第一章 戦利品の王女は凍らない
国が滅びる音は、思っていたよりずっと静かだった。
剣戟でも、砲声でもない。真夜中、城門の閂が内側から外される、ぎい、という長い軋み。あれがリュミエール王国の最期の音だった。
私は寝間着のまま回廊を引き立てられ、玉座の間で見た。床に跪く父王アルベールと、その斜め後ろに悠然と立つ宰相モルデンを。帝国の将軍を城の奥まで先導してきたのは、敵兵ではなく、この国の宰相だった。
「城はご覧のとおり無傷でお渡しいたします。抵抗した者はおりません。——ああ、それと」
モルデンは揉み手をしながら、ちらりと私を見た。
「ご懸念の魔女の血統は、先の王妃エリーゼの死をもって絶えております。この私が保証いたしましょう」
魔女。聞き慣れない言葉だった。母は薬草に詳しい、物静かな人だった。ただ、それだけの人のはずだった。
父は最後まで私を見なかった。玉座の肘掛けにしがみつくようにして、震える声でこう言った。
「じ、次女はまだ幼い。差し出すなら、ソフィアを……第一王女を、戦利品として献上いたします。ですからどうか、どうか王家の存続だけは」
娘を数に入れて命乞いをする父の背中を、私は不思議なほど凪いだ心で眺めていた。悲しみというものは後から来るのだと、このとき初めて知った。
鎖に繋がれ、荷馬車で国境を越えた。十日の道のりで私が守り通したものは、たったひとつ。左手の薬指にはまる、母の形見の銀の指輪だけだった。
——それにしても、と揺れる荷台で私は考え続けていた。
リュミエールは山あいの小国だ。誇れるものといえば薬草の畑と古い書庫くらいで、金山も港もない。その小国ひとつを潰すために、ガルドレア帝国は三個軍団を動かした。鶏を絞めるのに竜を呼ぶような話だった。
帝国は、この国の何が欲しかったのだろう。
その答えを知るのは、ずっと後のことになる。
* * *
帝都グラナートの宮殿に着いた私を待っていたのは、牢ではなく、湯殿だった。
「お脱ぎください。検分いたします」
年かさの女官が事務的に言い、若い女官たちが四方から手を伸ばしてきた。抗う間もなく旅装を解かれ、湯をかけられ、髪を梳かれる。丁重で、そして徹底的に、人を物として扱う手つきだった。
「傷はございません。肌は上等」
「歯も欠けなし。痩せてはおりますが、姿勢は躾けられております。さすがに王族」
濡れた肌の上を、女官たちの視線と指が這う。腕を上げさせられ、背を検められ、口の中まで覗かれた。値打ちを量る声が、私の頭越しに交わされていく。
殿方の目がないことだけが、せめてもの慈悲だった。それでも頬が焼けるように熱かった。屈辱で拳を握りしめると、年かさの女官——女官長のマルグリットと呼ばれていた——が、初めて私の目を見た。
「お恨みなさいますな。献上品の検分は規式にございます。……傷物と偽って陛下に差し上げれば、首が飛ぶのはわたくしどもですゆえ」
最後に、女官たちは私の左手に目を留めた。
「装身具は外していただきます」
「……これは、母の形見です」
声が震えた。ここまで何をされても堪えたのに、指輪に指をかけられた瞬間だけは、堪えられなかった。マルグリットはしばらく私の顔を見て、それから小さく息を吐いた。
「銀の細工物ひとつ。お体の値打ちのうちに含めておきましょう」
見逃す、という意味だと気づくまでに、少しかかった。
支度が整うまでの間、私は控えの間で待たされた。
部屋には、私のほかにも「献上品」が並んでいた。リュミエールの書庫から運ばれた古書の箱。王家の紋章入りの銀食器。母の代から城にあった竪琴。——私は、これらと同じ目録に載っているのだ。人ではなく、品目として。
息を整えるために窓の外を見ていると、支度を続ける若い女官たちの囁きが、聞くともなしに耳に入った。
「ねえ。この方、今夜のうちに氷像になってしまわれるの」
「お静かに。……三人目の方は、指先が触れただけだったそうよ。悲鳴を上げる間もなかったって」
「陛下は、わざとなさっているの?」
「まさか。陛下は献上の儀を三度もお断りになったのよ。それを大神官様が、臣従の儀礼は曲げられぬと仰って……」
しっ、と年かさの声が制して、囁きは途切れた。
断ったのは、皇帝のほう。押し切ったのは、神殿のほう。
