表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/7

【第一幕前半:土間での対話】

 チェーンロックが、外れた。



 金属の擦れる、乾いた音だった。それだけの音なのに、廊下の静けさの中でひどく大きく響いた気がした。踏ん切りがついた音だった。あるいは——踏ん切りがついたふりをした音だったかもしれない。



 扉が、完全に開いた。



 三度笠の男が、そこに立っていた。廊下の奥の蛍光灯が背後で点滅を繰り返している。つく、消える、つく、消える。その明滅の中で、男の輪郭がちらちらと揺れる。道中合羽の肩から腕にかけて、雨の筋が走っていた。三度笠の縁からは今もまだ、細い雫が垂れていた。

 五月の夜気が、湿ったまま、開いた扉の隙間から流れ込んでくる。雨の匂い。濡れたアスファルトの匂い。それにわずかに混じる、どこかの部屋の炒め物の残り香。生活の匂いが、夜気に薄められながら漂っていた。



 真帆は一歩も動かなかった。



 男の全体を、素早く見た。上から下まで。三度笠は古びているが手入れされている。道中合羽の縫い目は丁寧に補修されている。足元の地下足袋は泥が跳ねているが、底の減り方が均等だ——長距離を歩き慣れた人間の足元をしている。腰に刀のような形の荷物があるが、探索者用の武器収納具に見える。

 危険な人間かどうか、という視点で見れば、わからない。探索者なら当然そう見える。でも——



 この男が「危険かどうか」よりも、真帆が気になっていたのは別のことだった。



 なぜ否定しなかったのか。



 ドア越しに「極悪人でございました」と言った時、真帆はそれを聞いて扉を閉めかけた。でも手が止まった。止まってしまった。「否定しなかった」という事実が、足を釘付けにした。

 同情を引きに来た人間なら美談を語る。借金の肩代わりを求めに来た人間なら父親の悪行など口にしない。では、この男は何のために来たのか。



 それが気になって、扉を開けた。



 それだけのことだ、と真帆は自分に言い聞かせた。好奇心だ。父親への未練でも何でもない。全部終わったことだ。ただ、この奇妙な男が何を言いに来たのかを確かめたかっただけだ。



「……では、お邪魔いたします」



 男がそう言って、土間に踏み込んだ。



 そこで——止まった。



 ただ、立った。



 合羽の水が敷石にじわりと滲んでいっても気にする様子もなく、男は動かなかった。座ろうとしない。奥へ進もうとしない。扉の内側ぎりぎりの場所に、ひっそりと収まっていた。土間の端。内でも外でもない、どちらにも属さない場所に、自分が収まるべき場所はここだとでも言うように、静かに立っていた。



 圧迫感がなかった。



 それが真帆には、むしろ奇妙に感じられた。見知らぬ男が夜に玄関に立っているのだから、威圧的に感じてもおかしくないのに、この男にはそれがない。害意がないとか、悪い人間に見えないとか、そういう話ではなくて——この男は、ここより先に進む気がないのだと、立ち姿だけで伝わってきた。



 三度笠を外した。胸の前に、静かに持つ。それから——ゆっくりと、深く、頭を下げた。



「ありがとうございます」



 返事をしなかった。



 真帆は扉に手を添えたまま、男を見ていた。それから奥に下がった。段差を一段上がり、壁際に背をつける。腕を組む。それだけで体の輪郭が少し硬くなった気がした。



 土間との段差は、わずかなものだった。



 それでも真帆の足裏には、その数センチが砦として感じられた。これ以上は入れない。ここが境界線だ。その感触を足の裏で確かめるように、壁に背をつけて、腕を組んで、男を見下ろす。わずかな段差が、今夜の真帆にとっては砦だった。



 扉は——半開きにしておいた。



 意識的な選択だった。自分でもわかっていた。外の雨音がそこから流れ込んでくる。いつでも追い出せる。いつでもこの男を夜の廊下に押し戻せる。その余白を、開いた扉の隙間の向こうに残しておく。この男を「中」に入れたわけではない。玄関だけ、土間だけ、あくまでそこまでだ——その言い訳を、半開きの扉に預けた。



 男は合羽の前をそっと開いた。



 内側から現れたのは、古びたバッグだった。布地は使い込まれて色落ちし、ストラップの縫い目がほつれかけている。あちこちに使用の痕跡があった。長い時間をかけて持ち歩かれてきた、という痕跡が。それでも——



「……濡れてない」



 声が出た。



 言ってから、自分が声を出したことに気づいて、真帆はわずかに唇を閉じた。



 雨の中を歩いてきたはずだった。この男の合羽の肩は今も濡れているのに、バッグには染みひとつなかった。表面を見る限り、雨粒がかかった形跡すらない。それがなぜか——先ほど、扉を開ける前に男が合羽の中をさぐって何かを確認していた、あの仕草を真帆は思い出した。あれは、バッグが濡れていないことを確かめていたのだ。



「お父上の……最期の想いでござんすから」



 穏やかな声だった。感情を込めていない、ということではなかった。むしろ、込めすぎないように抑えているのとも違う。ただ事実を、事実のままに置くような、静かな声だった。



