第十二話:境界の解体者
新宿は、もはや現世の地図に記されるべき場所ではなかった。
東京都庁を核として開通した「次元の門」は、周囲の物理法則をどん欲に喰らい尽くし、再構築を続けていた。天を衝く高層ビル群は、解像度の低いテクスチャが剥がれるようにして輪郭を崩し、その裂け目からは不気味に発光する巨大なシダ植物や、重力を無視して浮遊する岩塊が突き出している。
空から降り注ぐのは、赤い雪から変質した「黒い雨」だ。それは物質の存在定義を汚染し、触れたコンクリートを音もなく泥へと変えていく。かつての繁栄の象徴であった大通りには、情報のオーバーロードによって精神を焼き切られた人々の「残響」が、砂嵐のようなノイズを撒き散らしながら彷徨っていた。
その地獄の支配者として、それは静かに立っていた。
境界種――『ディメンション・リッパー』。
三メートルを超える細長い巨躯は、剥き出しの神経束を無理やり編み込んだような不気味な質感を持ち、その全身からは周囲の空間を物理的に「削り取る」ための高周波が絶え間なく発せられていた。顔の中央、銀色に輝く「虚無の瞳」が一つだけ据えられ、それは獲物を探すのではなく、この世界の「記述」そのものを消去すべき対象として冷徹に観測している。
「――全班、……撃て、……撃ち続けなさい……ッ!!」
瓦礫の影から、白銀冴華の悲痛な叫びが響いた。
彼女の指揮のもと、ホワイト・ホールの重武装部隊が、最新鋭の「対魔磁界発生装置」をフル稼働させていた。車両に搭載されたレールガンが、疑似魔素を纏った特殊徹甲弾を次々とリッパーへと叩き込む。本来なら特級悪魔をも沈めるはずのその一撃は、しかし、リッパーの周囲数メートルに展開された『魔界化領域』に触れた瞬間、パチンと安っぽい火花を散らして、この世界から「消滅」した。
リッパーがその長い腕を横に一閃した。
その動作は、あまりに緩慢で、それでいて不可避の死を告げる断罪。
ズウゥゥゥゥン、という、空間そのものが削られる重低音。リッパーの腕が通過した軌道上のすべて――最新鋭の装甲車も、防壁となっていたビルの一部も、そして数名の国家戦闘員も――が、断面さえ残さず消失した。そこにはただ、紫色の残光が「データの欠落」を告げるように揺らめいているだけだ。
「……嘘、でしょ……」
冴華の右腕に握られていた対魔高振動ブレードは、リッパーの不可視の余波に触れただけで、根元から砂のように崩れ去っていた。
彼女は人工魔素アンプルの過剰摂取により、血管が青白く発光し、皮膚の至る所が内側からの熱で焼き付いていた。視界は赤く染まり、思考は情報の摩擦で千々に乱れる。彼女がこれまでの人生のすべてを賭けて手に入れた「力」は、目の前の境界種という「格」の前では、羽虫の羽ばたきほどの意味も持たなかった。
リッパーの銀色の瞳が、ゆっくりと冴華へと向けられた。
死の確定。彼女の精神がその「絶対的な理」に耐えきれず、自ら崩壊を選ぼうとした、その時だった。
「――掃除の手間が増えるだろうが。……そんなところに座り込むな、銀髪」
不協和音と絶叫が支配する戦場に、場違いなほど「明瞭な」声が響いた。
空を覆う黒い雨を、目に見えない圧力で押し退けるようにして、一人の少年が瓦礫の頂に降り立った。
九条灰世。
彼の背負った楽器ケースは既に無く、制服は激戦を物語るようにボロボロに裂けている。その右手には、不気味な灰色の雷光を纏った剛剣『レーヴァテイン』が握られていた。
灰世の「解像度」の網膜は、リッパーが展開している『魔界化領域』の構造を、ミリ単位の精度で透過していた。
(……なるほどな。周囲の事象を『無』として定義し直してやがる。……道理で、不純物だらけの人工魔素じゃ触れることもできないわけだ)
灰世は、絶望に震える冴華の横を、あくびでも出そうなほど平然とした足取りで通り過ぎた。
「逃げなさい……九条灰世……っ! あんなの、人間が……デビルハンターが戦える相手じゃない……! 座標ごと、消されるわよ!」
冴華の叫びを、灰世は鼻で笑った。
「……お前らホワイト・ホールの目は、節穴か? ……それとも、あまりに嘘ばかり吐きすぎて、正しい情報の見方を忘れたか?」
灰世がリッパーの正面十メートルで足を止めた。
リッパーの銀色の瞳が、侵入者を排除すべく、不吉なリズムで明滅を開始する。
直後、リッパーの両腕が、音速を超えた「空間の裁断」を放った。
キィィィィィィィン……ッ!!
