↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
比較不能 ―《比較解析》の少年と、正解のない世界  作者: たんぱくしつ
第一章 比較する少年

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/39

残った言葉

――Solve.


――Compare.


――Coagula.


最初にあったのは、その三つだった。


意味は分からない。


どこで聞いたのかも、誰に教えられたのかも分からない。


ただ、それだけは妙にはっきりしていた。


忘れてはいけない。


そんな気さえした。


次に、光があった。


眩しい。


何かが聞こえる。


けれど、それが何を意味する音なのか分からない。


身体を動かそうとして、思うように動かないことに気づいた。


声を出そうとすると、喉から自分でも驚くほど甲高い音が漏れた。


すると、誰かが近づいてきた。


温かいものに抱き上げられる。


知らない声と、知らない匂い。


それなのに、不思議と怖くはなかった。


その時のことを、シオンは後になってもほとんど覚えていない。


覚えているのは、三つの言葉だけだった。



シオン・リーメルが物心をついた頃には、自分が少し変わった子供だという自覚があった。


と言っても、大人の言葉を何でも理解できたわけでも、読み書きができたわけでもない。


ただ、気になることを放っておけなかった。


木の匙を落とせば、もう一度落とす。


高いところから落とした時と、低いところから落とした時で音が違えば、なぜ違うのかが気になる。


父のガルドが店の奥から呼ばれてくるまでの時間も、なぜか毎回数えていた。


泣けばすぐ来る時もあれば、なかなか来ない時もある。


何が違うのか。


それを考えるのが、シオンには面白かった。


 「またやってるの?」


柔らかな声がして、頭を撫でられる。


母のフィリアだった。


シオンは床に転がった二本の木匙を見比べた。


 「こっちのほうが、おと、おおきい」


 「そうね」


 「なんで?」


 「なんでだろうねえ」


フィリアは答えを教える代わりに笑った。


シオンは少し不満だったが、その笑顔は嫌いではなかった。



シオンが二歳になった頃、妹のティアが生まれた。


小さくて、よく泣いた。


最初のうちは、それくらいにしか思っていなかった。


それでもティアが泣けば気になり、寝ていれば起こさないように少し静かにする。


母が忙しそうなら、近くにある布を持っていった。


できることは少なかったが、シオンなりに兄になっていった。


ティアが生まれてから、二度目の冬を迎える前だった。


フィリアは病で亡くなった。


当時のシオンに理解できたのは、ある日から母が家にいなくなったということだけだった。


何日待っても帰ってこない。


父に聞くと、いつもより少し長く黙ったあとで答えた。


 「母さんは、もう帰ってこない」


それ以上は聞かなかった。


なぜか、その時だけは。


幼い頃の母について、後にシオンが思い出せることは多くない。


声と、手の温かさ。


少し甘い匂い。


そして、質問をしても嫌な顔をしなかったこと。


それくらいだった。



ガルドは器用な男ではなかった。


商売では客の顔も仕入れ値もよく覚えているのに、料理になると同じものばかり作った。


洗濯物は畳めても、どこにしまったか忘れる。


ティアの髪を結ぶことは、特に上達しなかった。


 「兄ちゃん、いたい」


 「父さんに言え」


 「父さん、もっといたい」


 「……すまん」


ティアが四歳になった頃には、そんなやり取りも珍しくなくなっていた。


シオンが横から手を出す。


 「動くなよ」


 「シオンのほうが上手!」


 「それは褒めてるのか?」


 「父さんより!」


 「比較対象が悪いだろ」


ガルドが苦笑する。


三人で暮らすようになってから、シオンは自然と店を手伝うようになった。


リーメル商店。


アルネアの中央区から少し外れた通りにある、小さな店だった。


保存食や油、紐、簡単な薬草、旅人向けの道具など、暮らしに必要なものを少しずつ置いている。


