二章二十九話[涙雨に濡れて]
「――洗礼、司災……ッ!?」
どこかで悲鳴が上がった。
誰かの怒号が飛んだ。
槍を、剣を抜く音が聞こえた。
滝のような雨音を掻き消すほどに、その場の誰もがざわめいた。
「あらあら、嬉しいわ。そんなに歓迎してくれるなんて」
笑いながら、羽織っていた外套を脱ぎ捨てるヴィオレ。
その胸元に、なにかの目玉のような……禍々しい刻印があるのを、俺は見逃さなかった。
「逆十字に、邪眼の印……ッ……ほ、本物だッ!」
叫んだのは――商人、ギリアン。
そこから、混乱が始まった。
「な、なんにゃ? なんにゃ!?」
逃げる者、竦む者、泣く者、警戒する者、怒る者、茫然となる者。
「――避難をッ! 早くッ!」
騎士達が、光を打ち上げながら駆けつけてきた。
阿鼻叫喚が、豪雨と共に降り注ぐ。
――洗礼司災。
名乗っただけで、畏れ、憎まれる。
それ程の存在。
この世界のことなんかなにも知らない俺だけど、それだけは伝わった。
だからそれは、殆ど本能的な行動――
「――おらぁッ!!」
腕に全力を込めて。
俺は、掲げていた光の柱を、そのままヴィオレに向けて振り下ろした。
「あらあら……そんな大きいの。私、壊れちゃう」
蠱惑的な声が聞こえた。
――うるせぇ。
範囲と速度を併せ持った一撃。
叩き付けた極光は夜の闇を切り裂き、ソイツを舞台ごと真っ二つにした…………筈だった――
「――可愛い。もう我慢できなかったの?」
耳元で聞こえた。
「――ッ!?」
「ご主人!!」
首筋に生温い吐息を感じて、俺は咄嗟に【憤怒の境地】を発動――その場から飛び退いた。
「マジ……かよ」
避けた? 今のを? どうやって?
刹那の内に移動したヴィオレ。
動きが、見えなかった。
その事実は、ますます俺の中に恐怖と警戒心を生んだ。
「うふふ、そんなに興奮しないで。もうちょっとお話しましょう? どうせ……」
そこで声が途切れたのは――
「――こ、のッ……邪教徒ォォ!!」
ハンナの刺さるような叫びが響く。
その手には、尖った木片が。怒りと憎しみの籠もった表情で、彼女はヴィオレに突撃した。
「ハンナ!? よせ……ッ」
遅かった。
その場から動かないヴィオレ。代わりに動いたのは、その肩から現れた――水の鞭。
「その顔、好きよ。でも、ごめんね?」
そんな声が聞こえて。
「――アナタの役目は、終わり」
次の瞬間見えたのは――吹き飛び、聖獣の像に叩きつけられるハンナの姿。
「ハンにゃーーッ!!」
レイが飛び出してハンナの元へ。
――嘘、だろ? ハンナまで……?
体が、震える。
「げ、げほ……う、ぅ……っ……」
「ハンにゃ!? よかった!」
レイに抱き抱えられながら、ハンナは気を失った。
「安心して? 命までは取らないわ。ハンナちゃんは、オトモダチだもの」
ふざけやがって。
どこまで、ふざけてやがんだ!
「てめぇはァァッ!」
白炎を灯す。
雨を蒸発させる程の火力を纏い、俺はヴィオレに突っ込んだ。
「熱いのね。それも、嫌いじゃないわ……でも無理よ」
「なッ……!」
消えた。
ヴィオレは消え、振り下ろした俺の一撃は、虚しく空を切るだけで終わった。
「ほらほら、こっち」
声のした方を振り返る。
舞台があった場所――そこで、俺は見た。
地面にできた水溜まり……そこから、ヴィオレが現れるのを。
「すごいでしょ? でも、これだけじゃないのよ?」
そう言うと、彼女は水溜まりに手を伸ばして、
「えいっ」
まるで、少女が水掛け遊びでもするかのような動作。
それだけで――
「――うわああああああーー!?」
小規模の津波。
ヴィオレに掬われた水溜まりが数倍の質量となって、そこにいた騎士や島民達を押し流した。
「誰か、助け……巫女様……っ」
「聖獣様!! お助けを……どうか!」
流されていく声。
「うふふっ……そう言われているけど、どうするの? 巫女様?」
巻き付くようなヴィオレの声。
返答は……なかった。
「…………」
茫然自失。
父親の亡骸の側で、巫女と呼ばれたその子――カンナは、なにも聞こえてないような様子で、ただ雨と涙に濡れていた。
「可哀想に……なにも見えていないのね? 皆がアナタを求めているのに。アナタは、悲しみに沈むだけ」
「……っ……」
動かないカンナ。
そんな彼女の元へ、わざとらしくゆっくりと歩み寄るヴィオレ。
「待て……待ちやがれっ!」
なにするつもりだ? 止めろ!
