三章十二話[獣の影]
獣……?
いや――
「――でっけぇ……猫?」
何が起きたのか、ひっくり返ったワタリガメの腹の上にソイツは鎮座していた。
小麦色の毛並みに、稲妻のような虎模様……その背後には、揺れる尻尾が――“六本”。
琥珀色の双眸が、じっと俺を見据えている。
思わず腰の包丁に手をかけた。
――なんだ、コイツ………?
襲ってくる気配はない。でも、この存在感……警戒を解くことはできなかった。
体が、緊張する。
「――ご主じーん! 平気!?」
「ぅわぶッ!?」
レイの声。返事をしようとした瞬間、俺は衝撃で仰け反った。
「よかった! 怪我してないにゃ! 元気!」
「わ、分かったから! 抱きつくな! 動けねぇ……!」
今はそれどころじゃない。
アイツは……ッ!?
「……は?」
居ない。
振り返ったその先に獣はおらず、倒れて藻掻くワタリガメの姿しかなかった。
「お〜い! 旦那ぁ、大丈夫ですかい……っとぉ、こりゃ酷えや……」
遅れてやって来たラビさんが、ひっくり返ったワタリガメを見て足を止める。
「どうしたってんだ。なんだってこんな……」
「カメさん、転んだにゃ?」
「いや……」
違う。
「多分、転ばされたんだ。アイツに」
「アイツ? 誰にゃ?」
そこで俺は、自分が見たままの光景を皆に伝えた。
「……獣、ですかい」
「そんなのいたにゃ? レイ、覚えてにゃい」
「まあ、俺も一瞬しか見てねぇけど」
まるで白昼夢だ。
影すら残さず消えた六尾の獣。
本当にいたのか?
分からない。
俺は、自分の見たものが段々と信じられなくなっていた。
「いや、居たと思いやす」
意外なことに、肯定してくれたのはラビさんだ。
「旦那、さっきアッシが言おうとしたこと、覚えてやすか?」
「さっき?」
それって、確か……。
「妙なこと、ってやつ?」
「ええ、ええ。どうにもここ最近、妙なことが続いてやして」
そう言うと、ラビさんは咳払いして続けた。
「まさに今みてぇな状況かねぇ。こんな感じで荷車がひっくり返されちまった、って報告が増えてやして」
「そ、そうなんですか?」
おい、そんな話聞いてなかったぞ!
ここにはいないギリアンへ、心の中で文句を言う。
「いやまあ、そんだけならよくある話なんですがね……おかしいんですよ。野盗かなんかの仕業としたら、荷物がまるで荒らされてねぇってのは」
「金や食糧を狙ってる訳じゃない、と?」
「多分でやすがね」
ラビさんは、ひっくり返ったワタリガメに目を向けた。
「おまけに、狙われるのはウチの商会ばかり。これまで被害にあった連中が言うには……なにに襲われたのかも分からねぇってんだから、いよいよ奇妙だ」
そこで俺は思わず眉を顰めた。
「じゃあ、今俺が見たのは……」
「分かりやせん。ただ、無関係とは思えねぇ」
ラビさんは困ったように頭を掻いた。
「とにかく、旦那が見たヤツが一連の犯人だってんなら気を付けねぇと。まだ……近くには居るでしょうから」
警戒態勢。俺は、もう一度周囲を見回した。
広い道の両側には、木々が生い茂る森が広がっている。
謎の襲撃者、アイツは……今もどこかから俺達を見ているんだろうか?
「……ねぇねぇ、ご主人?」
レイが俺の服の裾を引いた。
「なんだ?」
「カメさん、起こしてあげないの? ずっと助けて〜って言ってるにゃ」
「あっ!」
そうだった。考え込んでる場合じゃない。
まずこのワタリガメを起こさなきゃ、俺達は此処で立ち往生だ。
そろそろ日も沈む。ここで野宿するのは……あまり気が進まない。
俺達は顔を見合わせ、ひっくり返った巨体へと駆け寄った。
が、しかし――
「――お、重た……っ」
「にゃ〜。レイ、もう駄目……」
「かぁ〜! やっぱり、無理でやしたか……せめてあと一人、戦闘職の方が居りゃあ」
俺達三人に加えて亀車の御者さん。計四人でワタリガメの巨体を元に戻そうとしたが、びくともしない。
俺の炎魔法でぶっ飛ばそうかとも考えたが、それは思いとどまった。流石に動物愛護団体に訴えられる。
「……しゃあねえ。ちょいと皆さんは待っててくれやすか?」
「どうするんですか?」
「あっしがひとっ走り村まで行って来やすよ。幸い、カルムまではそう遠くねぇし、事情を話せば人手を貸してくれるはずだ。だから、旦那にはそれまで護衛を頼みやす」
頭を下げるラビさん。
まあ、断る理由はない。というか、それしか手段がなさそうだ。
「分かりました。でも、一人で大丈夫ですか?」
「任してくだせぇ。こう見えて逃げ足には自信があるんで!」
ビシッと一礼して走り去るラビさん。
「そんじゃ時間が惜しい。行ってきやす!」
「はい、お気を付けて」
「いってらにゃ〜」
手を振り、離れていく背中を見送る。
本人が言った通りなかなかの速さだ。この分なら、夜になる前にはなんとかなるかもしれないな。
「さて……」
残されたのは、俺達三人と一匹。
――どうしようか?
周囲を警戒する以外、特にやることもない。
手持ち無沙汰でいる中、
「ねぇご主人、レイお腹空いたにゃ〜」
「はぁ?」
この状況で……まったく、暢気な奴だな。
まあ、いいか。ここでずっと緊張しててもしょうがねぇ。
町で買った食材もいくらか余ってるし。ちょっと早いけど、夕ご飯にしよう。
「分ーったよ。ちょっと待ってろ」
「やった! レイもお手伝いするにゃ〜」
分かりやすくテンションの上がったレイと一緒に、俺は道具の用意を始めた。




