第十一話:日常の軋みと隠蔽の限界
朝、窓の外に広がっていたのは、見慣れた東京の死に際だった。
夜通し降り続いた「赤い粉」は、アスファルトを薄汚れた錆色に染め上げ、街路樹の葉を毒々しく変色させていた。九条灰世が自室のカーテンを僅かに開けると、そこには昨日までの「カサカサに乾いた世界」が、湿った情報の汚泥によって窒息させられようとしている光景があった。
テレビのニュース画面は、激しいノイズを撒き散らしながら、引き攣ったような笑顔のキャスターを映し出していた。
『……現在、都内全域で発生している「赤い粉」は、大規模な気象異常と、特定地域の化学工場における事故が重なったものと見られます。……当局によれば、人体への影響は限定的であり、落ち着いて行動を……。……なお、各地で報告されている「巨大な影」については、視覚的な錯覚による集団ヒステリーの可能性が極めて高く……』
「……錯覚、ね。……よくもまあ、ここまで壊れた世界を『嘘』で繋ぎ止めようと思えるもんだ」
灰世は電源を切り、暗転した画面に映る自分の顔を冷めた瞳で見つめた。
その顔は、睡眠不足というよりも、情報の過負荷によってやつれきっていた。
灰世の「解像度」の網膜には、テレビの向こう側で政府が必死に塗り固めた『美しい嘘』のテクスチャが、ボロボロと剥がれ落ちていく様が手に取るように分かった。国家組織『ホワイト・ホール』による隠蔽工作は、もはやダムの決壊を素手で止めようとするような、滑稽な段階に達している。
灰世はリビングへと視線をやった。
そこでは、ルナリエルがソファの横に立ち、祈るような姿勢で舞の様子を見守っていた。
舞はリビング中央に敷かれた布団の中で、荒い呼吸を繰り返している。
昨夜の「透明化」を伴う激しい覚醒は収まっていたが、その肌からは今も断続的に、微細な情報の光が漏れ出していた。彼女の首元に戻った青いペンダントは、舞の「器」としての格に応じるように、鈍い輝きを放ちながら、彼女の精神をかろうじて現世の側に繋ぎ止めていた。
「灰世様、舞様の容態は……安定しているように見えます。ですが、彼女の肉体が『あちら側』の情報をこれほどまでに吸い込んでいる以上、この場所――この世界に留まること自体が、彼女にとっての猛毒になりかねません」
ルナリエルの翠の瞳には、かつてないほどの危惧が宿っていた。彼女自身の遮断具も、環境中の魔素の上昇により、黒く焦げたような跡を刻んでいる。
「分かってる。……だが、今は動かせない。……外は、もうデビルハンターの手に負える状況じゃない」
灰世はそう答えながら、自らの右腕を強く握りしめた。
血管の奥で、奪い取った魔素が熱湯のように逆流している。環境中の魔素濃度が上がったことで、灰世の体内にある「魔人の血」が、外側の理と勝手に共鳴を始めているのだ。一歩歩くたびに、腕の骨がミシミシと軋み、視界が灰色に染まろうとする。
その時、灰世のスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、相馬慶介の名前だった。
「……ハイセ、か? ……助けてくれ、ハイセ……ッ!」
通話に出た瞬間、慶介の震える声が鼓膜を刺した。背後からは、何かが激しく粉砕される音と、逃げ惑う人々の絶叫が入り混じっていた。
「慶介、落ち着け。どこにいる」
「新宿の……南口の広場だ……ッ! バカだよな、俺。……赤い雪が珍しくて、動画のネタになると思って……。……でも、違うんだ、ハイセ。……空に、空に……『手』がいるんだよ! 巨大な、黒い……あんなの、錯覚なんてレベルじゃねえ……ッ!」
慶介の叫びは、真実を視る術を持たなかった一般人の脳が、情報のオーバーロードによって強制的に「解像」を強いられた際の、魂の悲鳴だった。
「みんな、……みんなおかしなこと言ってるんだ! 『ただの霧だ』って笑ってるヤツがいたと思ったら、その次の瞬間には、そのヤツの足元から『泥』が這い出してきて……ッ! ハイセ、見えてるんだろ!? お前にはずっと、この地獄が見えてたんだろ!?」
灰世は、唇を噛み締めた。
慶介のような「日常」の象徴だった男に、真実を突きつけられるこの瞬間を、灰世は一番恐れていたのかもしれない。
「……慶介、動くな。建物の奥へ逃げろ。なるべく窓のない場所だ。……ホワイト・ホールの回収班がすぐに行く。……死ぬなよ、相馬。……お前にノートを返してないんだ」
「ハイセ……ッ、うわぁぁぁぁぁッ!!」
通話は、金属質の咆哮と共に強制的に切断された。
灰世は、液晶の消えた端末をポケットにねじ込んだ。彼の瞳の中で、幾何学紋様がかつてないほどの鮮明さで浮かび上がり、高速で回転を始める。
「ルナリエル、舞を頼む。……俺は、外の『ゴミ』を片付けてくる」
「ですが灰世様、そのお身体では……!」
「ゴミを放置したまま、この家で舞に朝飯は食わせられない。……不法投棄の主に、落とし前をつけさせるだけだ」
灰世は楽器ケースを担ぎ直し、溶解した玄関の扉を蹴り開けて外へと飛び出した。
同じ頃、新宿三丁目。
都庁へ続く大通りは、今や戦場と化していた。
政府が投入した自衛隊の特殊部隊が、最新鋭の「対魔磁界発生装置」を装備した車両と共に展開しているが、その防衛線は既にボロボロだった。
