二章三十三話[大波小波]
「な……な……ッ」
言葉が出ない。
恐怖と絶望が、その場に振り注いでいるみたいだった。
――“ナーガ”。
青き災厄と。
そう呼ばれた怪物は、まだ全容すら現していない。
にもかかわらず、その体躯は月にも届きそうな程巨大で、圧倒的だった。
――ざあざあと。
再び雨が降り始めた。
いや、違う。
空を見上げて、俺は気付いた。
これは……雫だ。
目の前の大蛇。その青い鱗を伝い、滴り落ちる、ただの雫。
「冗談、じゃねぇぞ……っ」
大きさだけなら、同じ司災獣のアイツ――ファブニール以上だ。
余りにも、規格外すぎる。
「アレが……ヴィオレにゃ?」
耳が垂れて怯えた表情のレイ。
当たり前だ。あんなの、どう考えても、人がどうこうできる相手じゃない。
「――そ、総員! 退避ッ! 退避ィーーッ!!」
騎士の誰かが叫ぶ。
その声で、堰が切れたように皆が同じ行動をした。
「急げ! 走るんじゃ! 儂の船まで!」
船長の声が響く。
誰も、戦おうとはしなかった。
当たり前だ。
本能的な恐怖――怪物ということすら生温い。目の前にいる、ヴィオレだったそれは……まさしく災厄の具現だった。
「おい、行くぞ兄ちゃん! 逃げねぇと!」
「いや、でも……」
視線が移る。
少し離れた場所で横たわっている、ハンナの方へ――
「あれ?」
――いなかった。
さっきまでそこにいたのに、どこへ? まさか、流されて……
「大丈夫にゃ!」
「レイ!?」
振り向く。
――いた。
ハンナが、レイに背負われてそこにいた。
「トモダチを置いてけにゃいもん」
「お前……っ。ああ」
そうだよな。
置いて行ける訳がねぇ。
ハンナも、それからもう一人――
「お父、さん……っ」
「我々にお任せを! 巫女様も避難を! お早く!」
騎士に担がれるガインの姿を見送るカンナ。
そんな彼女達と共に、俺は駆け出した。
今だ天に昇り続ける大蛇、青き災厄を背に。
「――ああクソ! 邪魔くせぇ!」
水だ。
アイツ……ナーガが出てくるその場所から、壊れた水道みたいに水が溢れてきて、広場を侵食している。
今は足首が浸かる程度。でも、このまま水かさが増えていったら……想像もしたくない。
「皆さん、ワタシの後に!」
先頭を行くカンナが扇を振るう。
次の瞬間、凄まじい突風が水を左右に散らし、一直線に道を作った。
そこを、怒涛のように人々が列をなして駆けていく。
「司災獣だッ! ナーガが来たッ! 避難をッ!」
道すがら、騎士達が光弾を打ち上げながら島民達へ呼び掛ける。
あちらこちらで悲鳴が上がり、一緒に駆ける足音が増えていった。
「……まだ、伸びてんのかよ……ッ!?」
一瞬だけ、広場を振り返った。
大蛇は、もはや雲を突き破り、その頭部は夜空に消えている。
それでも、未だに尾の先が見えない。
その有り様は、まるで天と地を繋ぐ柱のようだった。
『――うふフっ……キャハハははハハハハは!』
響く。雲の上から、雷鳴のように。
忌々しい――女の哄笑が。
「お、おいこの声……まさか!」
ギリアンが、戦慄した面持ちで叫ぶ。
「ああ、そうだよ! ヴィオレだ! アイツが、変わりやがったッ!」
「な……ッ! んだよ、そりゃあ……っ……!?」
言葉を失うギリアン。
無理もない。
俺だって同じだ。
人が化け物になるなんて光景を、現実で目の当たりにするとは思わなかった。
――邪教徒。洗礼司災。司災獣。
それが何故世界に忌み嫌われているか、今こそ実感を以って理解できたような気がした。
『サあ、ホラ! 頑張っテ! 早くシナイと……ソウじゃないト――』
寒気がした。
『――沈むワよ?』
その声が耳に届いたのと同時――大地が、揺れた。
思わず振り返る。
そこには――
「なっ……」
――災厄があった。
「く、来るぞぉーーッ!!」
誰かの絶叫。
後ろから、追いかけて来る。
家々を破壊し、木々を倒し、その全てを巻き込みながら、暴力的な水の流れが……津波が、来る。
「ご、ご主人……ッ!」
「分かってるッ! とにかく、走れッ!!」
クソ、冗談じゃねぇ!