そのときは、ただの命拾いの糸口として聞き流した。この違和感が意味を持つのは、ずっと後のことになる。
* * *
着せられたのは、正装ではなかった。
白い薄絹をひと巻き、帯で留めただけの——戦利品用の衣装。灯りにかざせば肌が透け、歩けば裾が割れる。これで満座の玉座の間を歩けという。
「これが帝国の流儀ですか」
「戦利品は、包みのまま御前に差し上げるのが礼儀にございます」
マルグリットの返事が皮肉なのか憐れみなのか、私には分からなかった。
玉座の間までの回廊は、一生ぶんほど長かった。
先導の式部官、左右の近衛。裸足に近い足の裏に、磨かれた石の冷たさが刺さる。すれ違う廷臣が立ち止まり、遠慮もなく眺めていく。薄絹は歩くたびに膝で割れ、肩を滑り、私は両腕で我が身を抱きたくなる衝動を、爪が食い込むほど拳を固めて殺した。
抱いてはいけない。隠そうとすれば、余計に見られる。これは狩りと同じで、逃げるものほど追われるのだ。
だから私は、背を伸ばした。婚礼の行進のように、ゆっくりと、顎を上げて歩いた。せめて歩き方だけは、母に教わったままの、リュミエールの王女でいたかった。
両開きの扉が開いた瞬間、幾百の視線がいっせいに突き刺さった。
絹一枚の下の素肌を、値踏みする視線。囁きが波のように広がっていく。
「あれが亡国の王女か」
「ほう、存外に上玉だ」
「気の毒にな。陛下への献上品だろう」
「先の三人を知らんのか。御手に触れたとたん、氷像よ」
凍って死んだ献上品は、すでに三人にのぼるらしい。
つまりこれは献上の儀ではない。処刑だ。満座の前で、余興として執り行われる。
玉座のその人を、私はこのとき初めて見た。
ジークハルト・ガルドレア。二十六歳の若き皇帝。黒衣に銀の髪、彫像めいた美貌——そして、玉座の周りだけ、空気が白く凍てついていた。肘掛けに霜が咲いている。足元の絨毯が凍っている。皇帝は玉座ごと、氷の檻の中に座っていた。
「献上品。前へ」
儀式を差配するのは、白髪の老人だった。大神官オズヴァルト。慈愛深げな微笑みを浮かべた、絵物語の聖者のような老人だった。
「陛下の御手に触れ、臣従の礼を」
ざわ、と場が揺れた。誰かが小声で賭けの符丁を口にした。次は何秒で凍るか、という賭けらしかった。
跪かされ、腕を取られ、皇帝の素手の上へ私の指が導かれていく。皇帝が一瞬、腕を引こうとしたのを私は見た。だが大神官の手が、恭しく、しかし有無を言わせぬ力で、私の手を押しつけた。
指先が、触れた。
冷たい——指先から凍りつく、はずだった。
刃物めいた冷気が肌を噛んだのは一瞬で、次の瞬間、私の胸の奥で、何かがひとりでに目を覚ました。喉の奥に、懐かしい旋律がのぼってくる。母の子守唄。ねむれ、ねむれ。わるい夢は、みんな喰べてあげる——
ぱき、と小さな音がした。
皇帝の指先を覆っていた霜が——私の触れたところから、退いていた。
玉座の間が、静まり返った。
皇帝が目を見開いて、私を見下ろしていた。凍った湖のような色の瞳が、初めて人間の色で揺れた。
「……そなた、」
どよめきが、爆ぜた。
* * *
その夜、私は皇帝の宮へ召された。
湯浴みをさせられ、夜着一枚で寝所に通された時点で、意味の分からぬ女ではない。戦利品の王女の使い道など、古今、ひとつしかない。
覚悟はしてきたはずだった。それでも寝台の天蓋が視界に入ると、指先が勝手に震えた。凍った三人は、この部屋で死んだのだろうか。凍らなかった私は、これから別の形で戦利品になるのだろうか。
扉が開き、皇帝が入ってきた。昼と同じ黒衣のまま、手袋だけを外している。
震えを悟られることが、何より嫌だった。私は戦利品でも、リュミエールの王女だ。奪われるのではなく、せめて自分から。そう決めて、私は帯に手をかけた。
「陛下。お情けをいただく前に、ひとつだけ、民の——」
「待て」
低い声が遮った。
「勘違いするな。そなたの体に用はない」
あ、と思ったときには帯を半ば解いていて、私は夜着の胸元をかき合わせたまま、行き場をなくした両手ごと立ち尽くした。
安堵が来た。それから一拍遅れて、かっと頬が焼けた。
処刑されずに済んだ安堵と、女としてすら値踏みされなかった惨めさが、いっぺんに押し寄せた。この夜の私の顔は、きっと見られたものではなかったと思う。