咄嗟に走り出した俺の足に、なにかが絡みついてきた。
「ぐっ……!?」
水の鞭だった。それが、いきなり水溜まりから伸びてきて、俺の足を止めた。
「そこで見ててね。すぐに終わるから」
「てめぇ……このッ!」
地に伏す俺を尻目に、ヴィオレはいよいよカンナの側に立った。
「抵抗したければしてもいいのよ? ねえ、巫女様?」
それでもカンナは答えない。
「無視は悲しいわ……そう、そんなに愛していたのね? 愛されていたのね?」
寄り添うように、嗤いながら。
「ねえ、そうでしょう巫女様? 能無し《ノーマン》のお姉ちゃんと違って、お父さんに大事に大事にされてきたから、そんなに悲しいんでしょう? 苦しいんでしょう?」
「止め……ろぉッ!」
スキル発動――【リボルバーン】。
指先に火球を作り出し、ヴィオレに向けて放つ。
だが、
「お邪魔」
届かなかった。
ヴィオレは、向かってくる火球を見もしないで、水の鞭で打ち払った。
「きつめがお好き?」
その声と共に、周囲の水溜まりが蠢く。
一斉に水の鞭が発生し、俺の全身に絡みついてきた。
「う、ぐ……ッ!?」
動けない。
纏っていた白炎も、水に掻き消されそうだ。
「羨ましい……アナタのために、動く人がいる。でも、ここまでね」
そう言うヴィオレの声に反応したように、彼女の胸元から、“なにか”が這い出てきた。
「“蛇”……?」
それは、今この瞬間に、見たくなかったもの――
『――料理人スキル。食材鑑定Lv4、発動』
沈黙の死神、サイレントスネーク。
ニックを、火守りを、そして多分……ガインを殺した――最凶の毒蛇と呼ばれるソイツは、ヴィオレの躰を這ってその腕に巻き付き、獲物となる哀れな少女の方へ眼を向けていた。
「駄目だ……おい、てめぇ、よせッ!! カンナ……逃げろッ!!」
でも、俺の声は……届かない。
「可哀想な巫女様。でも、大丈夫。アナタの悲しみ、痛みも苦しみも全部……今、終わらせてあげるわ」
黒蛇が、鎌首をもたげる。
――クソ、クソ、クソ! 動け!
抗う。
でも、びくともしない。俺に絡みついた水の鞭は、まるで鉄の鎖のようだった。
「クソオオオオオオオオオオ!!」
「さようなら」
蛇が迫る。弾丸のように。
その注射器のような牙が、カンナの首筋へ。
終わった。そう思った――
「――馬鹿ッ!!」
突如、響いた声。
そして、
「あら?」
首を傾げるヴィオレ。
そこにあった光景を理解するのに、時間がかかった。
「ホントに……いつまでも、しょうがないんだから。アンタは……」
力無くそう言うのは……ハンナ。
終わりの、その瞬間――カンナを突き飛ばし、代わりに蛇に噛まれたのは……ハンナだった。
「――ぇ……?」
声を漏らすカンナ。
ハンナの腕に噛み付いた蛇が、するりとヴィオレの腕へ戻っていく。
「へぇ、そういう展開……まあ、いいわ」
蛇を撫でるヴィオレ。
どうでもいい。それよりも、
「お姉……ちゃん? なん、で……?」
目を見開くカンナ。
そんな妹へ向けて、ハンナは呆れた声で笑う。
「なんで……って。そんなの……分かんない、わよ。気付いたらこう、なってたの……っ」
息苦しそうなハンナ。
腕の傷は、針に刺されたように小さい。
それなのに、その顔からは、みるみる血の気が引いていく。
崩れ落ちる姉の体を、カンナが抱きとめた。
「あいたた……いきなり酷いにゃ、ハンにゃ…………あっ」
きっとハンナに突き飛ばされでもしたんだろう、膝を擦りながら登場したレイ。
だが、すぐに状況を察したらしい。表情が曇る。
「そんな……そんなっ……嫌! お姉ちゃんまで……っ! やっと、会えたのに……嫌ぁ……っ!」
泣き叫ぶカンナ。
その声は、まるで幼子のようだった。
「やめてよ……」
呻くハンナ。
「私のためになんか……泣いてる場合じゃ、ないでしょ……? アンタは……巫女、なのよ……!」
「巫女なんて、そんなの……ワタシには、無理……っ」
「……っ! ふざけないで……!」
ぴしゃりと。
雷鳴のように響いた。
そんな姉の声に、カンナは子供のような顔をする。
「しっかり、しなさい……! お父さんの、最期の言葉……聞いて、なかったの……?」
「お父さん、の……?」
「思い、出して……」
父親の、ガインの言葉。
忘れてる……訳はないだろ?
俺も、聞いた。
なあ、カンナ――
「――守るのよ……アンタが」
「ワタシ……が?」
ハンナの震える手が、カンナの頬を撫でる。
「大丈夫……アンタなら、できるわよ。悔しい、けど……アンタは……」
笑った。
「……私の、妹……なんだから」
泣きながら、笑って。
それが――最期だった。
次回「篠突く雨に喝采を」
乞うご期待!