冴華の視界では、灰世の身体が十字に分断され、そのまま消失したように見えた。
だが。
「……お前の『消しゴム』は、少しばかり動きが単調なんだよ」
灰世は、断絶された空間の「隙間」に、髪の毛一本分の精度で滑り込んでいた。
彼の解像度は、リッパーが空間を削り取る直前の『座標の予兆』を赤い警告ラインとして視覚化していた。灰世はその線の合間を、まるでダンスでも踊るような最小限の挙動で縫い歩いていく。無駄な回避行動は一切ない。一歩ごとに、リッパーという名の絶望へと、確実に距離を詰めていく。
「バカな……!? 避けているんじゃない……あの男、情報の『継ぎ目』を歩いているの……?」
冴華は驚愕に息を呑んだ。どれほど強化された身体能力を持っていても、物理的に「存在しないはずの安全地帯」を歩むことなど不可能だ。しかし、灰世にとっては、この複雑怪奇な空間のねじれこそが、最も「解像しやすい」単純な情報の羅列に過ぎなかった。
灰世はリッパーの懐深くへと踏み込むと、剛剣を逆手に持ち替えた。
「……さて。……まずは、そのうるさい『目』から潰してやる」
剣が一閃。
剣先がリッパーの銀色の瞳を掠めた瞬間、空間が物理的な破砕音を立てて爆ぜた。リッパーは初めて「苦痛」に似た不協和音を上げ、一歩後退した。自身の絶対領域を、物理的な鋼の剣で突破されたことが、その論理構造に深刻な矛盾を引き起こしていた。
「グ……ア、……ォォォォォッ!!」
リッパーの全身から、黒いノイズが噴き出す。怒りによる自己防衛。周囲の瓦礫が、重力を無視した渦となって灰世を押し潰そうと殺到する。もはや目視での回避が不可能な、全方位からの飽和攻撃。
その瞬間、灰世の脳内に、かつて母が謳っていた守りの歌と同じ、澄み渡った「声」が響いた。
『――情報の初期化を……拒絶します』
(……あぁ、そうか。……分かってるよ。母さん。……俺の本当の『役割』は、掃除だけじゃないんだな)
灰世は、静かに目を閉じた。
彼の内側にある「血」が、限界まで蓄積された魔素を燃料にして、爆発的な変質を遂げる。心臓がかつてないほど激しく脈動し、血管の中を流れるのは血液ではなく、高精細な銀色の「法」へと書き換えられていく。
――無意識の領域展開:灰色の聖域。
灰世を中心に、新宿の全域から色彩が完全に剥ぎ取られた。
紫の残光も、不気味な赤も、すべてが緻密な濃淡のある「灰色」の静寂へと塗り潰される。
この領域内では、リッパーが誇る「空間の断絶」さえも、灰世が認めた『正しい記述』に上書きされる。領域を展開した瞬間、灰世に迫っていた瓦礫の山は、ただの柔らかな砂となってサラサラと空中を舞い、地面へと静かに降り積もった。
灰世がゆっくりと目を開ける。
彼の灰色の瞳は、いまや瞳孔の形を失い、銀色に輝く幾何学的な紋様――『アッシュ・コード』そのものへと変貌していた。
「……お前、さっきから随分と、この街を勝手に解体してくれたな」
灰世の一歩が、周囲の大気を物理的に押し退ける。
リッパーは恐怖を知らぬはずの境界種でありながら、このモノクロームの支配者に対し、本能的な「死」を検知した。その銀色の瞳が、灰世という情報の質に耐えきれず、パチパチと火花を散らしながら崩壊を始める。
「……俺の妹が、この街の飯を美味いと言ったんだ。……慶介みたいなバカが、ここで一生バカ騒ぎするって決めてるんだよ」
灰世が剛剣を正しく構え、重心を低く沈める。
「お前みたいな、出所不明の粗大ゴミが……削っていい世界じゃねえんだよ」
加速などという言葉では生ぬるい。それは、領域内の全座標を灰世が「掌握」した結果としての、事象の飛び越し。
剣の刃が、リッパーの胸の中央――情報の収束点である『真名の刻印』を正確に、そして冷酷に捉えた。
ズウゥゥゥゥゥゥゥン……ッ!!