走る。一心不乱に。
それでも、後ろから響く轟音は遠ざからない。
迫る濁流は、まるで蛇のように牙を剥き、俺達を追いかけて来る。
「み、巫女様……お助け――」
「聖獣さ――」
後ろから、誰かの声が聞こえる。
男の、女の、子供の、老人の。
祈りも、悲鳴も……聞こえたと思ったら途絶えて。呑み込まれていった。
「ああ……み、皆……っ」
「振り返るなッ! 行けぇッ!!」
止まりそうなカンナへ叫んだ。
気持ちは、分かる。痛い程に。でも、全員は助けられない。
だったら、俺は、
「ごめん……ごめん……っ」
また、一人分の声が消えた。
ごめんなさい。
無力で、ごめんなさい。
どこかの誰かに謝りながら、俺は走り続けた。
「まずいのう……このままでは……」
すぐ傍から、船長の呟く声。
その意味は、見なくても分かってしまった。
――追いつかれる。
やっぱり、波の方が速い。
このままじゃ、いずれ追いつかれて、全滅だ。
「むぅ、致し方ない……聞けッ、皆の衆!!」
怒鳴るような声。
まだ生き残っている数人の視線が船長に集まる。
「全員、そこの家の屋根に登るんじゃ!! 急げッ!!」
「お、おい、屋根なんか登ってどうすんだ船長さんよぉ!?」
「やかましい! 死にたくなければ、登れッ!」
ギリアンの問いを吹っ飛ばすように叫ぶ船長。
有無を言わせぬ命令に、全員が訳も分からぬまま従う。
「カンナ、頼む!」
「は、はい!」
カンナが舞う。
次の瞬間、発生した上昇気流がその場に残っていた全員を優しく屋根の上に運んだ。
「取り残された者は、おらんな……よし!」
「せ、船長さん……?」
屋根の上でやり過ごす?
確かに、この高さなら…………いや、無理だ。
振り返った先で、同じような建物が破壊される光景が見えてしまった。
――じゃあ、どうする?
波は、もはや目前。
俺は疑惑の眼差しを船長に向けた。
「この人数ならば、問題ないじゃろう」
「な、なにする気にゃ?」
レイの問いに、
「なにをするか、じゃと? 決まっとろうが! 儂は船乗りじゃぞ?」
フッと笑った――
「――波に……乗る!!」
濁流が、建物に到達した。
「う、おおおおおッ!?」
激震。容赦ない水の暴力で壁が崩れ、柱が折られる。
倒壊し、流される瓦礫と、俺達は運命を共に――
「な、なんだぁ!?」
――沈まなかった。
生きてる。
その場の全員が、唖然とした顔で互いの無事を確認していた。
――なにが起きた?
そう思って、周囲を見渡す。
答えは、すぐに分かった。
「は、ははっ……マジかよ……!」
浮いている。
流れる波の中で、俺達の乗っている建物の屋根だけが。まるでサーフィンみたいに、水の上を滑っていた。
「すっ、凄え……凄えぜ、爺さん! アンタ、一体何者だよ!?」
「言ったじゃろうが! 儂は船乗りじゃ! それ以上でもそれ以下でもないわ!」
その言葉は、今のこの状況で、なによりも心強く感じられた。
「今より! ここを我が船とする! このまま港まで直行するぞ! 皆の衆、振り落とされんようにな!」
高らかな宣言。
心が躍る。
舵もない。碇もない。帆も、甲板すらないただの屋根。でも、今この時だけは、それが荒波を越える屈強な船に見えた。
「も、もう、大丈夫にゃ……?」
「いや、それは――」
――まだだ。
安堵するには、まだ早い。
だって、まだ……アイツはそこにいる。
ひとまず急場は凌いだけど、あの怪物がこれ以上なにをしてくるか、まるで予想ができない。
そんな、俺の不安を逆撫でするかのようだった――
『素晴らシいワ! なンて素晴らしイの! まだ沈まナいでイテくれるなンて!』
空から響く、歓喜に酔った声。
耳障りだ。
憎悪を込めて、俺は頭の見えないソイツを睨んだ。
『……アア、でも……ソウよね? これクラいじゃあ、駄目よネ?』
遠くで、大蛇が身を揺らしている。
もはや完全に現れ、そこでとぐろを巻いているソイツは、世界すら呑み込みそうな程に巨大で……
『小さ過ぎテごめンなさい。まだ、私、舐めてイたみたイ。アナタ達の事……本当に、ごめンなさイ。許してネ?』
うるさい。それ以上、喋るな。頼むから。
『今度ハ――』
止めてくれ。
『――手加減シナイから』
大蛇が、尾を振るった。
それだけだった。
たった、それだけで――
「は?」
――終わりが始まった。
次回「蛇を喰らえ」
乞うご期待!




