第二章 毒くらいなら喰べられます
浄化は、夜ごとの日課になった。
呪いというものは、一晩で喰べきれるものではないらしい。心臓のすぐ上にある「核」から全身へ張り巡らされた茨を、末端から少しずつ摘んでいく。一晩に摘める量には限りがあって、欲張れば私のほうが灼ける。それでも、喰べたぶんだけ呪いの歩みは遅れる。侍医の見立てた「あと一年」の期限は、夜をひとつ重ねるごとに、少しずつ先へ延びていくはずだった。
そして厄介なことに、呪いは深く喰い進むほど、浄化に要る「触れ方」も深くなった。
最初の七日は、指先で足りた。
次の七日は、手のひら全体で呪印を覆う必要があった。
ひと月が過ぎる頃には——背中合わせに素肌を重ねなければ、届かなくなった。
つまりどういうことかと言えば、皇帝と私は夜ごと、寝台の上で互いに背を向けて上衣を脱ぎ、背中を合わせて座る羽目になった、ということだ。
「……始めます」
「ああ」
肩甲骨と肩甲骨が触れる。皇帝の背は広く、そして呪いのせいで氷のように冷たい。祝詞を唱えると、その冷たさが茨のかたちをして、背中から私へ流れ込んでくる。
そして、例のごとく——声が出そうになる。
初日にあられもない声を上げてしまって以来、私は毎晩、全力で声を殺していた。唇を噛み、息を細くし、喉の奥で殺す。それでも深い茨を喰べた夜は、鼻にかかった声が、んっ、と漏れる。背中越しに、皇帝の肩がぴくりと揺れるのが分かる。死にたくなる。
「……唇を噛む音がする」
ある夜、背中越しに皇帝が言った。
「噛むな。血の味がしてからでは遅い」
「では陛下は、私にどうしろと」
「……声くらい、出せばよかろう。誰も聞いていない」
「あなたが聞いています」
沈黙が落ちた。それきり皇帝は二度とその話題に触れなかったが、翌晩から、寝台の枕元に絹の手巾がそっと畳んで置かれるようになった。噛むならせめてこれを噛め、ということらしい。……不器用にもほどがある。
浄化のあとには、白湯を一杯だけ飲むのが習いになった。喰べた呪いの冷えは、体の内側から来る。熱い白湯を胃に落として、ようやく指先まで自分の体に戻る。
その白湯の間だけ、私たちは少し、話すようになった。
「そなたの国の書庫は、古語の蔵書で知られていたそうだな」
「はい。母がよく、膝に乗せて読んでくれました。……焼けてしまいましたけれど」
「……全部ではない。接収目録に、古書の箱が三十七箱ある」
「! ……どこに」
「帝室文庫の地下だ。そのうち、読みに行くがいい」
そんな、事務連絡のような——事務連絡にしては夜更けの声が柔らかすぎる会話を、ぽつり、ぽつりと。
最初の夜に借りた上着は、洗って畳んで返しに上がったところ、「持っていろ」と押し返された。理由は教えてもらえなかった。マルグリットには「まあ」とだけ言われた。「まあ」の意味も、教えてもらえなかった。
* * *
昼の私は、皇帝の宮付きの端女という扱いだった。表向き、夜のことは誰も知らない。
薬草園で冬越しの株を検分していると、背の高い赤毛の騎士が声をかけてきた。近衛騎士長ルッツ。皇帝の乳兄弟で、あの夜以来ただ一人、回廊の人払いの内側に立つことを許されている男だ。
「よう、王女さん。陛下の"夜のお茶係"は繁盛してるか」
「その呼び方はやめてください」
「悪い悪い。——なあ、礼を言っておこうと思ってな」
ルッツは笑いを引っ込めて、薬草園の垣根に寄りかかった。
「三年前の即位の夜からだ。先帝の看取りの儀が済んだ直後、陛下は倒れた。目を覚まして最初にやったことが何だか分かるか。寝台に飛び乗ってきた愛犬を、撫でようとしたんだ。……次の瞬間、犬は氷像だった」