「余に用があるのは、そなたの体ではない。——これだ」
皇帝は、自ら上衣の釦を外した。
心臓の上に、それはあった。黒い茨のような紋様が肌に喰い込み、周囲を霜で白く覆っている。紋様は皇帝が息をするたび、わずかに広がって見えた。
「侵食呪、と神殿は呼んだ。三年前、先帝の臨終の儀の夜からだ。以来、触れた生き物は凍る。犬も、鳥も、人も。呪いは年ごとに心臓へ喰い進み、侍医が言うには……もって、あと一年」
なぜ私にそれを明かすのか、と問うまでもなかった。今日、この人の霜は、私の指先から退いたのだ。
「そなたは凍らなかった。それどころか、呪いが退いた。三年で初めてのことだ。そなたは何者だ」
「……分かりません」
私は正直に答えた。分からないのは本当だった。ただ、触れた瞬間に喉へのぼってきた、あの旋律のことだけは覚えていた。
「もう一度、触れてみても、よろしいですか」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。皇帝は虚を突かれた顔をして、それからゆっくりと顎を引いた。
呪印に、手のひらを当てる。氷の棘を素手で握るような冷たさだった。私は目を閉じて、喉の奥の旋律を、声にした。
——ねむれ ねむれ いばらの夢は
——わるい夢は みんな喰べてあげる
母が毎晩歌ってくれた、古い言葉の子守唄。それがただの唄ではなかったのだと知った瞬間を、私は生涯忘れないだろう。
手のひらの下で、黒い茨がずるりと動いた。動いて——私の中へ、流れ込んできた。
「ッ、あ……!」
激痛だった。焼けた針金を血管に通されるような。そして痛みと一緒に、私のものではない「悪意」が流れ込んでくる。冥い祭壇。低い詠唱。玉座に向けられた、粘つく、底なしの何か。
喰べている、と本能が理解した。私はいま、この呪いを喰べている。
痛みの底で、体の芯に熱い泉が湧くのが分かった。力だ。喰べたぶんだけ、私の内側で、何かが確かに増えている。
そして——声が、出た。
「あ……っ、……ん、う……!」
痛みと熱の逃げ場が、声しかなかった。歯を食いしばっても、喉の奥から湿った声が漏れる。皇帝の目の前で。夜着一枚で。私は自分の声を自分の耳で聞きながら、羞恥で死ぬかと思った。呪いより先に、これで死ぬと本気で思った。
どれほど続いたのか。気がつけば私は皇帝の腕に肩を支えられていて、胸の呪印の茨は、目に見えて細くなっていた。
「……痛むのか」
「へい、か……いまの、声は、その、痛みで……」
「分かっている」
即答だった。分かっていると言いながら、皇帝は私から目を逸らしていた。それから彼は扉へ歩き、外の近衛に短く命じた。
「この宮の回廊から人を払え。今後、夜は誰も近づけるな」
人払いが私への配慮なのだと理解した瞬間、余計に恥ずかしくなった。
「そなたの力が何なのかは知らん。だが呪いは確かに減った。——望みを言え。命か、財か、地位か。夜ごとこの呪いを浄めるというなら、応じよう」
命。喉まで出かかって、私は呑み込んだ。代わりに口をついたのは、荷馬車の十日間、ずっと考え続けていたことだった。
「リュミエールの生き残った民を、保護してください。焼け出された者に冬を越させて、捕虜になった者を家に帰してください。……私の望みは、それだけです」
皇帝は長いこと黙っていた。値踏みとも困惑ともつかない目で私を見て、やがて短く言った。
「変わった女だ」
「よく言われます」
「よかろう。契約だ」
浄化を終えた体は、芯から冷えていた。喰べた呪いの冷気が抜けきらず、夜着一枚の肩が小刻みに震える。退出の礼をとろうとしたとき、ふ、と肩に重みが乗った。
皇帝の上着だった。昼の玉座で見た、あの黒い上着。
「……陛下、これは」
「凍えた顔で廊下を歩かれては、余が虐げたように見える」
言い方は、どこまでも不器用だった。けれど。
検分の湯殿でも、薄絹の玉座の間でも、私はずっと「見られる」だけだった。剥かれて、値踏みされて、晒されるだけだった。
この夜、初めて——隠された。
上着は大きくて、重くて、ほのかに冷たかった。その冷たさが呪いのせいだと知っているのは、この宮殿でもう、私だけだった。
こうして私は、ガルドレア皇帝の、夜ごとの秘密の浄化係になった。