大きな商会には敵わない。


それでも、近所の人間はよく店へ顔を出した。


ガルドは儲け話よりも、客との付き合いを大事にした。


幼いシオンには、その理由がよく分からなかった。


同じ商品なら、高く売れた方がいい。


同じ金額なら、安く仕入れた方がいい。


単純な話に思えた。


けれど父は時々、計算に合わないことをした。


長く付き合っている客には少し安く売り、支払いを待つこともある。


農家が困っていれば、予定より多く仕入れることもあった。


 「損してない?」


ある日シオンが聞くと、ガルドは商品の木箱を閉じながら答えた。


 「今日はな」


 「今日は?」


 「そのうち分かる」


それ以上は教えてくれなかった。


シオンは少し考えて、覚えておくことにした。


分からないことは、まだ多かった。



異変が起きたのは、シオンが六歳になったばかりの頃だった。


その日は店番をしているガルドの横で、商品の整理を手伝っていた。


二袋の乾燥豆が置かれている。


片方は大きな袋で、もう片方は少し小さい。


けれど持ち上げてみると、感覚は思ったほど変わらなかった。


シオンは袋を交互に見る。


どちらが重いのだろう。


ただ、それだけだった。


次の瞬間、視界が変わった。


 「……?」


二つの袋の輪郭だけが、妙にはっきりと浮かぶ。


その間を、何かが結んだ。


線。


そう思った時には、もう分かっていた。


左。


左の方が重い。


理由は分からない。


どれくらい違うのかも分からない。


ただ、左だった。


シオンは眉を寄せる。


もう一度、二つを見る。


同じ感覚。


左。


 「父さん」


返事がない。


 「父さん?」


ガルドは、シオンの顔をじっと見ていた。


手に持っていた帳簿が、ゆっくりと下がる。


 「シオン」


 「なに?」


 「動くな」


いつもと声が違った。


ガルドが近づいて膝をつき、シオンの顔を両手で挟んで片目を覗き込む。


 「……いつからだ?」


 「なにが?」


 「目だ」


シオンは瞬きをした。


痛みはない。


見え方も、さっきの妙な感覚を除けば普通だった。


ガルドは店の奥から小さな鏡を持ってくる。


 「見てみろ」


鏡を覗く。


シオンはしばらく、その意味が分からなかった。


右目はいつもの色。


けれど、左目だけが違っていた。


虹彩の色が変わっている。


光の加減ではない。


明らかに別の色だった。


その奥には、ごく薄い線のような模様が浮かんでいる。


 「……これ、なに?」


ガルドは答えなかった。


代わりに、大きく息を吐く。


店の外にいた近所の男が、様子を覗き込んだ。


 「どうした、ガルド」


 「……祝紋が出た」


 「は?」


男がシオンを見る。


そして、目を見開いた。


 「眼……?」


その声を聞いた別の人間まで、店先から顔を覗かせる。


 「六歳だろ?」


 「眼部祝紋か?」


 「《鑑定》じゃないのか?」


 「いや、虹彩まで変わってるぞ」


言葉が飛び交う。


シオンには半分も分からなかった。


ただ一つ、みんなが自分の左目を見ていることだけは分かった。


ガルドはすぐに店の札を裏返した。


本日閉店。


 「父さん?」


 「祝紋院へ行く」


 「いま?」


 「ああ」


 「店は?」


 「今日はいい」


ガルドがこんなふうに店を閉めるのは珍しかった。


それだけで、これは普通のことではないのだと分かった。


シオンはもう一度、鏡を見る。


左右で違う色になった自分の目。


その奥に残る、細い模様。


そして、ほんの少し前に見えた二つの袋。


線と傾き。


そこから分かった答え。


それらが何なのかは、まだ分からない。


ただ、なぜか頭の奥にずっと消えずに残っている三つの言葉のうち、一つだけが浮かんだ。


――Compare.


シオンは鏡の中の自分を見つめた。


その言葉が何を意味するのか。


この目が何なのか。


この時の彼は、まだ何も知らなかった。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。