 それだけ言って、男はバッグを膝の上に置いた。



 次の動作は、ごく自然だった。



 合羽の内ポケットに手が差し込まれ、白い封筒が出てきた。それをそのまま、バッグの中に静かに滑り込ませた。音もなく、淀みなく。雨宿りで軒先に入るような、当たり前の動作として。道端で石を踏みしめるような。まるで最初からそこにあったかのように、ごく自然な流れで、封筒はバッグの中に収まった。



「……何をしてるんですか」



 真帆の声に、硬さが戻っていた。



 目が細くなる。壁に押しつけた背が少し前に出る。腕の組み方が、わずかにきつくなった。



 男は顔を上げた。



 笑っていた。



 「穏やかに」という言葉では、どこか足りなかった。表情の全部が笑顔の形をしていた。目も、口元も、眉の角度も——すべてが「微笑む男」を完璧に形作っていた。だからこそ真帆は、一瞬だけ言葉を失った。それはあまりにも完成した笑顔だった。磨き上げられたような、長い時間をかけて仕上げてきたような、一分の隙もない表情だった。

 ただ——目だけが、わずかに遅れていた。笑顔が完成するよりほんの少し後から、目がそれに追いつこうとしているような。その継ぎ目は一瞬のことで、すぐに消えた。見間違いかもしれなかった。でも真帆の目は、それを確かに捉えていた。



 何かを覆い隠している笑顔だ、と思った。



 何を覆い隠しているのかは、わからなかった。



「いえ、何も」



 声は穏やかだった。



「お父上の遺品を、確認しておりましただけでござんす」



 バッグをそっと段差の上に置いた。真帆の足先から少し距離を取って。押しつけない。ここに置く、というだけの動作。



 もう一度、頭を下げた。三度笠の縁が、少し深く傾く。



「探索者として、お父上の最期に、お傍にいることができました」



 沈黙があった。



 外の雨が、少し強くなっていた。屋根を叩く音の粒が大きくなった気がする。どこかの排水管を、雨水がまとまって流れ落ちていく音がする。廊下の蛍光灯が、また点滅した。つく、消える。半開きの扉の向こうから、夜気が細く流れ込んでくる。



 真帆はしばらく、バッグを見ていた。



 段差の上に置かれた、古びたバッグ。雨に濡れていない、父親の最期の持ち物。



 受け取りたくなかった。受け取ってしまえば、この男の用件に付き合ったことになる。父親の何かを受け取ってしまったことになる。でも——突き返す気にも、すぐにはなれなかった。なぜ濡れていないのか、という疑問がまだ頭の隅に引っかかっていた。そしてその疑問は、あの男がバッグを守りながら雨の中を歩いてきた、という事実と、どこかで繋がっていた。



「……で?」



 真帆は、腕をほどかなかった。



 段差の上、壁を背に、男を見据えた。



「美談でも聞かせてくれるんですか」



 声は平坦だった。しかしその平坦さの下で、何かが踏ん張っているのを自分でも感じていた。



「最期まで娘のことを想っていた、とか。ずっとあなたのことを愛していた、とか——そういう話なら、今すぐ帰ってください。聞く気にはなれません。あの人にそういう言葉を使う気にも、使わせる気にも、なれませんから」



 最後の一言は、予定していなかった。言ってから、少し驚いた。



「いいえ」



 男は、きっぱりと言った。



 真帆の言葉が完全に終わるより少し早く。静かに、しかし確かに、その言葉の流れを断ち切るように。



 短い否定だった。でも重かった。



「お父上は——」



 三度笠を両手で持ち、もう一度、深く頭を下げた。




藤崎剛三ふじさきごうぞうは、極悪人でございました」




 二度目だった。



 真帆の体の中で、何かが静かに固まる感触があった。




 ——否定しろよ。




 そう思っていた、とは言えなかった。でも確かにそこにあった感情だった。チェーンロック越しに初めてその言葉を聞いた時から、頭のどこかで「次は否定するはずだ」と思っていた。「いや、実はいいところもあった」「最期には変わっていた」「あなたのことをずっと——」そういう言葉が来ると、半分は覚悟して、半分は待っていた。だからドアを開けた、という部分が、確かにあった。



 でも一度目も肯定で、二度目も肯定だった。



 否定しないのか、と思うと同時に——否定させようとしていた自分に気づいて、真帆は静かに自分に腹が立った。何に腹が立っているのか、きちんとした言葉では整理できなかった。父親に? この男に? それとも——まだ何かを期待していた自分自身に?



「……続けてください」



 声が、わずかに低くなった。



 腕は、まだ組んだままだった。



 扉は、まだ半開きのままだった。



 ただ——真帆は、もうそれに気づいていなかった。



 隣の部屋で、赤ん坊が泣いていた。



 壁の薄いアパートの夜に、その声はよく通った。誰かの世界が、今夜もここで続いている。泣いている命がある。眠っている命がある。それぞれの夜が、この古い建物の中でばらばらに進んでいる。



 男は、少しだけ間を置いた。



 息を吸う気配がした。それから——



「お父上が、どういう男であったか」



 静かな声だった。



「あっしの知る限りを、お話しさせていただいてよろしいでしょうか」



 真帆は何も言わなかった。



 それを肯定と受け取ったのか、男は続けた。



「あの方は……生きるためなら何でもやる男でございました」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