回想
春のけやき並木は今年も優しい風に身を委ね、
幸せそうに揺れていた。
ある者は新たな新生活を楽しみ、ある者はその大きな不安を抱えながらこの季節を迎える。
ケンイチは歩いていた。
この季節だけは、現実世界もいいな、と思えるのだった。
特に今年は去年とは違う。
隣にいる人物の存在は、ケンイチの今の気持ちを大きく動かしていた。
「あ、ちょうちょ!」
ひらひらと舞う蝶をまるで踊るように追いかけるユキを少し離れたところからケンイチは眺めていた。
「一年か。」
あの凄惨な事件が起きたのは、丁度一年前の今位だった事を、この暖かな風が教えてくれた。
「………。」
ケンイチはふと、あの事件の後の事を思い出してみようと思った。
緊急世界が終わり、オルタナが復旧した後、ケンイチとユキの元にはマクロメディア社が早速調査に入った。
幸い二人の「身体」には何も害無く、ターンオフする事が出来ていた。
マクロメディア社は直ちに、「オルタナクラッシュは回避可能」と大々的に社会へ訴えるのに
ケンイチ達は格好の材料となった。
そして、Jの言っていた通り、ケンイチとユキの履歴は削除されなかったため、
それを分析することで、クラッシュのプログラムはマクロメディア社のエンジニアによって、
削除され、その後防護プログラムも構築された。
「安全なオルタナ、今回は被害者なし」
ニュースの見出しには、大きくこう発表された。
一番の立役者であるJの犠牲は取り上げられなかった。
試しにケンイチは一回だけ、マクロメディア社にハッキングをし、
あのクラッシュの24時間の履歴を閲覧したことがある。
しかし、内容はケンイチの度肝を抜く内容だった。
「おかしい……」
確かに、クラッシュでのケンイチやユキ、ウルフの会話は残っていた。
しかし大事な部分が欠けていた。
「ない、どこにもない。」
途中途中で、あるはずのJの会話や行動の履歴がすっぽり空白になって抜けている。
確かに自分は会話をしているはずなのに、それに答えるJの言葉は完全に空白になっていた。
マクロメディア社が犠牲者ゼロをアピールするために敢えて削除したのか、
そもそもJという存在をマクロメディア社が知られてはまずいため、消したのか、どちらにせよそれにしては雑すぎる。
もしかして……。
色々考えれば考えられなくもないが、敢えてケンイチは考えないようにした。
ただ一つ間違いなく言えることは、最後に交わしたJとの握手は誰よりも人間の血が通っていた事だ。
その後、オルタナ上でJのプログラムと出会う事は今のところ無い。オルタナ全体としても、小さなトラブルはあっても、クラッシュほどのトラブルは起きていない。
次第に、人々の記憶の中からもあの凄惨な事件は忘れ去られようとしていた。
「あの、ユキ」
「ん? 」
そう言って振り返るユキの黒髪に、今でも尚ケンイチは胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。
「大事な話がある」
ちょうちょを追いかけていたユキはその面持ちに表情を変え、
ケンイチの瞳を覗き込んだ。
「えっ? 何? 」
ケンイチはなかなか口に出せないでいた。
「あの、え、と。もういち…」
「何? 良く聞こえない?」
ケンイチははっきり言った。
「もう一年。高校生やることになった」
想像していた内容とかけ離れたそのセリフに、ユキは地面にうなだれた。
「えーっ? また留年? もう私待てないよ?
私が先に大学言って、イケメンに告白されたら、そっちになびいちゃっても知らないからね!
ばいばーい!」
そう言って走り出すユキをケンイチは必死で追いかけた。
「おい、ちょっと待てって、おい!」
春の風はいつまでも優しく、暖かく、二人を包んでいた。
いつまでも、いつまでも。
ふとケンイチが何かの気配に気づき、振り返った。
そして、一つ笑みをこぼすと踵を返し、また走り出した。
ケンイチふと思い出した。あの時のセリフはあながち嘘ではなかったと。
大昔はオルタナなんてなくても過ごせていた。
でも次第にきっとほとんどの人がオルタナ無しでは暮らせなくなる。
俺らはこの電脳社会を利用しているようで、結局この社会に飲み込まれているだけなんだ。
例え、クラッシュの防御プログラムを何度構築したって、それを上回るプログラムは今後いくらでも
出てくるだろう。その度に大事に命が奪われ、悲しむ人がいるのだろう。
でも、俺らは生まれる時代は選べない、ただその事実を受け入れるしかないのだ。