私は株を検分する手を止めた。
「それからの陛下は、握手ひとつしない。剣の稽古は木人形が相手。書類は手袋越し。飯は一人で食う。夜も一人だ。皇帝ってのはな、世界でいちばん大勢に囲まれた、独房の囚人だよ。この三年、俺は陛下が人の肩を叩くところを一度も見ていない」
叩きたがる人なんですか、と訊きかけて、やめた。答えは毎晩、背中越しに伝わってくる体温の——その必死な行儀のよさが、もう教えてくれていた。
「なあ、王女さん。ひとつだけ勘違いしないでやってくれ」
ルッツは垣根から体を起こし、真顔で言った。
「陛下はあんたに触れられるんじゃない。——あんたにだけは、触れても壊れないんだ。その違いが分かるか」
分かります、と即答できなかった。その違いの重さが分かるようになるのは、もう少し先のことだ。
* * *
契約の対価は、着実に果たされていた。
リュミエールの捕虜の解放名簿、流民の越冬小屋の帳簿、種麦の配給の記録。皇帝は十日ごとに、それらの写しを私に渡した。「契約の履行の確認だ」という建前で。
私は夜、自室でその名簿を読んだ。知った名前を見つけるたび、指でなぞった。城門の衛兵だったギヨム。市庁の書記のトマ。城下のパン焼きのマルタ。生きている。冬を越せる。
名簿の端には、ときどき、皇帝の筆跡で注記があった。【この者、腕の傷が癒えず。侍医を回した】【この者の娘、帝都の学舎に入れた】。契約は「民の保護」であって、そこまでの義理はないはずだった。
建前の多い人だ、と思いながら、私はその注記の字を、名簿の名前と同じくらい丁寧に、指でなぞった。
* * *
異変は、午後の茶会で起きた。
その日、私は皇帝の書斎での茶に同席を命じられていた。政の話の合間に古語の文書を読ませるためで、女官たちの手前は「亡国の書庫の生き字引」という扱いだった。
茶を淹れるのは毒見役の侍女リゼッテ。手順どおり、彼女がまず一口を検める。
カップが、指から滑り落ちた。
「リゼッテ?」
細い体が、崩れ落ちた。唇が紫に変わり、手足が硬直して弓なりに反る。書斎が悲鳴で割れた。駆け込んできた女官の一人が、倒れたリゼッテと私を見比べて、叫んだ。
「亡国の女だ! あの女が呪ったのよ!」
呪い。その言葉が伝染するのは一瞬だった。近衛が私に手をかけようとした、そのとき。
「触るな」
皇帝の声が、部屋を凍らせた。比喩ではなく、怒気で窓辺に霜が走った。
「ソフィア。何か分かるか」
私はすでにリゼッテの傍らに膝をついていた。唇の色、痙攣のかたち、そして倒れたカップから立つ、青くさい甘い匂い。——知っている。母の薬草帳の、毒草の頁で。
「氷百合の根です。北方の毒。喉が痺れて、四半刻で心の臓が止まります。——陛下、お許しを。処置をします」
答えを待たずに動いた。リゼッテの喉に指を入れて吐かせ、腰の薬嚢から炭の粉と、痙攣を鎮める竜胆の根を出す。白湯に溶いて、匙で少しずつ流し込む。母が疫病の年に村々でしていたとおりに。手が覚えていた。
四半刻後、リゼッテの唇に赤みが戻った。浅いが、規則正しい寝息。
書斎は、静まり返っていた。「呪い」と叫んだ女官が、気まずげに目を伏せた。疑われた女が、疑った者たちの目の前で人を救ってみせたのだから、当然だった。
「……毒はどこから入った」
皇帝の問いに、私は倒れたカップではなく、茶器の盆を指した。
「茶葉ではありません。蜂蜜です。氷百合の毒は甘みに紛れます。今朝、蜜壺を替えた者を」