空間全体が、物理的に震動し、軋みを上げた。
灰世の剣を触媒にして、新宿上空の「次元の門」を支えていた膨大なエネルギーが、一気に逆流(還流)を開始した。リッパーの身体が、情報の塵となって解体されていく。その全てを、灰世の右腕がどん欲に、飢えた獣のように吸い込んでいく。
その光景は、救済などという情緒的なものではなかった。
それは、現世という名の脆弱な器を守るために、異世界の理を力ずくで「捕食」し、無効化する、最強の掃除屋による暴虐の極致。
一分と経たず、新宿の中心からリッパーの気配は消え失せた。後に残ったのは、色彩を失ったまま静まり返った広大な廃墟と、肩で激しい呼吸を繰り返す一人の少年だけだ。
領域が解除され、世界にゆっくりと色が戻り始める。
灰世は、地面に突き立てた剛剣を杖にして、ようやく立ち上がっていた。
彼の右腕は、もはや人間のそれには見えなかった。皮膚の代わりに、硬質な灰色の鱗(魔皮)が肘までを覆い、指先からは不気味な余剰魔素の蒸気が立ち昇っている。奪い取ったリッパーの質量が、灰世の肉体を内側から「人ならざる存在」へと作り替えようとしていた。
「……あ……、……九条、……くん……」
背後から、震える声がした。
満身創痍の身体を引きずり、冴華が灰世へと歩み寄ろうとしていた。その瞳には、救世主への感謝ではなく、理解を超えた「究極の異物」に対する、形容しがたい戦慄が宿っていた。
灰世は、彼女を振り返らなかった。ただ、灰色の瞳を新宿の夜空へと向けた。
「……銀髪。……今のことは、好きに報告しろ。……ガス爆発でも、大規模テロでも。……お前らの得意な『嘘』で、このゴミ溜めを塗り潰せ」
灰世はそれだけを言い残すと、重い足取りで封鎖された新宿の闇へと消えていった。
雨は、いつしか止んでいた。
だが、見上げれば、都庁上空の「次元の傷跡」は、リッパーを失ってもなお、不気味に赤く口を開けたまま、世界の終わりが近いことを告げていた。
♢
夜明け。
新宿の街は、自衛隊とホワイト・ホールの回収班によって厳重に封鎖された。
瓦礫の山に立つ冴華は、自身の右腕を無意識にさすった。灰世の「領域」に触れたせいか、焼き切れていたはずの魔素回路が、奇跡的に修復され、不思議な温もりを帯びているのを感じていた。
(九条、灰世。……貴方は、本当に、何者なの……?)
その時、彼女の背後の空間が、音もなく波打った。
「――見事なものだね。……現世の掃除屋くんの『解像』は。私の期待を遥かに上回っている」
冴華がハッとして振り返ったが、そこには誰もいない。
ただ、朝日を浴びた瓦礫の上に、一瞬だけ、豪奢な漆黒の外套を纏い、灰世と同じ醒めた瞳を持った男の残像が浮かび上がった。
魔界の先導者、バルタザール。
「九条灰世。……君の物語は、まだ始まったばかりだ。……真実を知りたければ、その剣を携え、境界を越えて来たまえ。……ヴェリス・ガイアが、君の『正体』を待っている」
残像は、嘲笑うような笑みを残して霧散した。
♢
同じ頃、九条家。
朝日が差し込むリビングで、舞はルナリエルの膝の上で、安らかな寝息を立てていた。
彼女の容態は安定していたが、首元のペンダントは、もはや現世の光を反射してはいなかった。それは、異世界との「接続」を完全に確立してしまった、不可逆の変質の証だった。
ルナリエルは、窓の外で不自然に蒼く染まっていく東京の空を見上げ、独りごちた。
「……灰世様。……世界は、もう戻りません。……貴方が命懸けで守ろうとしたこの日常は、ここから加速して……『真実』へと書き換えられてしまいます」
彼女は、玄関の方へと視線をやった。
そこには、朝飯のトーストの匂いを待ちわびる平和な風景など、もうどこにも無かった。
九条灰世が守り抜こうとした聖域の壁は、いまや完全に瓦解し、少年の運命は、カサカサに乾いた現世から、魔素が歌う血塗られた異世界へと、強引に引きずり出されようとしていた。




