二章二十八話[止まない驟雨]
「ヴィオレ、さん? なんで……」
今、体が震えているのは、雨の冷たさのせいだろうか?
それとも――
「――うふふ、いいわぁその顔。とっても素敵」
舞台の上で舌舐めずりするその女が、“蛇”のように見えたからだろうか?
「……ア、アンタッ!!」
雨音を切り裂く声。
その主は――ハンナだ。
「あら? ハンナちゃん、いたの?」
「ふざけないでッ! アンタ……アンタは……ッ! 私に、なにをしたのよ!?」
なんだ? なんの話をしてんだ?
誰も彼もが、状況が掴めずにいる。
そんな中で、ヴィオレはただ一人、柔らかく微笑んだ。
「なにをしただなんて、酷い言いよう。私はただ、背中を押しただけ。全てを望んだのは……ハンナちゃん。アナタでしょう?」
「なん、ですって……ッ?」
指を差され、顔を歪めるハンナ。
それで――察した。
察してしまった。
昨日のアレは、ハンナがおかしくなったのは――
「――まさか、ヴィオレさん……が?」
俺が声を出した瞬間、ヴィオレがぐるりとこちらを見る。
それだけで動けなくなった。
「ふふ、うふふふふ……ああ、眩しい。その光……ねぇ、料理人さん? 私にとって誤算だったのは、“アナタ達”がいたことかもしれないわね」
「どういう、意味だよ……?」
俺達が? 誤算? なにを言ってる?
雨が、強く体を打つ。
ヴィオレの瞳が、俺とレイを交互に眺めた。
「だって、そうでしょう? アナタ達がいなければ、船で私の存在が明るみに出ることはなかった。アナタ達がいなければ、ハンナちゃんは望み通りのことができた。アナタ達がいなければ……今、この瞬間に、私は仕事を終えることができた筈だもの」
まるでなんでもないことのように、いつもの調子で話すヴィオレ。
だけど、それが、恐ろしく不気味なものに、俺には思えた。
「なんで、かしら?」
「……ヴィオレ、さん?」
レイが、怯えた様子で俺の手を握る。
「本当になんで、料理人の方々は、いつも私の邪魔をしちゃうのかしらね?」
「――ッ」
身がすくむ。
ヴィオレの瞳、そこにあった――敵意に。
「残念だわ……ねぇ、ハンナちゃん? 可哀想なお姉ちゃん。アナタだって、もっと沢山、妹さんと遊びたかったでしょう?」
「止めて! 私は……ッ!」
まるで、毒だ。
ヴィオレのその一言一句が、人の心を侵していくような錯覚に陥る。
「――あ、そうそう。忘れていたわ」
とても気軽な、そんな調子だった。
ヴィオレの肩から、突然“ソレ”は現れる。
「お届けものがあったの。はい」
見覚えのある“水の鞭”……でも、それよりも――
――ガシャン!
重い金属音。
水の鞭が伸び、奥の暗がりからなにかが放り投げられた。
“ソレ”に目を向けた瞬間――戦慄する。
「――お父、様……?」「――お父さんッ!?」
“ガイン”だった。
ヴィオレの捜索に出た筈の騎士長。ハンナとカンナの父親。
その男が、今は力なくそこに横たわっている。
「そんな、お父様…………お父さん!」
「アンタ……よくも……ッ!」
父親の元へ駆け寄る姉妹。
――なんだよ、これ? ふざけんな。
光を掲げる手が震える。でも、これは、きっと恐怖のせいじゃなかった。
「だ、誰か、治療を……お父さんを、助けて!」
必死に叫ぶカンナ。
その場にいた数人が動こうとするが、
「……止め、ろ……無駄、だ……」
それを制止したのは……他でもない、ガインだった。
まるで空気を読んだかのように、雨音が弱まる。
「お父さん……! 生きて…………無駄、って……?」
目を開けた父親の顔を見てカンナが固まる。
「毒……だ……私は……もう、長くない……」
「そんな……そんな……ッ!」
「……っ……」
父の胸に頭を擦り付けて涙ぐむカンナ。それを見て、ハンナは目を伏せる。
もう、時間がない。
それだけは、俺にも分かってしまった。
「……カン、ナ……巫女が、泣くんじゃ……ない」
「……っ……」
震える手を伸ばし、ガインはカンナの頭を撫でる。
「強く、あれ……お前が……皆を……守るんだ……」
「お、お父……様……っ」
今際の際の言葉、カンナは頷き、受け取った。
「ハンナ……」
「…………」
光を失いかけた目が、ハンナを見る。
「……すまな、かった……私は……」
「い、いらない……いらないわよ……そんなの!」
目に涙を溜めながら、唇を噛むハンナ。そこにどれほどの感情があるのか……俺には分からない。
「間違って、いた………父として……騎士として……なにも、かも………」
「もういい……もういいから……! 諦めないでよ!」
まるで堰を切ったように、ハンナの瞳から涙が溢れる。
「……お前は……優しい子だ…………知って……いたのに……」
「……っ……」
ガインの声から、力がなくなっていく。
肉体から、魂が抜けていく。
「……ハンナ……お前は……邪教徒……じゃない……」
「待ってよ……いかないで……お父さんっ!」
崩れ落ちるハンナ。
ガインは、震える手で、ソレを指差した――
「アレだ……アレこそが…………っ」
――そこで、途絶えた。
その伸ばした手が、最期に示したのは、
「うふふ。いい……いいわぁ、とても素敵。やっぱり、連れてきて良かった」
舞台の上で、愉快そうに手を叩くヴィオレ。
「ふざけんな……てめぇは……なにがおかしいんだ!」
もう、分かった。
なんで? どうして? なんてのは分からないけど。ただ一つ。
コイツは、この女は――敵だ。
「あら? お気に召さなかったかしら? それは残念」
まるでそうとは聞こえない声で言うヴィオレ。
「まあ、いいでしょう。人の趣味はそれぞれだもの。それより……バレちゃったわね?」
「は?」
悪戯がバレた少女のような顔で。
「てめぇか……! てめぇが……ッ」
「ええそう、そうよ料理人さん。私が――」
二つの声が重なる。
「「――邪教徒」」
雨が、再び強くなった。
「……ど、どういうことにゃ?」
「白影……じゃなかったのかよ。なあ!?」
ずっと、騙してやがったのか。
船で会った時から、今まで。
「ふふっ、私が一度でも、そう名乗ったかしら? アナタ方が勝手に勘違いしてくれただけだと思うのだけど?」
「んだと……ッ!」
空に掲げた光が輝きを増していく。
俺の感情に合わせて、出力が上がっているようだ。
「そうね。なら、改めて名乗りましょう――」
そう言うと、ヴィオレは舞台の上で優雅に一礼した。
「――私は……“エレヴェス教、洗礼司災――水災のヴィオレ”と申します。以後、お見知りおきを」
そうして顔を上げた女の姿は、まるで毒々しい大蛇のように見えた。
次回「涙雨に濡れて」
乞うご期待!




