は少し小さい。
けれど持ち上げてみると、感覚は思ったほど変わらなかった。
シオンは袋を交互に見る。
どちらが重いのだろう。
ただ、それだけだった。
次の瞬間、視界が変わった。
「……?」
二つの袋の輪郭だけが、妙にはっきりと浮かぶ。
その間を、何かが結んだ。
線。
そう思った時には、もう分かっていた。
左。
左の方が重い。
理由は分からない。
どれくらい違うのかも分からない。
ただ、左だった。
シオンは眉を寄せる。
もう一度、二つを見る。
同じ感覚。
左。
「父さん」
返事がない。
「父さん?」
ガルドは、シオンの顔をじっと見ていた。
手に持っていた帳簿が、ゆっくりと下がる。
「シオン」
「なに?」
「動くな」
いつもと声が違った。
ガルドが近づいて膝をつき、シオンの顔を両手で挟んで片目を覗き込む。
「……いつからだ?」
「なにが?」
「目だ」
シオンは瞬きをした。
痛みはない。
見え方も、さっきの妙な感覚を除けば普通だった。
ガルドは店の奥から小さな鏡を持ってくる。
「見てみろ」
鏡を覗く。
シオンはしばらく、その意味が分からなかった。
右目はいつもの色。
けれど、左目だけが違っていた。
虹彩の色が変わっている。
光の加減ではない。
明らかに別の色だった。
その奥には、ごく薄い線のような模様が浮かんでいる。
「……これ、なに?」
ガルドは答えなかった。
代わりに、大きく息を吐く。
店の外にいた近所の男が、様子を覗き込んだ。
「どうした、ガルド」
「……祝紋が出た」
「は?」
男がシオンを見る。
そして、目を見開いた。
「眼……?」
その声を聞いた別の人間まで、店先から顔を覗かせる。
「六歳だろ?」
「眼部祝紋か?」
「《鑑定》じゃないのか?」
「いや、虹彩まで変わってるぞ」
言葉が飛び交う。
シオンには半分も分からなかった。
ただ一つ、みんなが自分の左目を見ていることだけは分かった。
ガルドはすぐに店の札を裏返した。
本日閉店。
「父さん?」
「祝紋院へ行く」
「いま?」
「ああ」
「店は?」
「今日はいい」
ガルドがこんなふうに店を閉めるのは珍しかった。
それだけで、これは普通のことではないのだと分かった。
シオンはもう一度、鏡を見る。
左右で違う色になった自分の目。
その奥に残る、細い模様。
そして、ほんの少し前に見えた二つの袋。
線と傾き。
そこから分かった答え。
それらが何なのかは、まだ分からない。
ただ、なぜか頭の奥にずっと消えずに残っている三つの言葉のうち、一つだけが浮かんだ。
――Compare.
シオンは鏡の中の自分を見つめた。
その言葉が何を意味するのか。
この目が何なのか。
この時の彼は、まだ何も知らなかった。