蜜壺を替えた厨房係は、その日のうちに割れた。金貨で雇われていた。雇い主を吐かせると、名が出たのは——皇妃候補筆頭、ベアトリス公爵令嬢の侍女頭だった。
* * *
ベアトリス嬢は、謁見の間で、それはそれは見事に泣いた。
「わたくしは何も存じません! 侍女が勝手にしたことですわ! だいたい、素性も知れぬ亡国の女が陛下のお側に上がるなど、帝国の恥と誰もが申しております! わたくしは帝国のために——」
「帝国のために、余を毒殺しかけたか」
皇帝の声は、静かなままだった。静かなまま、温度だけが下がっていった。
「毒見が飲まねば、あの茶は余が飲んでいた。妬心で余の命を張り替えたのだ、そなたは」
「ちがっ……わたくしはただ、その女さえいなければ……!」
それが自白になることにも気づかない。哀れなほどの小物だった。公爵家は娘を切って恭順し、ベアトリス嬢は北の修道院へ送られることが決まった。祈りの日々は、さぞ性に合うことだろう。
退出間際、彼女は私を睨みつけて吐き捨てた。
「亡国の疫病神が。今にみんな凍らせられて死ぬんだわ」
「ご心配なく」
私は、できるだけ丁寧に礼をした。
「毒くらいなら、喰べられますので」
彼女には一生、意味の分からない台詞だったと思う。それでいい。
後日、床上げしたリゼッテが、私の部屋を訪ねてきた。廊下に膝をつこうとするのを慌てて止めると、彼女は泣きながら言った。
「わたし、皆の言うことを信じておりました。亡国の、呪いの女だって。……その相手に、命を拾われました」
以来、リゼッテは私付きの侍女を志願して、マルグリットを呆れさせた。宮廷で味方がひとり増えるというのは、名簿の名前がひとつ増えるのと同じくらい、温かいことだった。
ただ——ひとつだけ、誰にも言わなかったことがある。
侍女頭が毒を仕入れた経路を辿ったとき、氷百合の根を包んでいた油紙に、蝋印の割れた欠片が残っていた。天秤に蛇の巻きついた、見慣れない紋章の、ほんの断片。
氷百合は北方の禁制毒で、市井には出回らない。扱えるのは、薬房を持つ大きな組織だけ。
そのときの私は、まだそれが何の紋章か知らなかった。ただ、断片を手巾に包んで、取っておいた。母の教えだ。分からない毒草は、捨てずに押し葉にしておきなさい、と。
* * *
数日後、皇帝は宮廷の官人と女官を集めた席で、私を「皇帝付き女官」に任じた。
亡国の献上品が、皇帝の身の回りに侍る正式な地位を得る。前例のない任命に、広間がざわめいた。「呪い」と囁く声が、まだどこかに混じっていた。
皇帝は、その囁きのほうへ顔を向けて言った。
「この者は毒見にあらず。余の茶に混じった毒を見抜き、倒れた侍女を救い、下手人を挙げた。——彼女は余の毒すら喰らう。ここにいる誰より、余の役に立った」
誰より、のところで、広間は完全に静まった。
私はといえば、頭を垂れながら、妙なところで感心していた。この人は褒め言葉まで不器用だ。毒すら喰らう、はさすがに言葉のあやが過ぎる。事実だけれど。
その夜の浄化のあと、退出の礼をとる私に、皇帝がふいに言った。
「ソフィア」
「はい」
「……手を」
差し出しかけた手が、宙で止まった。
「浄化では、なく……」
そこで皇帝は、自分の言葉に自分で驚いたような顔をして、口をつぐんだ。伸ばしかけた手は、何事もなかったかのように引っ込められた。
「……いや。下がってよい」
「? はい。おやすみなさいませ、陛下」
扉を閉めてから、廊下で少し考えた。浄化ではなく、手を。あれは何を言いかけたのだろう。
分からないまま自室に戻り、分からないまま寝台に入り——なぜか明け方まで、寝つけなかった。