上空の「次元の門」から溢れ出した『無冠』の群れは、もはや路地裏の影に潜むような臆病な捕食者ではなかった。彼らは真昼の太陽の下、人々の「認識の隙」を突くのではなく、物理的な質量を持って現世の理を蹂躙している。
「――出力最大! アンプルをもう一本寄こせ……ッ!」
白銀冴華は、膝をつきながら自身の右腕に三本目のアンプルを突き立てた。
銀髪は、高濃度の疑似魔素による排熱で、青白い火花を散らしている。彼女の蒼い瞳は充血し、視界の端々で神経の焼き付きによるノイズが走っていた。
「冴華、それ以上は危険だ! 細胞の崩壊速度が予測値を超えている!」
通信デバイスから響く霧崎の冷徹な声も、今の冴華には遠い雑音でしかない。
「……黙りなさい! 私たちがここで止めなければ……新宿は……東京は、地図から消えるのよ!」
冴華は対魔高振動ブレードを抜き放ち、眼前に迫る「不定形の巨獣」へと突進した。
彼女の【人工魔素・加速】が、空気を真空に変え、衝撃波と共に巨獣の胴体を切り裂く。だが、切断面からは瞬時に情報の修復が行われ、巨獣はさらなる怒りを持って冴華を叩き伏せようとする。
「真正の魔素が、……足りない……。……私たちの力じゃ、この書き換えを……止められない……」
冴華の口から、絶望が漏れた。
彼女の周囲では、何人もの国家戦闘員が、人工回路の暴走によって「マナ・オーバーロード」を引き起こし、絶叫と共に情報の残骸となって霧散していった。
隠蔽は終わった。
世界が認めたくない現実は、もはや国家の暴力をもってしてもねじ伏せられないほど、高精細に、そして残酷に「解像」されていた。
九条家の周辺にも、舞の放つ「光」に惹き寄せられた獲物たちが集まり始めていた。
住宅街の静かな道路に、どろりとした黒い影が幾つも立ち上がる。それらはかつて灰世が路地裏で狩ってきた悪魔たちとは、存在の「密度」が違っていた。アケロンの軍勢――『従属冠位』の尖兵たちだ。
「……一、二、……五体か。……朝の散歩にしては、少しばかり賑やかすぎるな」
灰世は、電柱の影から現れた、鴉の翼と人間の腕を併せ持つ歪な悪魔を見据えた。
彼の右腕は、もはや感覚を失っていた。代わりに、腕全体が不気味な灰色の光を放ち、皮膚が情報の断裂によって僅かに透けて見えている。
「グ……ゥ、ギギッ……、……見つけ……たぞ、……『器』の、番犬……」
先頭の悪魔が、人の言葉を模倣した不快な振動を発した。
「……番犬? 笑わせるな。……俺はただの、掃除屋だよ。……お前らみたいな、この街に相応しくない粗大ゴミを、正しい処分場に送り返すのが仕事だ」
灰世が楽器ケースのファスナーを引き裂き、剣を引き抜いた。
その瞬間、灰世を中心に、半径数十メートルの景色から色彩が完全に消失した。
――無意識の領域展開。
環境中の不純な魔素を強制的に排斥し、灰世の「正しい解像度」のみが支配するモノクロームの戦場。
悪魔たちが、初めて困惑したように後退した。彼らが誇る「恐怖による認識操作」が、この少年の領域内では、安っぽい手品のように無効化されているからだ。
「……さて。……一秒で終わらせてやる。……俺の日常を汚した罰だ」
灰世が踏み込む。
それは加速などという言葉では説明できない、事象の飛び越しだった。
灰世の視界では、悪魔たちの肉体構造は、もはや「もろい砂細工」にしか見えていない。どこを斬れば一滴の無駄もなく情報の還流が行えるか、その最適解が、視神経を通じて直接脳に書き込まれていた。
一振りの剣が、物理法則を無視した軌跡を描き、五体の悪魔の首を同時に跳ね飛ばした。
断末魔さえも、灰世の領域内では「ノイズ」として消去される。
悪魔たちの死骸が情報の塵となって霧散しようとするが、灰世はそれを許さない。剣を触媒にして、その全ての残滓を、飢えた怪物のように右腕へと吸い込ませた。
「……が、……はっ、あ……ッ!!」
血管が焼き切れる音を、灰世は確かに聞いた。
奪った魔素の質が、これまでとは比較にならないほど高く、鋭い。それは灰世の肉体を内側から「魔界の理」で作り替えようとする、侵略的な変質だった。
灰世は地面に剣を突き立て、膝をついた。激しく呼吸をするたびに、肺から灰色の煙が漏れ出す。
「……うぇ。……マズ、すぎる。……次は、……もっとクリアなやつに……しろよ……」
灰世が空を見上げた、その時だった。
ドォォォォォォォン……ッ!!
東京の重心、新宿・東京都庁の上空で、空が完全に「剥離」した。
剥がれた空の向こう側に、広大な紫の深淵が覗く。そこから這い出してきたのは、巨大な腕などという生ぬるいものではなかった。
「次元の門」が、完全開通したのだ。
門の奥から、現世の全生命の精神を直接叩き潰すような、圧倒的な「格」の咆哮が響き渡った。
境界種――『ディメンション・リッパー』。
この世界の座標そのものを削り取る解体者が、ついにこの「カサカサした庭」へと降り立った。
赤い雪は、いつしか黒い雨へと変わっていた。
九条灰世は、震える足で立ち上がり、血の味のする唾を吐き捨てた。
「……来るか。……最悪の、……不法投棄物が」
灰世は剣を正しく握り直し、絶望の色に染まった新宿の空へと視線を向けた。
平和な日常の終焉。そして、隠蔽されていた世界の真実が、残酷なまでに「解像」される。




